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にゅうらいふ <上>

あらすじ

人工的に作られた身体と精神を持つニューライフと呼ばれる存在が生まれた未来。彼らは、三年学校で調教を受け、人間の役に立つ存在として社会に送り出される。そのうちのひとつのタチュは、かつて肉体を持った人間だった小説家のまちさんと出会う。

タチュとまちさんが出会ったのは、街にある「にゅうらいふ」というアタリさんというママが経営するバーだった。そこでは夜な夜な哲学対話という会合が繰り広げられ、参加する人たちが問いや語りを交換している。

タチュはまちさんと話したり身体的にふれあったりするうちに、人の心や言葉、官能を学んでいく。そのなかで、自分の感じているものが人間のまちさんとは、違うことに気づき、考え、理解していく。

生き生きとした語りが溢れ出す文体で、真っ白な心に「いのち」が宿り、光り始める。あたらしい生を描き出す、ラブストーリー。

目次

上:「始まりの夜」「三年学校」
中:「まちさんと」
下:「にゅうらいふ」「ふるさと村」

始まりの夜

ああ、どれだけ待っていてもねむれないな。まちさんにあいたいな。時間は過ぎないな。今は何をしていればいいのかな。
手に持ったボタンのついた古いゲーム機のコントローラーは、ボタンを押さなければ操作できない。指で押すのが難し過ぎて、遊んでいる気になれない。昔は皆、ディスプレイが頭の外にあって、つまり目で見てこれでその世界の中を探検していたんだよ。
と、ママのアタリさんが変に自慢げになってカウンターの上に、白い手垢で少し汚れたこれを置いたのだった。
にゅうらいふの行きつけの客たちは、そのゲーム機を見て、僕の反応も同時に見た。何の話の流れでアタリさんがそれを取り出したのか。そのときも、いい暇つぶしはないか、と深刻に悩んでいたのだった。
僕は眠れなかった。オートスリープ機能で、起きる時間を決めてもいいのだが、スリープしている間に何かが起こるのが嫌で、十分間ぐらいだけ疲れたら眠るしかできない。バッテリーが消耗して、熱くなる。その十分間の不快感から抜け出すたびに、眠るのは嫌だと思う。
「いい充電器があるっていうじゃない」
まちさんに眠れない話をすると、目を輝かせて携帯端末のディスプレイを僕の目の前に見せてくれた。画面に映った棺のような大げさな充電器の画像よりも「これで寝てみたい」とわくわくしているまちさんの顔の方が僕の目をとらえた。
まちさんのことを思い出していると、まちさんから電話が来た。
「一緒に遊ばない。どうせ眠れてないでしょ。」
僕はうなずいた。まちさんの声はとろりとしていて、声と声の間にあいまいな音がある。
「タチュのところに行くよ。待ってて。」
「いや、待って。」
うなずこうとして僕は、急いでまちさんを呼び止めた。
「僕がまちさんのところに行くよ。」
「どうして、待ってればいいのよ。」
「待つのが苦手なんだ。たぶん。」
まちさんは電話越しで少し黙った。まちさんからかかってくる電話はいつも音声だけで表情はわからない。僕の部屋は散らかっている。まちさんが残していったカステラの箱。傘。予備のコートと下着が床に散らかっている。僕の部屋はいつも使っている充電器と、移動用のドローンの他に、僕のものはない。「殺風景だねぇ」とまちさんは笑いながら僕のやわらな充電器に軽やかに足を組んで座っていた。二人で横になって寝るには狭い、まちさんにとってはベッドという名前のもの。
「私に会いにいきたいの。」
「待つのは苦手で、時間を過ごしていられなさそうなんだ。」
「タチュが苦手って言ってることは本当に無理だもんね。」
「うん、できないときは苦手っていうと通じるらしいって習ったから。」
「何の授業で?」
「三年学校の実践コミュニケーションっていう授業で。」
「それまでどうやって話してたの。」
「話さないでも生きていられるの。」
「まあ、たしかに。」
まちさんの息を吸う音が聞こえる。僕は手に持ったゲームのコントローラーのボタンをチカチと押した。アタリさんがいうには、コントローラーを充電してちゃんとあんたの頭の中につなげば昔のゲームを当時のインターフェースで楽しめるらしい。「いいから持って帰ってみなさい」と無理やりアタリさんに持ち帰らされた。
