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書く、無理じゃない範囲で

わたしの言葉に価値はないというか、誰の胸にも染み入るような、そんな重みはない。
そりゃ20年そこらしか生きていないんだ、当たり前だ。
でも、誰かの本当の意味での「誰か」の言葉に救われたことがお前もあるだろう?
それは母親だったかもしれない。姉だったか?友人だったかも。
好んで読んでいた小説家の言葉か?恋人のくれた言葉か?校長先生の修了式で語られた言葉か?

今はネットで見つけた本当に何も知らない「誰か」の言葉に触れられる時代。
誰の言葉に触れても良いし、わたしの言葉がそれと同じ様に誰かに触れられる事もある。
その果てしない自由に、わたしは思わず泣きそうになる。
文字は、わたしの知っている世界のどこよりも広くて自由だ。

わたしがネットで見かけた名も知らぬ誰かの言葉に心を動かされた様に、
会った事も無い小説家の作品の世界観を自分の思想に取り入れている様に
わたしの言葉も誰かに届くことがあるのだと気がついてから、
書いた文章をネットみたいな誰でも見ることのできる場所にあげるようになった。
頻度は多く無いから、精度は上がらないし人の目につく事も少ない。
このままではわたしの書く文章では誰かの心に触れることはないだろう。

本当はもっと書きたい。
どの場所に行って何を思ったか
何を食べてどう思ったか
何を読んでどう心が動いたのか
誰と出会い、その人がわたしの何を変えたのか

これはその気持ちを整理する為に、自分の中で確かめる為に書いたもの。

誰かに伝えるために書くわけではないけど、
わたしの書くものが誰かの目に止まり、その人の心を動かす事ことがあったら、それはとても素敵なことだ。
価値はわたしが決めるものではなく、誰かが生んでくれるものだ。
わたしはただ読み手が困らない程度の丁寧さで文章を綴り、それをネットの海に投げてゆくだけ。
わたしと同じことをしている人がこの世にはどれだけいるんだろう。
ただこれはボトルメールと同じ。たどり着く浜辺を誰も決めることは出来ず、予想もできない。
海は広いのだ。私たち人間にその広大さを知る手立てはない。
だから今も昔も人は海の向こうに夢をみる。

昔々、わたしのことをフォローして記事を読んでくださってた人たち、ありがとう。これから頑張って書いてくので(多分)またみてくださったら嬉しいです。

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