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5/29の思い出・備忘

素晴らしい日をここに記しておく。思い出と比喩練習、日記。

朝起きたときから一味違っていた。とにかくここ数日悩まされていた起き抜けの頭痛が無かっただけで最高なのに、まだ眠気でさびつく身体をよじって窓の外を見ると、雲ひとつない快晴(が目の前のオフィスビルの窓に映っている)。枕元のエバーフレッシュもさわやかに濃い緑を揺らす。そしてなんと言っても今日は有給である。
最近「パジャマ」を着るようになった。今まではヒートテックにゆるゆるのジャージを着用し、起床在宅仕事食事お風呂入ってまたこの服着てマリカあつ森就寝、という感じで家からほとんど出ずに自粛生活を粛々と暮らしていたが、なんか段々仕事と島の生活の境目がなくなってきて、テレカンしながら上の空で崖を作ってたり、夕飯の食器洗いながら明日に持ち越したはずの資料作成のことを考えてあり得ないほど憂鬱になったり、夜寝る前に動悸がしたり(やば)と、かなり精神バランスが崩れてしまった。綿々とした生活の流れを「移動」という手段で区切れなくなってしまった今、せめて「衣服」でメリハリをつけようと思い立ち、とりあえずカワEパジャマを採用してみた。これがなかなか良くて、このカワEパジャマ着るから風呂はいろ~と思える(ここ最近3日に1回にしてた。「意味がない」ので)し、これ着たらもう仕事せん。。(眉間コネ顎下さすさす)という気持ちになるのでストレスがかなり減ったように思う。少し前まで取引先から電話の折返しが来ないだけで「(´Д`)ハァ…なめられてんだな…私が女だからか…?」という謎の鬱に入っていたのが「ゴミカス!!…まぁいいか♪」と思えるようになった。成長。
身体を起こしてよだれを拭き、カワEパジャマを脱いで洗濯機に入れ、その他枕カバーや目についたタオルも全部収穫して同じように放り込みスタートボタンを押す。腹をすかせた大型犬のように唸る洗濯機を横目に、コップに炭酸水を注いで飲む。起きてすぐPCを立ち上げなくて済むのがこんなに素晴らしいことだとは。深夜3時に眠り始業時間ギリギリに起きるのが常なので、ブルーライトより先に朝日を浴びるのすら久しぶりだ。そう、今日は久しぶりの有給、そして久しぶりのひとりきりでの外出。

↓ここから本番

家事をすべて終え、いつかの無印週間のときに買っておいたレトルトパウチの魯肉飯を温めて食べてから、ザラのサマーニットにコンのワークパンツに着替え、サンダルを履いて外に出る。
ふと思いついたように夏が予行練習しに来たような日だった。マンションエントランスの重いドアを押し開けると、吹き込んでくる身体の周りの空気すら数段明度が上がったようで、カナリアの羽のように鮮やかな青を背にした並木の燃える緑が目に眩しい。剪定されず伸ばしっぱなしの枝の先に競うようにせり生えた若葉の、ゼリーのように透けた萌黄が素直に通す昼下がりの光が網膜の底を丁寧に浚う。行き交う車がおこす風が、九段下を行き交うスーツ姿の大人の頬に僅かな涼を投げかける。緊急事態宣言が解除されたからと言って胸を張って出歩けるわけじゃないが、じりじりと焼ける肌をかばって日陰に逃げ込み、信号が変わるのを待つこの静かな興奮は私のもの。大きな鯉のように口を開ける地下鉄の入り口から、気の早い冷房の風が、私に巻かれた髪を梳く。はやる気持ちを抑えて、Tevaの厚底で慎重に階段を踏みしめる。ちょうどその頃に私の頭上を6隻の銀色が駆けていたことを知ったのは薄暗い東西線の中でツイッターを開いた時だった。