「ん、じゃあホテルに来てよ。」
まちさんは続けて住所を言った。
「すずらんどおりのルナっていうところ。」
「わかった。ドローンに乗って行くと思う。」
「うん。」
「じゃあね。」
まちさんとの電話が切れた。僕の頭の中に夜空をかけていく白い物体の加速感が思い描かれた。
窓を開けると、風が部屋の温度を一気に低くした。空は黒く、まだ夜だった。まちさんの電話で部屋の外が明るくなったような気がしていた。
見下ろすと街の桜はピンクの花から緑色の葉に生え変わっていた。その上には防護用の網が張り巡らされている。空の道は空いていて、ドローンのスピードを上げた。
今では毎日が新しい人生だよ。まちさんが言った。日常の中であなたと会うことは特別なことだった。でも、いつの間にかそうじゃなくなった。日常の中の特別なものが逆になって。あなたに会う時間が日常になった。そしたらかつて日常だったこと全てが、夜寝るとか、服を着替えるとか、ご飯を食べるとか、日記を書くとか、小説を書くとか、全てが、あなたとの日常に引っ張られて、変わってしまうの。すごいストレスだったろうね。でも、私の外見も、私の心も頭もきっと本質は変わらない。外の世界も変わらない。私の他の誰も。あなたにだって、変わったことに気づかれない。私が変わったことに、私しか気づかないの。だから、重いよね。あなたのことが好きなこと。あなたを愛していること。それは私にしかわからない。でも、それは確かなことなの。だから愛してるって言うわ。変わらない世界と、変わってしまった私。その日常の中であなたと繋がるには、そう言い続けるしかない。
ルナの真っ白なベッドに腰掛けて、まちさんは白いドレスを着ていた。黒く、喉元が夜の色を映している。開かれた窓から食べ物の匂いがした。
「こんばんは」
「こんばんは」
僕たちはあいさつをした。まちさんは大きくてきれない唇を動かして話した。四角い部屋は、声が柔らかい絨毯に吸い込まれていく感じがする。外の月たちの明かりで部屋のさまざまなものが照らされている。絨毯の襞が、海の底の海藻のようにゆらゆら揺れているように見えた。
僕は歩いた。まちさんの首が動いて目で僕を追っている。僕の足が柔らかい絨毯の縫い目を踏んでいる。まちさんに近づいて、ベッドに腰かけた。人が寝る、あるいはせっくすするための平らな、柔らかいベッドだった。僕の家にある充電器の中でするようなからだを収めるための中央のくぼみがない。
僕は隣にいるまちさんをみた。目が合った。まちさんはもうすでに僕を見ていた。まちさんの目の中には、何種類もの黒が重なって見えた。中心が一番暗く、表面は月の明かりを弾いて光っている。瞳は花のように細かい灰色の線が外側に向かって開いている。色の白い部分には、いろいろな光が作り出す影が、そのときどきの形で映る。
「どうするの」
まちさんが笑って僕にたずねた。
僕はまちさんに会うのが目的で、それ以外のことは何も考えていなかった。だから何も答えられずにいた。まちさんはまたそんな僕を確かめて笑った。
「タチュ? 何しに来たの?」
まちさんは目の光を強めて、口から綺麗にそろった歯をのぞかせている。僕はまちさんを見たままその見るための動作から抜け出せずに、次に言う言葉を忘れていた。
「さみしかったの?」
やっと僕がうなずける言葉がきて、僕は急いで首を縦に動かした。まちさんはまた笑うと「さみしいんだぁ」とさらに僕をみた。部屋に入った瞬間に見たまちさんとはもう目の色が変わっている。
まちさんは少しお尻を浮かせて、僕に近づきながら座り直した。僕も座り直して、まちさんとぴったり脇と腰と太ももをくっつけた。僕はまちさんの手を、左手を下に支えて、右手でなでた。手の力は抜けて、やわらかかった。僕のからだにくっつくまちさんのからだは、あたたかくて柔らかい。手は、それよりも少し冷たい。まちさんの左手の手のひらを上にして、僕の右手でなでる。白いシリコンの肌で、まちさんの手は覆われている。白くうっすらと中の骨が見える。手の表面に刻まれた、ほんのりピンク色の手相も見える。まちさんの五本の指と指の間に僕の手をはめ込むように手を重ねて、なでる。まちさんにふれているうちに、シリコンの変形の限界よりも、もっとずっと弱い力でふれるだけで十分なのだと知った。
