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戯曲には「言葉」が書かれている

元々、「言語では表せないもの」「言語から漏れ出てしまうもの」を捕まえたいというのが、演劇を行う上でのモチベーションとなっていた。自然、言語よりも声であったし、言語よりも身体に重きを置いてきた。極論すれば、言語なんて聞こえなくてもいい。それよりも、息遣い、呼吸、声、そして、それを発する身体が見えることが重要であった。

でも、それはどうも異なっているんじゃないかと最近思うようになっている。それは、「言語」には、「文字」と「声」だけでなく「言葉」というレイヤーがあることに気づいたからだ。

おそらく、参加者が戯曲を読む「リーディングパフォーマンス」という形の作品を発表し、俳優を使うことを前提とせずに、戯曲を読むということに取り組んだことも影響しているのだろう。戯曲には、文字ではなく、「言葉」が書いてある。

「ありがとう」というセリフが文字として書かれている。でも、それが発話される可能性は無限にある。「ありがとう」と「ありがと」は違うし、「ありがとうございます」と「あざっす」は違う。求められる発音、息遣いは異なる。それは、「文字」が書かれている戯曲には載っていない。だから、それを演出家や俳優は読み取ることが求められる。

ただ、戯曲には文字だけでなく、「言葉」が書かれている。

この場合、言葉とは「ありがとう」という言葉が、その人の中で、あるいは日本語の歴史においてこれまで使われてきた時間のことだったりする。言葉は現在だけに属するものではない。それは共有物であり、そこには共有物として緩やかに変化しながらも形づくられてきた歴史が存在する。そんな「言葉」を、人は自分の言語構造・概念構造の中に取り込み、手触りのある「言葉」として使用する。

文字には形があるけれども、言葉には形がない。それは、連綿と受け継がれてきたイメージであるからだ。だから、それは「個人」というレベルにおいては、どうしようもすることができない。

中島岳志は、著書『保守と立憲』において、「死者の民主主義」という概念を提唱し、死者の上に憲法が立脚しているという「保守」の観点を提示する。考えてみれば、言葉も、死者たちの集合知として受け継がれてきたものである。

でも、それは「美しい日本語を目指しましょう」ということでは全然なく、「正しい言葉遣いをしましょう」ということではない。全く、そういうことではない。

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