門前仲町からはバスに乗る。東西線を降り4番出口から地上に出ると、思いの外往来には人が多い。交差点のそばのバス停群の中、東京テレポート行き都営バスは図太い猫のようにごろりと横たわって、運転手の出発の合図を待っている。時間はいくらでもあるし待ってもいいやとふんで時刻表を調べていなかったから、これ幸いと急いで飛び乗る。小気味良い電子音で料金を支払い、奥の窓際席に滑り込む。乗客は少ない。ちりりと痛みに似た喉の乾きに気づいて、駅で買ったいろはすを開け、マスクをおろして手際よく腔内に流し込んだ。水の冷たさが歯肉にしみた一瞬が、私に自分の歯の形を教えてくれる。
しばらくして、バスは発車した。乗り物が重い腰をあげるときの、優しく背もたれに押し付けられる感覚が好きだ。ゆっくりと眼前を流れていく門前仲町のまちなみ、並ぶチェーン飲食店と少し古いビルたち、その少し褪せた色調が、はしゃぐ晴天にコントラストを高められて否応なくテンションを上げさせられているような眺め。郷土博物館のガラスケースに飾られた陰鬱な古い絵巻物のように、不本意な「それらしさ」が浮かび上がる。
越中島、塩浜一丁目、東東雲交差点…新しそうな中学校、やけに広い空と戸数の多い綺麗なマンションが並ぶ、海の気配がする住宅街を抜けていく。綺麗に植えられたつややかな植栽と疲れた横顔の公営住宅が、余すことなく太陽に照らされて乾いたきらめきを返す。換気のために開いた窓から緑の香りが流れ込んで、とても心地よい。都橋住宅前でバスが停車した時、私は降りる乗客の中に若い女性というより女の子と薄汚れた小柄な老人が腕を組んで降りていくのをみとめた。孫とおじいさんだろうか?ピンク色のTシャツを着て、軽そうなパーカーを腰に巻いた細身の女の子は、自分よりも背の低い老人がステップを上手く降りられるように手を引く。平日の午後、病院の外来の帰りだろうか。私はそこに、高校時代に授業をサボった昼下がりに、どこかも知らない街を歩いている途中に見かけた散歩中の園児たちの連なりを思い出す。水色のスモッグと黄色い帽子の粒粒を先導する、使い勝手の良さそうなエプロン姿の保母さんをいまも覚えている。騒がしい高速道路の高架下。自分と一切の接点を持たない世界が、その空間にだけたまたま居合わせて、またすれ違って離れていく切片。日向をゆっくりと歩いていく二人が車窓の後方に押しやられていくのを目の端で見送った。

お台場海浜公園で下車し、歩道橋を登って東京デックスのデッキを歩くと、すぐにレインボーブリッジが目に飛び込んでくる。真っ青な空に、白い絵具をべっとりと含んだ絵筆を突っ込んだあとのような大きく蟠る夏の積乱雲、真昼間の遠い蜃気楼のようにゆらぐビル群の薄いラムネ色と曖昧な境目を保つ白い見事な大橋は、夜景とはまた違う、どちらかといえば平然として、利発で、退屈を隠そうとする顔をしている。人で賑わうはずのテラス沿いのモールは全て締め切られ、逃げ場のないデッキは常夏のように暑く、そしてまるきり静かだった。それも死んだ静かさではなく、熱帯の生の熱をはらんだしじまであり、むしろ今までの、多くの観光客に覆われてたこの島は本当は死んでいたのではないかと俄かに思わせる、堂々として無邪気な、のびのびとした海べだった。美容院に行けずカラーの落ちかけている髪に落ちる日差しが燃えんばかりで、私は額に軽く手をかざし、海浜公園の方へ階段を下って行った。
砂浜はオリンピックの競技会場設営工事が途中で中断されていて、空っぽの工事宿舎や放り出された鉄骨は、目の前にそびえる白い優雅なつり橋や、海に浮かぶ緑を宿した鳥の島とは甚だ不釣り合いだった。アマゾンの奥地に転がる、つたの絡んだ猫車のように。打ち寄す波の笹縁に近づこうとしたが、浜辺は白いフェンスで阻まれていてそれは叶わなかったので、諦めて海を横目にしばらく木陰をもつ遊歩道沿いに歩いた。すごく気持ちがいい。早くも実をつけた松、低木、その下に茂るどくだみの白い小さい花。匂いを知っているから、鼻を近づけようとは思わないが、小鳥の足跡のようにさりげない愛らしさに目が留まる。
少し小高い場所にあるベンチに腰掛けて、改めてゆっくりとレインボーブリッジを眺める。日に炒られた香ばしい風が吹いた。それにしてもなんて、なんて美しい建造物なんだろう!私はレインボーブリッジが大好きだ。愛していると言っていい。私にとってそれは都市性の象徴であり、憧れであり、セーブポイントでもある。東京湾の水平線の突き当りから湧き上がる大きな野性的な雲と、理知の結晶としてのビル群、その均衡を丁寧にとる大きな吊り橋。白い輪郭が時折蠢くのは陽炎ではなく首都高を走る車のせいだ。暫く涼みながら水を飲み、暫くそこで落ち着いた。ここで読みたかった本があったので、鞄から取り出して開く。ブックオフで購入した文庫本は栞紐が千切れていたので、適当な紙を挟んでおいた。