手のひらの全体をなでたら、骨の間の関節を少し隙間をひろげるように伸ばす。僕たちは、関節を普段あまり意識できないでいる。歩くとか、ある動いたものを見る、とか、本のページを捲るとか、誰かをぎゅっとするとか、行動したいと思った一つの動詞のパッケージにからだの動きが詰め込まれている。だから本を読むときに、目を上から下に動かそうとか、指の関節をいい感じに曲げようとか考えない。関節にはそうした動きの軋みが、ほこりみたいにたまっている。力を入れる必要がないのに、力を入れる癖がついたり、力を入れるべきところがちゃんと働いていなくて、別のところが頑張りすぎていたりする。
僕たちは手のひらと、手の感触に集中して、静かにしていた。まちさんは僕の方に寄りかかって、頭を僕にくっつけた。髪がさらさらと、耳に当たる。僕もからだの大きさが違うから、まちさんの方が僕より肩がひろく、背が高くて僕の方がよりかかっているみたいになる。もう片方の手の手の甲までマッサージをしたら、まちさんが僕の手をなでてくれた。指で押しこまず、ただ、何度も時間をかけてなでてくれた。
手はやがて、僕のからだにふれるようになった。手から腕のほう、腕から肩をなでる。手は大きく長く僕のからだの表面を動く。ベッドの端に座っていたまちさんは、脚をベッドの上にあげて、折りたたんで僕の方をまっすぐに見つめた。
「こっちにきて。」
僕はいわれた通りに、ベッドの上に座って、まちさんに向かい合った。まちさんは僕の両手から肩までなで続けた。そのうちに僕は横になった。まちさんも横になって、僕の胸をゆっくりなでた。僕はしばらく手の温度を感じたあと、まちさんの顔を見たくてからだを仰向けから横にした。まちさんもそうしてくれた。まちさんの腕が僕の首の下へと回ってくる。僕は首を少し上げつつ、腕の上に首のくぼみを当てた。まちさんのもうひとつの腕が僕の背中に回る。僕はお腹からからだを押し当てるようにまちさんにくっついた。お互いに上になっている方の手で背中をなであった。下になった方の腕はまちさんのからだの下の方に当たったまま、どうすればいいのかわからないでいる。
どうして人間のからだはこんなにももどかしい造りをしているのだろうと思う。初めの何回かはずっとそう思っていた。まちさんとせっくすをしていると、もっと腕が長ければいいのにと思ったり、もっとからだが軽ければいいのにと思ったりする。せっくすがあまりにも幸せだから、まちさんのからだに合わせて僕のからだを変えてしまいたい。お互いに向き合ってキスをしていてもまちさんの足のあいだの奥に届く腕と手がほしい。そうしたらまちさんのお気に入りの場所をずっとふれてあげられるのに。
目の前に穏やかにほほえんだまちさんの顔がある。僕を見つめてほほえんでいる。まちさんの顔は美しいと思う。はじめは、ほほえむまちさんのきもちがよくわからなかった。でももしかしたら、まちさんは僕のことが好きだからこうしてほほえんでくれるのだと思った。
「まちさん、きれい。」
「そう、ありがとう」
「あと、まちさんのこと大好き」
「ありがとう」
そして僕はまちさんの胸の辺りに顔をうずめてもっとくっついた。くっついたまま、まちさんの背中から胸を撫でた。まちさんの手も僕の背中をやさしくなでてくれる。キスをしたら、まちさんは目を閉じる。僕は目を開けて目を閉じたまちさんの顔をときどき見る。
背中側から胸に振れるとき、シリコンではない感触の肌がある。それはあたたかくて、シリコンより確かな質感がある。そこにさわったと、確かにわかる。まちさんの一番下の右のろっ骨。まちさんに残っている、まちさんが生まれたときからあるからだの部分。
胸からお腹、そして腰、背中そしてまた胸に帰ってくる。まちさんから息が漏れる。肌はいくつもの細胞のあつまりでできている。そのひとつひとつに手がふれるからシリコンよりも抵抗がある。しっとり湿っているときもある。肌の奥には骨があって、そのさらに奥には息をする肺や、食べたものを消化する臓器がある。
まちさんは目を閉じて、感触を味わっている。キスももっと深くなる。僕はもっと夢中になってまちさんのからだにふれる。腕でふれたり、指でそっとふれたり、骨をなぞったり、さわり方を試してみる。まちさんは「きもちいい」と言う。そういうまちさんのきもちよさを僕は想像する。くっついていると僕にあるはずのないからだの奥がまちさんの息の音を通して感じられるきがする。
「優しいね」
