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オッペンハイマー〜映画の尺と偉人の矛盾

算数の文章題ができなかったのは、私かバカなのではなく例題の日本語がなんだか違和感だらけだったからだ

たとえば一郎と二郎が池の反対方向を回って合流するのは何分後といった現実が、はたして日常の中にあるだろうかといった疑問を小僧ながらに抱き、思考が止まってしまったのだった

理科もよくわからなかった、何がわからなかったのか思い出せないくらいわからなかった

そういう学力のなさなので、高校の数学、化学、物理となると限りなく透明なゼロに近かった

映画の中で数式が音符に見えるという台詞が出てくるか、アラビア語とかペルシャ語あるいは梵字にしか見えない

『ビューティフル・マインド』とか『博士の愛した数式』とか、映画自体のよさとは別に、数学の浪漫を理解しようと思っても無理な相談であった

ところが、社会に出てから何の役にも立たないかというと決してそんなことはなく、私の知る限り、物事を論理的、本質的に捉えられるのは理系のアタマの方であり、少なくとも数学的な逸材を何人か知っている

オッペンハイマーも当然その部類の最右翼だが、政治的社会的な人間であることが悲劇だったのだと思う(と思う)

左翼的な人間ほど権力を求めて闘う、共産党員とはならず、政府に協力、国策に挺身した人生は典型的な国家社会主義社会者だ(と思う)

利用されたことに憤り、平和主義を貫こうとするのも、逆に大衆迎合的な日和見であって、あまり共感ができない(と思う)

ひとが一本の映画に付き合える時間にも限りがあって、尿意を堪えきれず2時間過ぎでトイレに走ったり、戻ったら眠くなったりと波瀾万丈だった

いまひとつ腑に落ちなかったのは、自分が私立文系の落ちこぼれだからだろうか

ユダヤ人のことについてはまた改めて考えたい



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