三島由紀夫「春の雪」は、豊饒の海という4部構成の長編小説のうち第一部にあたる。輪廻転生を主題にしたこの大長編は、侯爵の子息松枝清顕と伯爵令嬢聡子の禁断の恋からはじまる。禁断の恋はいつか転落する運命にあるが、罪という玲瓏な離宮に同棲する二人の美しさ、無論それだけではなく物語を縁取る仏教や異国の王子が持ち込む亜熱帯の風、友人本多の暗く厳めしい法の思想、それらの描写の一呼吸ごとに匂い立つ精緻さは晩年の三島由紀夫の集大成に違いない。私が惹かれた文章を引く。清顕の世話役の書生飯沼が、聡子との逢瀬を取り持つ腹心として抱え込まれたのちに、女中みねと飯沼との逢瀬を清顕が戯れ交じりに繕ってやったときの場面。飯沼が月に1度鍵を借りて大事に掃除している松枝家祖父の書斎を、彼らの密会のためにと清顕が貸してやったのだ。

"さっきこの親切な計らいを述べ立てた清顕の口調には、すぐそれと知られる冷たい酔いがあった。飯沼がわれとわが手で神聖な場所を瀆すことになる成行を清顕は望んだのだ。思えば、美しい少年時代から、清顕がつねに無言で飯沼を脅やかしてきたのはこの力だった。冒瀆の快楽。一等飯沼が大切にしているものを飯沼自身が瀆さねばならぬときの、白い幣に生肉の一片をまとわりつかせるようなその快楽。"

冒瀆の快楽、私はそれをまだ味わった事がない。プールでこっそりおしっこしたことすらない私が、白い幣に生肉をまとわせるような甘美な冒瀆をこの先貪ることがあるだろうか?例えばこのレインボーブリッジの純白を自分の血で汚すことができたって、到底快楽にひたれそうにない。それはレインボーブリッジを神聖視するまなざしの弱さに由来するかもしれないな。信仰の希薄、どれだけ愛する人を犯しても、いや、「人間」はもはや人間にとって絶対的信仰の対象とはなり得ないから、瀆すことができる存在すらこの手の届く範囲には存在していないに違いない。

それでもこの心地よい一日をどうしても留めておきたくて、こうして文字を書いている。日が傾くころ、もう少し涼んでいたいと名残り惜しい気持で海浜公園を後にした。夏の予行練習は滞りなく、私の肌に少しの褐色と汗をもたらして。沈む太陽と共に引きあげていく。夕日を思うさま浴びる無人のゆりかもめに乗り、帰宅してすぐシャワーを浴びた。夕食もそこそこに残り150ページ程度になった「春の雪」を一気に読んでから、こうしてnoteに文字を打って、そのうち疲れて寝てしまうだろう。私は文字が好きだ。いつもと毛色が違うけど、これはこれで良い。

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