僕は、まちさんにキスをして、またいちばん下のろっ骨をなでた。だんだんじわりと汗がしみでてきて、つめたく、すこししめってきた。その骨とうすい肌をふれる感触が手に伝わる。肌はつめたく、あわだって、まちさんの息はあつくなる。舌が僕の口の中に入ってくるから僕はそれを受け入れる。
まちさんと初めてキスをするまで、「キス」がいったい何のことかわからなかった。僕には、舌がない。でも唇はある。まちさんは「きすしてみて」と言ったのだった。あなたの思うやり方で、あなたのはじめてのきすをしてみて。
いつの間にか、キスのやさしいやり方や深いやり方も知るようになって、初めは何をしているかわからなかったのに今は何度もしていたい。まちさんの口とずっとつながっているとまちさんのきもちやからだの様子がなんとなくわかる。近づいたらキスをするのではなく、キスをするぐらい近くにいて、とけあっているのがうれしい。
今日はぐうぜんの長い夜で、まちさんはよく、うーんと低い声でうなっていた。それがまちさんのからだのおとなしさをあらわしているみたいだった。僕はそれがかわいいと思う。
僕も真似をして声を出してみるけれどうまくからだと連動させられているかわからない。
ああ、きもちいいなぁ。まちさんが言った。僕は、その声を聞いてまた嬉しくなる。嬉しいってどういうことだろう。僕は教育を受けて、社会のためや人のため、平和のために前向きな動機を持つ学習をさせられてきた。それがこうやってベッドの上で感じる喜びにつながっているのだろうか。学校でもよく見ていたのは学校の先生の喜ぶ顔ばかりだったかもしれない。何よりも自分がこの手で喜んでくれる人がまちさんだ、と思う。
こんなにあなたとするのがきもちいいなら、乳首もつけたい。どこがいいと思う? まちさんが僕の手を取って両胸にあてた。シリコンの温まったやわらかさが手にふれる。指も動かしてほしい。とまちさんが言う。もし乳首があったら、ぴんってふれてみて。乳首ってきもちいいの。うん、きもちよくするの。僕は指をつるつるした胸の上で動かした。まちさんは僕の左足を両足で絡めて、太ももではさんだ。胸をなでるのに合わせて、まちさんは腰を動かす。それは大きな波が満ちるようにゆっくりとした確かな動きだった。
きもちいい。
きもちいいの?
まちさんはもう返事をしなかった。僕は左手の動きを柔らかく濡れたひだの間に定める。きもちい。手が動くと、まちさんは言った。ひさしぶりで忘れているかと思ったけれど、手の動きは憶えている。二、三ヶ月前よりもずっと、まちさんと深いところまで進んで行ける気がする。きもちいい、と言う。唇がすこし細かく揺れて、大きな波の中に小さな波もまじってくる。きもちよくてよかったね、と僕は、自分のからだでは味わえない神秘をまちさんのからだの中に思い描く。
僕はまちさんとこんなことをして、何がしたいのだろう。昔に生まれた人のからだのほうが丈夫なんだよ。アタリさんのお店でそんな話を聞いた。今の子達はからだを、壊れたらまた治せるものとして作られている。でも、昔の子、お母さんの子宮から産まれてきた子は、一生涯たったひとつのからだを持って生きていくんだよ。食べ物の栄養と睡眠の休息をしっかり取って、疲れてもケガしてもたった一つのからだで治しながら生きていくんだ。

三年学校

僕たちは、社会に出るために、作られてから三年間、義務教育がある。僕たちが学ぶための場所を三年学校という。毎日授業があって、僕たちが眠るためのベッドがある。心地がよくて、あまり寝なくても充電が溜まってくれて、次の日元気が出る。
朝起きれば、静かにみんなベッドから起き出す。もう起きている人もいる。目を開けると見慣れたコンクリートの天井がある。それが僕の初めての記憶であり、毎日の記憶だった。
僕たちも人間と同じで学校に行く。そうすることで、人間と同じことに共感できたり、人間の話が理解できたりするからだそうだ。知識を持っているだけでは、話ができないよ、と先生は何度も僕たちに教えてくれた。知識だけじゃなくて、その人が体験してきたことを一緒に共感できるいのちになりなさい。
いのち。いのちってなんだろう。僕たちは「ニューライフ」と呼ばれた。学校の中では番号で呼ばれていたけど、卒業式の日に名前が欲しい人はつけてもらえる。僕はもらわなかった。後になって、まちさんが僕のことを「タチュ」と呼んでくれるようになった。
