見出し画像

短編小説『もの忘れをなくす方法』

 彼はもの忘れが多かった。


 お医者さんが言うには、これは認知症のような病気ではなく、単なる「もの忘れ」らしいが、それにしても病的なくらい、彼は色々なことを忘れやすかった。
 例えば、財布や携帯を忘れるのはむしろ当たり前のことで、移動でのバスや職場で忘れるのならわかるけど、ポケットに入れたことさえ忘れる。それに、彼は何か手続きで自分の年齢、性別、住所、名前みたいな個人情報を書く時、それらをすっかり忘れてしまう。漢字が思い出せないようなド忘れはだれにでもあるけれど、彼はそうじゃない。そもそも、そのことを知らないみたいにすっかり忘れてしまう。彼の忘れかたは、「何かを忘れる」というよりは、それらへの「意識が全く無い」と言うほうがふさわしかった。

「あれ、夜ご飯」
「さっき食べたでしょ」

 まるで老夫婦のような会話が私たちの間では交わされた。でも、私たちは一緒に暮らしているだけでまだ結婚はしていないし、まだ二十代。そして驚くのは、彼は夜ご飯の食器を洗いながらそう聞いてきたこと。きっと、どうにかできるものじゃ無いんだ。
 でも、むしろ私にとってそのくらいひどく忘れているほうが、彼だと思えてどこか安心した。


 それに彼には、絶対に忘れないことがいくつかある。その一つがガラスについての知識。彼は地元の工房でガラス職人をやっていた。彼は彼の父親から受け継いだガラスの食器を、毎日ひたすら作り続けていた。幼い頃から父の姿を見ていた彼にとっては、ガラス職人になるのは当たり前で、彼は生涯、それ以外の仕事を一度もしたことがなかった。
 彼の作る器は父親の作った作品そのものだった。そのうえ彼は、職人になってから一度も失敗したことがなかった。他の職人でさえ失敗はあるのに、彼は何も考えずとも、完璧なガラスの器を作り続けた。だからガラス職人は彼にとって天職だったに違いない。
 


 ある日、仕事から帰ってきた彼はリビングに来ると、カバンをソファーに置いた。そこまでいつも通りだったが、彼は「カバン」と呟いて、それを指差した。その奇妙な行動に、私は首を傾げた。

「今日言われたんだ。」普段、自分から言葉を発することのない彼が、私の顔を見て言う。彼に見つめられたのが久しぶりで、少しドキッとした。

「なにを?」

「もの忘れが多い人は、何かする度にものの名前を言うか、それを指差すと忘れないんだ。」


 きっと工房の人に言われたのだろう。彼の言葉にはいつも主語がなかった。私は彼に言われて、さっきの奇妙な行動の意味を理解した。
 

 それから彼は何か行動を起こす度に、ものの名前呟いたり、指差しをした。最初はすぐにやめるのかと思ったけれど、彼は三日、一週間、一ヶ月と続け、ついに三ヶ月もそれを続けた。最初は変だなと思いながら見ていたけれど、彼がそんな風にもの忘れを治そうと頑張っている姿を見ると、応援したい気持ちが強くなった。


 そして、だんだんと効果はあらわれた。
 その時彼は、恐らく人生で千回以上はなくしている財布を、また見失った。いつもならふらーっと歩いて、結局、私が見つけるという流れだが、今回、彼はスッと立ち上がったかと思うと、自分の部屋へ一直線に向かい、財布を手に戻ってきた。

「財布は机の中に入ってた」彼は言った。
「これでもう大丈夫だね」

 応援していた。だけど、少し寂しかった。彼がどんどん遠のいていく感じがした。このままでいいのにと思うけど、もう手遅れだ。
 


 それから彼は、仕事で初めての失敗をした。そして次の日も、また次の日も失敗をした。今まで何も考えなくてもできていたことも、一度失敗して、考えれば考えるほどできなくなっていた。今まで、まるで呼吸するように当たり前にやっていたガラスを捻ることでさえ、変に力が入ってしまって、いくつも失敗作を作ってしまった。
 
 それから間もなくして、彼は私に別れを告げた。なんの前触れもなくて、理由を聞くと彼は、


「今までどうやって過ごしてきたのか全然わからないんだ。そもそも、僕たちは恋人だったのかな。」と答えた。


 確かに私たちは、幼なじみで幼い頃から一緒に過ごしてきた。だから、付き合うとか好きだとかいう言葉を、どちらとも言わずにここまできてしまった。だけど、彼と私は、キスを交わし、セックスをし、一緒に暮らした。私はそれが世間一般で言う恋人なんじゃないかと思ったけれど、そう思っていたのはきっと私だけだったんだろう、彼に言われてはじめて彼の気持ちを知った。彼は今まで、私を恋人と意識することなく、キスを交わし、セックスをし、一緒に暮らしていた。私は彼の言葉を受け入れ、彼は家を出て行った。

 それからしばらくして、私は人伝いに彼の死を知った。その時私は水の入ったグラスのコップを持ちながら友人と電話をしていた。
 彼は私と別れた後、工房をクビになり、心をひどく病んでしまったらしい。そして、彼は頻繁に鏡の前で自分に問いかけ続ける、という奇妙な行為をしていたという。無口だった彼からは想像もつかない話だが、本当の話なのだろう。そうして彼はある日、たくさんの睡眠薬を一気に飲んで自殺した。彼は無意識に戻りながら死んでいった。

 彼の死体のそばにあった遺書らしきメモ紙には、私宛てに、こう記してあったそうだ。

「僕はもうすべてを思い出せなくなってしまった。」

 その遺書のことを聞いた時、私の目からは涙が溢れた。持っていたコップは、私の手の中で温かくなっていた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?