見出し画像

掌編小説-あやまる彼について-

 彼の口癖は「ごめん」とか「すみません」とか、とにかくそういう類のものだった。特に謝る必要がないものに対しても、彼はひたすらに謝罪の言葉を繰り返していた。多分、出会った頃からそうだったのだろう。私たちがどんな風に出会い、どんな言葉を交わしたかはもう覚えていないけれど、ただ一言目に放った「すみません」という言葉だけが強く印象に残っていた。

 ある朝、私は出勤時間になったので彼を置いて部屋を出た。家を出る寸前でも、彼はぐっすりと眠り込んでいた。声をかけても何も返事はしない。昨日は酔って帰ってきたから仕方がないが、この家に転がり込んできたのは彼の方で、それなのにも関わらず、日頃から横柄なところがあった。そんな風に思った朝はちょうど秋頃の晴れた日で、木の葉の音のせいもあって、空気はひどく乾燥していた。

 やってきた満員電車では例のように、誰もが我が物顔で遠慮というものを知らない。駅に止まるたびに道を開けてほしい人と自分の場所を守るために見知らぬ顔をする人が、体を押し付け合っていた。そして私たちは自然と、そのどちらかになるしかなかったのだ。
 私はそんなとき彼の顔を思い出した。しかし、あまりうまくいかなかった。人の匂いが混じり合ったこの空間で、私の中だけに存在している彼はどこか悲しい顔をしている。よく顔はわからないのに、そういうことだけは確かに伝わっていた。彼の眠った顔は本当はとてもキュートで、それを思い出すとこちらまで悲しくなってしまった。

「すみません」
 そんなことを考えていると、後ろから男性の声が聞こえた。私はドアの近くに立っていたので、一度電車を降りた。人の体温や圧力から解放されて、一瞬、気持ち良くなった。しかし結局降りたのはその男性だけだった。そしてもう一度乗ろうとしたが、その前に、その他大勢の人々が次々と乗り込み、駅員にストップをかけられた私は目的の駅まであと一駅というところで降ろされてしまった。待とうとも考えたが、次の電車もおそらく満員で、仕方なく歩くことに決めた。

「すみません」
 先ほどと同じ声が次は前から聞こえた。でもそれは嫌な声ではなく、どちらかというと聞いたことのあるような心地良い感じがした。
「どうかしましたか?」
「あの、さっき僕が降りたから…」
「いいえ、別に大丈夫です」
 立ちすくんだままの彼を置いて 五、六歩進んでから振り向くと、彼はまだそのままの場所で、視線だけを私に合わせていた。私もその時初めて彼の顔を見た。ある想像がパズルのようにぴったりとはまった。
「気にしてませんから!それじゃあ」
 彼に聞こえるくらいに声を張って、歩き出した。
 


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?