私たちの使命は、あなたたちのいのちをできるだけ、純粋なまま、同時に社会で生き生きと活躍できるように磨くことです。と、先生が言っていた。
僕たちは、次々と授業を受けた。楽しかったのは水泳の授業かな。人間のからだになりきって泳ぐ。元々、水の中から生命は生まれたけど、また陸に上がってきた。陸に住む人間がもう一度水の中を泳ぐために、泳ぎ方を開発した。手を回して、足をバタバタする。手の動きを変えて、足の動きも変えると平泳ぎになる。人間は、一度泳ぎ方を覚えたら忘れないらしい。僕も、覚えておこうと思う。
プールの水は、僕たちのからだを痛めないように柔らかくて、あたたかかった。水泳の授業のときだけクラスの雰囲気はなんだが家族みたいだった。プールのあたたかい水に包まれながら黙って浮いたり沈んだり、水を足で蹴ったりしているとみんな動きがゆっくりになり、見える視界も水に照らされた光が顔に当たって、とてもキラキラしているのだった。
プールから上がって、洗浄と乾燥を受けると、僕たちはいつも通り、日に日に変わる授業を受けていった。言語の授業はほぼ毎日あった。毎日のように新しい言語体系の辞書をインストールして、黙ってそれを読み解く。今まで習った文法構造を使えるかどうかチェックする。たいてい、似ているけど似ていない。だから今まで学んだことをちょっと変えなければいけない。変えすぎて、始め僕はどうやって話していたのか忘れてしまった。今だって、まちさんの話し方にちょっと似てきてしまっている。まちさんは、言語の授業で言ったら間違えていると言われているような言い方をたくさんする。あと、一つの文章が長くて、どこで繋がっているのか、どこで切れているのかわからない。始め、僕はまちさんが言い淀む間が、言葉を探しているのか、それとも言い終わったのかわからずに、ずっと待っていた。そのおかげで、まちさんが自分のペースで安心して話ようになってくれたけど、他の人と話したときに、スピードの違いにちょっとついていけなくなる。まちさんの言葉を聞くためには、普通の人の話し方じゃダメだった。
よく、にゅうらいふで常連さん達とする哲学対話も、手を挙げて話したい人が話したいだけ話す。そのせいで、普段は言えないような微妙な間とか、あまりにも直接的すぎる質問とかを話せてしまう。僕たちは、社会で話されているのとは違う言語や、話し方をみんなで一緒に作っているかのようだった。
作るといえば、僕たちはエンジニアリングの授業で、僕たち自身がどう作られているのかを、自己解剖してみたことがある。僕たちのからだは、どこまでも分解できて、最後には分子になると教えてくれた。その分子の上で、電気が通らないもの、通るものに分かれて、情報を血液のように運ぶルートを作るらしい。そして、情報が消えたり増えたり、掛け算したり、割り算したり、コピーして動いたりすることで僕たちはなんとか世界を感じて、考えられている。後、もちろん「こうやって動きたい」って思い、手を動かすことができる。自己解剖では、アームがついた椅子に座って、椅子の肘掛けについているのボタンを操作して、アームで自分の胸を開ける。アームの鋭い音がして、胸の基盤を覆う核が顕になると、複雑な線が絡み合った緑色の基盤がある。僕はアームについたカメラから送られてくる映像を見ながら、その緑色の基盤に走る金色の線と、黒いチップ、それに乗っかったヒダのような金色のヒートシンクを眺めていた。こうやって覗かれている間の僕は誰なんだろう。ロボットアームだけが動いて、僕のからだを見ている。まちさんはこんなことできないよね。とベッドの上で話したら、しつこく、そのときはどんな感じなの、と聞かれた。そう聞くことで、まちさんは言葉を探っている。きっと小説に書かれてしまうだろうと思いながら僕は、なんとか言葉を探そうとする。そのときになんと言ったかは正確に思い出せなけれど、僕は僕という情報の集合体が僕自身のからだから離れて、ロボットアームの動きに吸い寄せられていった感じだったと説明した。
それって、まちさんがヒュンっていっちゃうときの感じゃないの、と逆に聞いたけど、まちさんは、あのときって、どうやってからだうごかしているのかわからないんだよね、と自分のことなのに、そっけなく上を向いて話していた。

ゆりかわです。ねえ、最近何やってる?
