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書けない原因~ミーナのピンチ日記~


今日のテーマ

書いても書いても納得いかないので、今日は開き直って「書けない」という状況に対する葛藤と、そこからなんとか這い上がろうとする私の感情や考えをそのままま記事にしようと思いました。「読みたい」と思って下さる方がいるかは甚だ疑問ですし、そういうのは普段日記帳に書いて頭を整理して自己解決しているのですが、あえて世に出してみようと思います。

今日は私が普段書いている日記帳を覗き見する感覚で読んでいただけたらと思います。まわりまわって誰かの癒しになっていれば…と1%の希望を残して書きます。

「書けない」状況とその原因

では、今の私の状態を説明するところから始めます。
私は昨日から下書きを3本書き、全部自分にとってイマイチだったため、投稿できていない状態です。noteを書く方のあるあるだと信じています(笑)
何を書いても納得できないのです。
それは、誰かの為になるような記事内容ではなかったからです。
とここまで書いて、書けない原因に気づきました。
今の私は「自分」ではなくて「外」に視点が向いていて、一種の自己表現の場であるこのnoteも「誰かの為になっていなくてはならない」と思っているという事です。

私が落ち込んだり、不安になったり、自分が納得できない自分になっている時は、大抵「外」に視点が向いています。他人の視線や自分に対する評価を気にしているのです。

一般的な価値観とのズレ

先日ある方から、「あなたは世の中の一般的な型にはまっているのが辛いんじゃないか」「日本で生きていて生きづらくはないか」「○○するべきではないに囚われているんじゃないか」と言われました。前提として私は全然型にはめられている人間ではありません。その証拠に「変わっているね」とよく言われますが、それでもある程度自由に生きさせていただいている、それを個性だと許されている幸せ者だと思って感謝しています。

ですが、その方の言う通り、私はなんとなく自分にとって一番しっくりくる所を自分の感覚的に確信していて、世間一般と私の感覚にズレがあるところで窮屈に感じる事が多い気がします。もしかしたら、私だけではなく全員そうかもしれませんが。ですので、「他人からどう思われているか」、「他人が自分の事をどのように評価しているか」を気にして行動を起こすというのは、私にとって「合わない型に自分を無理やりはめ込もうとする」ような事です。

まわりの感覚VS自分の感覚

時には周りに合わせることが大事なのはわかっています。特に日本は集団意識が強い国ですから、ほかの国よりも協調性やチームワークがかなり求められると思います。そしてそれは、私が割と得意とする事だと思います。

学生時代から何かのリーダーになることがありました。ですが、女子寮長をしていた時、男子寮長に「どちらかというと支える方だよね」と言われました。大学のサークルでは副部長をしていましたが、私の家まで相談にきた部長の話をよく聞いていました。リーダーになっても決断をする、責任を取る、導く、というよりは、人をつなげたり、仲介したり、相談役になる事が多かった気がします。チームやグループが和気あいあいと仲良くしているのを見るのが好きだからです。

ですが、物理的に一人になって自分語りをする、自分を表現するという状況になった時は違います。そういう時は、私は自分に妥協したくない、嘘はつきたくない、一切の曇りない私でいたい、ピュアでいたいと思っています。ですので、最初の話に戻りますが執筆をする時に、「○○しないほうがよい」「テクニックとしては○○が良い」「読者に読まれるものを書くには」という類の事を考えると、窮屈に思えて途端に筆が進まなくなるのです。

ですから、既に私の文章は読みにくいとか思っている方がいるかもしれません。ごめんなさい、なかなか直せないところだと思います。執筆は一種の自己表現の場だと思っているので、私の優先順位の最高位にあるのは、「自分が納得する」ことであるからです。

おわりに

今日は完全に自己満足、自己完結型の日記になってしまいましたがここまで読んでくれた方、本当にありがとうございました。自分が心から納得できて、且つ読者の方々の力になれるような記事をコンスタントに書けるようになりたいものです。

どうぞこれからもよろしくお願いします。




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