見出し画像

天皇について

今回の俺が代は、「さよなら平成ツアー」ということもあり、この「天皇」についてよく話をしている。

実は、これまで何回も再演を重ねながらも、僕は未だに天皇の扱いがわかっていない。天皇の政治的な意味や、制定当時の天皇が置かれた状況については、ある程度の議論を追いかけているつもりだが、やはり、「象徴」というのは何なのか? 天皇は根本的にどのような存在であるのか? について、「これ」というものを掴めずにいた。

しかし、今回は少し変わるかもしれない。

まず、大日本帝国憲法と日本国憲法の第一条を比較してみる。

大日本帝国憲法
大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
日本国憲法
天皇は日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であり、その地位は主権の存する日本国民の総意にもとづく。

日本国憲法が言う「象徴」は、とても理解が難しい。もちろん「意味」はわかる。しかし、「人」が「象徴」となるとはどういうことか。しかも、それが「国民統合の象徴」とは? この腑に落ちなさは、そのまま天皇に対する腑に落ちなさへとつながる。それよりも、「統治」者と規定された大日本帝国憲法の方がはるかにシンプルだ。

しかし、この条文を「天皇」についての条文としてではなく、「天皇と国民の関係」を記したものであるとして読むと、そのニュアンスは変わる。

 日本帝国憲法において、今で言う「国民」は、すべて「臣民」として表記されている。国民は、天皇の下僕であり、天皇は臣民の統治者であった。しかし、戦後、新たに生まれた「国民」が主権を持ち、「代表者を通じて行動する」ようになる。主権が移ることによって、「国民」が変わったから、天皇は象徴として機能するのみの存在へと落ち着く。


この条文を、主権を持つ国民の側から、「象徴天皇」を見れば、その意味は大きく変わる。とても卑近な例で言うなら、氏子がみんなで担ぐ「神輿」のようなものにそのイメージは近い。神輿があったほうが、祭りは盛り上がるし、楽しかったりする。ここで、天皇は、そのような存在として、国民から規定されているのかもしれない。

すると、第二章が戦争の放棄である理由もなんとなく、理解できる。

というのも、憲法の眼目がこの第九条であるならば、これが第一条であってもよかったはずだ。しかし、起草者たちはそれを選ばずに天皇を優先することを選んだ。それは、国民が主権を持つ=天皇は統治者ではない、ということを宣言した後でなければならなかった。だから、あえて、「日本国民は」という主語が入っているのではないか。

「『(主権者たる/臣民ではない)日本国民は』、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」

第一章において「被統治者=臣民」ではなくなったことで、天皇の役割を変えた。そして、その「日本国民」が発するのが「戦争の放棄」であるという意味なのかもしれない。


かもめマシーン「俺が代 さよなら平成ツアー」
4月19〜20日 愛知県芸術劇場 小ホール
4月27日〜30日 早稲田小劇場どらま館
5月5日〜6日 アトリエ銘苅ベース(那覇)


かもめマシーンの活動は応援してくださる方々に支えられています