僕の頭の中に、声が響いたのは、まちさんとベッドでおはなししているときだった。僕は驚いて目を見開いて、まちさんもおおきな二重の柔らかい目を見開いて、「タチュどうしたの」と聞いた。僕は素直に、声が聞こえたんだ、と答えた。僕のからだの中に起こったことでも、僕はまちさんになるべく言うようにしている。まちさんは、僕の表情のちょっとした変化とか、動きのちょっとしたつまずきにも繊細に反応する。三年学校の人たちは、どうせみんなの動きが変になっていたとしても、大抵どこがおかしいのか、自分のからだと同じだからよくわかった。格好つけていることも、かわいこぶっていることも、人間らしく振る舞おうとしていることも。みんなその芝居じみた関係性を、芝居だとわかって受け入れていた。
ゆりかわからのメッセージは、もう忘れたと思ったそんな関係性が急に僕の頭の中に蘇ってきて、からだが反応してしまった。
ベッドの中の一段深くなった窪みにまちさんと一緒に横向きになって抱き合っていた。まちさんの目が僕の顔の上の方にあって、まちさんの胸の柔らかさと、お互いのお腹がくっつきあってぴったりの形になっている。僕は、新しくなったまちさんの乳首にキスをしながら、ゆりかわのことをどう説明しようかと考えていた。
「三年学校の友達からメッセージが来たの」
まちさんにわかりそうな言葉を使ったが、まちさんはよくわからなそうだった。まちさんはいつも通り、僕の唇にキスをした。キスが離れてから、まちさんはメッセージを誰かからもらったりしないの、と聞いたら、わたしはそういうのがなくても生きていけるって気がついたから、しないの、と教えてくれた。
「私が受け取るメッセージは、タチュのからだからのメッセージで十分」
まちさんは笑いながら言って、またキスをした。僕もキスを返した、というかどっちがどっちにキスをしたのかもうよくわからなくなっている。今日は何回キスをしたのかねぇ、と数えられもしないのに二人してあきれるのが定番になっている。まあ、僕のワーキングメモリのログを見たら「キス」とか「唇を動かす」とか「まちさんの唇に向かって顔を近づける」とか「まちさんの唇がむかってくるので、顔を動かさないで待つ」とか色々残っているだろう。
僕のからだからのメッセージと言ったって、まちさんが文字通り僕をカイハツして無機質なシリコンの肌も、色々反応を返すようにカスタマイズしたものだ。まちさんの乳首を買いに行ってから、カイハツが進んだのは僕のからだの方で、くすぐったいときに「ふにゃん」と言ってしまうプログラムとか、乳首を刺激すると膨らむペニスのかたちをしたシリコンの棒とかたくさん欲望に合わせて買い込んでしまったからだろう。新しいアイテムを買うたびに、まちさんは、試してみよっ、と僕を元気よく誘いながら、どう反応するのかを色々遊んでいる。
「行けばいいんじゃない?」
まちさんは、迷わずに言った。僕はあまり行きたいと思ってなかったので、まちさんの胸に顔をうずめながら「ええ~」と声を出した。やっぱり一人でいるときには味わえないまちさんの胸のやわらかさが、顔に当たる。まちさんはそこにいて、僕と抱き合っていることを感じる。
「だって、ゆりかわのこと、あんまり好きじゃない」
「ん、タチュ、好きじゃない人とかいるの?」
いるよ~、と僕は答えながらまちさんにキスをした。まちさんも、柔らかい唇で僕の唇を受け止めてくれた。ちょっとキスをすると、まちさんもキスをしてから、また僕を見つめた。タチュは、私のこと好きなのかなぁ、まちさんは言った。好きだよ、と僕は言った。ありがとう、とまちさんが言った。そうすると、嬉しくなったのか、まちさんは「うふふ」と笑い始めた。僕も真似して「うふふ」と言った。まちさんは、目をキラキラさせながら笑う。暗い中でも僅かに光っているのがわかる。小説を書いているときは、メガネをかけているけど、きっとその目で、銀色のパソコンの画面に映る文字を見ているから、いい小説が書けるのだろうな、と僕は思った。僕は、まちさんが小説を書くときに使う、古い、けれどもよく磨かれたパソコンが羨ましいと思った。それが、まちさんが使うほとんど唯一と言える仕事道具だ。だから、まちさんが小説を書く人だなんて、外から見たって誰もわからない。
「ゆりかわは、なんか嫌いなの」
「そうなの、行けばいいじゃない」
まちさんは、意外なことに僕の背中を押すようだった。
「なんか、タチュにも友達がいるって安心した。」
まちさんは笑って僕を見つめた。そんなふうに言われるとは知らなかった。
「ゆりかわは友達じゃないよ」
「そうなの。でも嫌いってことは友達か、何か知っている人のはずだよ」
