見出し画像

ぼくらには出番がなかった

MNHの小澤です。

2013年1月。
「東北に若者の雇用をつくる株式会社(以下、東北雇用)」の秋田本社の設立で散々な思いをしたが、ぼくらは懲りずに、今度は宮城での展開を考えはじめていた。

もともと東北雇用の本拠地の庄内町と「南三陸町」とは “姉妹都市”である。
南三陸町は、ご存知のとおり、東日本大震災で津波に飲まれ、壊滅的な被害をうけた町だ。

震災の当日に、庄内町の副町長と商工観光課長が、連絡のとれない町の人を危惧し、支援物資を車に積み南三陸町まで駆けつけたという。そんなゆかりの深い町だ。

東北雇用としても、何かつながりをつくれるかもしれない。
そう思い、庄内町に南三陸町の町長を紹介してもらい、会いに行くことにした。

南三陸町の町長と副町長を前にして、ぼくらは東北雇用の趣旨を訴えた。
町長さんたちは理解をしてくれ、町おこしを担う気鋭の集団を紹介してくれた。ぼくらは早速その若い人たちに会いに行った。とは言っても、当時の私と同じ歳かちょっと上かというくらい。そして彼らに「復興のために町の人と一緒に新しい事業を展開するのはどうか」と持ちかけたのだった。

しかし、現場の方の印象は…

「支援なんかもういらないのかなぁ」

一言でいえば、そんな感じだった。

たくさんの支援が欲しいと思っている、と思いきや、支援という点では全然困っていなかった。
そういう想いは、ぼくらの思い込みだったようだ。

訪れた時は、震災からすでに1年半以上経っており、復興のめども粗方たっていた。すでに多くの支援や資金が流れていたのだろう。

そもそも震災直後から、国をはじめ、あらゆる自治体や企業、個人までが、被災地に対し多大な支援を行った。しかし多すぎるとそれを捌くのも疲れてしまうし、断ることも出てくるのだろう。
そんな状況では、援助を当たり前と思ってしまうのも仕方はないのかもしれない。

もちろん、彼らにとって震災は想像を絶する惨事で、津波で多くの命を失い、悲しみや先の見えない苦境が続いているのは重々承知している。


だがいずれにせよ、対等な立場では事業はできないし、おそらくする気もないだろうし、ましてや、ぼくらのような新参者に対し、警戒心も強かった。
これまでさまざまな協業のアプローチを受けるなかで、最初はいいことをいっていても、途中で裏切るような人もいたのだろう。ぼくらの提案に対しても半信半疑のようだった。

さらに彼らと話をしていくなかで、復興に対し、もっと大規模な支援を求めているのではないか、という気もしてきた。

最終的には、「ぼくらとステージが違う」と悟った。
わざわざぼくらが入っていってやるものではない。ニーズも違うし、求められてもいない。
ここで事業を展開するのは無理だ、出番はないと。
結局、2度ほど行ったが、一緒に組めるような団体は他にもいない気がした。
こうして宮城への進出を模索するも、その早い段階で潔く諦めたのだった。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?