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オーケストラのチューニングの音が好きなところからいろいろ考えた話。

以前、こんなツイートをしました。

当時はnoteをやっていなかったので、140文字ぎりぎりになんとか収めたのですが、どう考えても説明がなさすぎて何も伝わらないなと思ったので、改めて書きます。

大学の必修に、楽書講読という、英文の論文だったりを全員で訳しながら読んでいく授業がありました。
テキストは先生が用意するので、この文章はどこの誰が書いたどんな出典のものだったか、正直全く覚えていません。
でも、その中の一節だけ、とても印象に残っています。

私は、海外から来ていた友人と演奏会に行った。演奏会が終わり、友人に「どの曲が一番よかった?」と尋ねたら、「最初の曲が一番よかった」と答えた。よくよく聞いてみると、「最初の曲」というのは、プログラムの最初の曲ではなく、オーケストラのチューニングの音だった。

といったかんじだったと思います。古い文献だったので、この「友人」は、オーケストラの演奏を聴くのは初めて、という内容。

まず、私自身がこれに大いに共感しました。
昔から、オーケストラのチューニングの音が大好き。コンサートマスター(ミストレス)のAの一本の音、それに合わせて弦楽器のAが重なり、音が太くなって、隣のDの音を鳴らし始めたあたりから管や打楽器が覆いかぶさってくる。水の波紋のように大きく広がり、波が引くように音が消えていく。そして、指揮者を待つ良質な沈黙が訪れる。
奏者にとってはチューニングという作業なわけですが、これから何かがはじまるという高揚感や、緊張感、熱意みたいなものが、ホールの中を渦巻いて吹き去っていくかんじが、小さい頃からたまらなく好きでした。

だから、「チューニングの音が一番良かった」という感覚は、すごく良く分かる。
チューニングの音が好きな人は、少なくないのではないでしょうか。それがチューニングだと分かっていても、たまらなく好き。だったら、西洋音楽をよく知らない人が先入観なしに聴いて、「一番良かった」と言うのも、私にとってはなんら違和感ない。

これだけでも印象に残るに十分なのですが、更に、先生がこう言いました。

「ここには書いていないけれど、この『友人』というのは、日本人ではないかと、私は思います。」

おお!なるほど!音取ですね先生!!

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大学に入るまで、日本人でありながら日本の音楽に殆ど触れてこなかった私は、その格好良さにすっかり当てられて卒論は歌舞伎で書くに至るわけですが、
その頃特に入れ込んでいたのが雅楽でした。

雅楽に「音取(ねとり)」というものがあります。これ、簡単に言ってしまうと、チューニング用の曲なのです。

雅楽には6つの調子があるのですが、それぞれに音取という短い曲があり、演奏する曲の前に必ず演奏します。たとえば、お正月にお馴染み《越殿楽》でいえば、「平調」という調のものが最も有名で、平調の音取を演奏してから《越殿楽》の合奏をはじめる、といった具合。
音取は拍子がなく、楽器の音合せと、曲に入る前に場の空気をその「調子」の音で満たす、といった役割を持ちます。

で、この音取が、それはそれは良いのです。

楽譜がある決められた様式なのですが、フリーリズムだからこその不完全さが醸し出す魅力、
音取と同様の役割を持つ「調子」なんて、笙と篳篥がカノンで重なっていって(退吹・おめりぶき、という)
混沌の音の渦、まさにカオス。文字で書いても限界があるので聴いてほしい。

いやはや、たまらん。

もともとはチューニングとしての役割だったものが、様式として確立し、ひとつの曲として欠かせないものとなっている。
そういった、はじまりからおわりまでの空間・時間・所作、全てに美しさを感じ、粋を求め、愉しむ、
そういった「日本人の心」とでもいえる感覚が、文化のアイデンティティとして私たちに染み付いているとしたら、
チューニングを面白がる感覚も、もしかしたら、それに基づいているのかもしれません。

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うーん、でも、ちょっと待てよ。

「これぞ日本人の心」みたいに書いちゃったけど、
私は小さい頃からチューニングの音が好きで、音取を知ったのは大学生になってからだし、
もしこの感覚が、知らず識らずのうちに日本で生まれ育ったことを背景に培われたものだとしたら、それはそれでおそろしい。

私たちの思考や感覚が、どれだけその国に生きている文化に影響されているのか、考えたことがなかった。
もしかしたら、私の感覚って、自分が思っている以上に常識とか当然に囚われているんじゃないかしら…?

喜怒哀楽美醜善悪、同じ人間とて、絶対の感覚は、たぶんない。
国や文化や生きている時間が違えば、自分の当然が当然じゃなくなることが、当たり前のようにある。世界中の音楽の多様さが、私にそれを教えてくれました。

自分が思ってもみない、違う視点があるかもしれないこと。それが当然と思う人も、いるかもしれないこと。
そのことに気付いていれば、いろんな人のいろんな見方を、ひとまず面白がることができる。そして、その上で選び取った私の「好き」を、より大切にできると思うのです。

世界中のいろんな人の、いろんな考えを、手の中でいとも簡単に得ることができるようになったからこそ、
いろんな感覚をまずは面白がって、それから自分なりに考えてみること。
広い世界の多様な人々となめらかに繋がるために、心に留めておきたい
と、日本の片隅に生きていながら考えるのでした。

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