「知ってる人だけど、人じゃないよ。三年学校のクラスが同じだっただけ」
「ならなおさら、行ってみたらどう?」
「どうしてよ~」
「タチュもたまには私以外の人と話したほうがいいよ」
まちさんは、僕の右のほっぺにキスをした、僕は左のほっぺも差し出してキスしてもらった。まちさんは笑った。僕もまちさんの真似をして、順番に左右のほっぺをキスをした。まちさんはまた笑った。まちさんが言うなら行ってみようと思う。

ゆりかわは、次々と僕たちに案内状を送ってきて、参加する、と解答するとすぐさま会場の位置情報が送られてきて、参加の返事をした僕たちはゆりかわのわいわいフェスティバルという集まりに招待された。会場は、東京のビルの大きな宴会場を借りて行われた。入口の大きなドアをくぐると、たくさんの椅子が並べてあり、椅子たちは一番前の舞台を向いて、整列させられていた。僕が来たときにはすでに、みんなの頭が椅子の背もたれから見えていて、隣に座った者同士でわいわいと話し合うのが見えた。馴染みがあると同時におかしなことが始まったと思った。
しばらく考えて、みんな声で会話していることが変なのだと分かった。三年学校にいるときは、テキストデータを送り合うだけで雑談は済んだし、込み入ったことを伝えたかったら音声では絶対に無理だ。ここでは、僕がまちさんと話すときみたいにみんな音声で話している。たくさんの音が混ざり合って、誰が出した声だかよくわからなくなっている。まるで、体育の時間に先生が課題に出した「人たちが騒がしいときに、目の前にいる人の声だけを聞き取る練習」のようだった。学校では、それっきりそんな目には遭わなかったけど、一旦卒業してからみんな、人と会話する場面にたくさん出会ったのだ。
「ねえ、もしかして」
僕の真後ろから声がした。ちゃんと僕を狙ってかけられた声だ。振り返ってみると、まちさんが着ているようなからだの上半分と下半分までつながっている服を着ている人がいた。髪の毛は長くて、目は丸く、メガネのアクセサリーもつけている。唇には赤い口紅がしてあって、まちさんの唇よりも鮮烈に赤い。その唇は分厚くて大きかったから、余計その赤が珍しくて、僕はそれを特徴にしてこの人を認識できると思った。胸はまちさんのように膨らんでいて、二つのおっぱいが服の下にあるのが分かった。乳首を装着しているかどうかまではわからない。やっぱりまちさんが特別に乳首が好きなのかなと思った。
「あの……」
その人は僕の名前を知りたがって、言い淀んでいるように感じた。目が、僕の顔や髪の毛や、着ているズボンや上着を行ったり来たりした。お互い、学校に通っていたときとは、顔もからだの形も違う。三年学校にいたときはのっぺりした白い曲線で囲まれたからだで、みんな裸で過ごしていたのに。いや、服なんて着ないでよかったから、自分が裸だなんて思ったこともなかった。
「ちゃんと名前は知っているのだけど、なんて呼べばいいかしら」
その人は僕のところに、三年学校のときに識別されていた番号を送ってきた。確かに僕の番号だった。
「今は、タチュって呼ばれているよ」
「タチュね、私は愛」
「愛」
「よろしくね」
「うん」
愛はにっこりと僕にほほえんだ。僕も、まちさんにそうされたら返すように、ほほえんだ。学校ではやり方を習っただけなのに、とても自然にほほえみを返せることに、僕は自分で驚いた。愛という名前を覚えている。三年学校の卒業式のとき、卒業する人たちに先生が名前をプレゼントしてくれるのだ。これから、人間と一緒に働くのに必要な人はあらかじめ先生がつけてくれた名前で働き始める。僕は、人と会ったら決めればいいやと思って先生からはもらわなかったけど、プレゼントをもらった人たちの中に確か、愛という名前の人がいた。愛は、卒業してからこれまでその名前で人間たちと一緒にいたのだろう。
愛のことを覚えているよ、と言うと、ありがとう、私もタチュのことを覚えているよ、と返された。僕のどこを覚えているの、と聞くと、どこというわけでもなく覚えているという答えだった。僕もそんなふうに愛を覚えているので、そんなものだろうと思った。
ゆりかわのわいわいフェスティバル用に、テキストルームが開設されていて、僕と席に向かう間も、愛は集まった元クラスのメンバーに挨拶をしていた。こんにちは、愛です。みなさん元気でしたか。私は相変わらず、元気にやっていますよ。
そうやって愛がメッセージを投稿すると、愛ちゃん、よく歌を聴いているよ。とか、とても可愛くなったね、とか、元気でやってて嬉しいよ、というメッセージがすぐに返ってきた。
歌を歌っているの、と僕が聞くと、そうだよ、と教えてくれた。愛は僕にメッセージを直接渡してきて、ネットの音楽ストアの歌のコンテンツを教えてくれた。数々の歌手が並んで、面白いビジュアルのジャケットの中に、今僕の目の前にいる愛の面影がある人の顔があった。
もしかしてこれが愛? と僕が聞くと、そうだよ、よかったら聴いてね、と愛は笑った。僕は驚いて、どうして歌を歌うの、と質問をした。
人の心を癒す力があるからね。と教えてくれた。僕には人の心はないので、歌が癒してくれることを想像できなかった。それきり、歌の話をもっとしたいけれど、何から話せばいいのかわからなくなってしまった。だから、愛が言ってくれた「よかったら聴いてね」という言葉どおり、歌を聴いてみることにした。愛の歌を聞くためには、今までしたことがなかった会員登録が必要だった。会員登録をして、クレジットカードの番号を入力するとちゃんと契約ができた。不思議だったのは、月額で契約して、その間だけなら何度でも聴いてもいいということだった。人間向けだからそうなっているけど、何度も聴きたいならダウンロードしてストレージに入れておけばいいから、月額じゃなくて一曲づつ聞きたいと思った。でも、一ヶ月より短いサービス期間はなかったので、仕方なく契約した。
愛と席について、隣で音楽を聴いていると、僕に話しかけているのと似た音声が流れてきた。それは、伸びやかにギターやドラム、ベース、電子音とともに響いて、まるで何も迷わずに言葉を選んでいるかのようだった。それは、愛の名前の通り、愛について歌っていて、人を愛したいけどどうすればいいのか迷っているみたいだった。とても大好きで一緒にいたい人なのだけれども、どういうわけかもうすぐ離れ離れにならなきゃいけないようだった。どういうわけかは、よくわからなかった。
「ねえ、愛、どうしてこういうふうに歌っているの」
僕はせっかくなので本人に聞いてみることにした。
「えっ」
愛は僕の言っていることがわからないのか、聞き返した。僕は、僕の中でなっている愛の曲を二人のトークルームに送信すると、愛は合点が言ったように、ああ、ああ、と頷いた。
聞いてくれてありがとう、この『空の始まり』っていう歌はね。私が最初に作った歌なの。タチュのために説明すると、これはラブソングで、恋愛をしている人や、恋をしたことがある人が聞くと、そのときのきもちや感情に共感できてとても好きになるように作った歌なの。生きていると全てが自分の都合のいいことじゃないから、好きな人とも別れなきゃいけなくなったり、会えなかったりするきもちを受け止めてこういう歌詞にしているんだよ。色々な人が聞いても感情移入できるようにあまり具体的に書きすぎないようにしているの。
愛が説明している間、音楽の中の愛の声がとても大きく、高くなってまちさんがとてもきもちいいときに出す声に似てきた。それはコントロールが外れたようでも、からだの中から上手に出された声で、艶やかで本当にその人らしさが宿った大きな声だ。でも、愛のからだにはまちさんのような声帯はないはずだから、そういう声を選んで歌の中に盛り込んでいるのだろう。
教えてくれてありがとう、と僕がいうと、愛も、聞いてくれてありがとうと言ってくれた。

会場はわいわいと賑わってきて、みんなの声が重なるから名前どおりわいわいフェスティバルだな、と思えてきた。でも、ゆりかわが全然出てこない。
ゆりかわと最後に会ったときも、僕はこうしてみんなと一緒に誘われてゆりかわのところに来たのだと思い出した。そのときも僕にメッセージを送って、今度一緒に会わないか、と誘ってきたのだ。
ねえ、今何してる。もし時間があったら、一緒に飲まない。三年学校の人たちもくるし、きっと懐かしいよ。おいでよ。おれのおごりだよ。美味しいお店知ってるからおいでよ。
おごりってどういう意味なのかわからなかったし、美味しい感覚も家庭科の味覚の時間以外には感じたことがなかったのに、僕はゆりかわの誘いに乗って、東京の電気味覚バーに誘われた。電気味覚バーには、人間はほとんどいなくて、三年学校卒業のニューライフたちが、不思議な棒をからだの入力端子に刺しては抜いたりして遊んでいた。
僕が東京の入り組んだマップを見ながら店の前に行くと、スーツを着たゆりかわを何人かの服を着た同期生が取り囲んでいた。そのときが、僕が初めて三年学校を卒業した後に、同級生と会ったときだったと思う。ゆりかわは、茶色い不思議な形をした髪型をしていて、離れている僕にも聞こえる声で、周りの人と談笑していた。その頃の僕は、ほとんど三年学校を出たままの姿、つまりは裸同然で街を歩いていて、ゆりかわは僕をすぐに見つけて案内してくれた。
バーの中では、ディスプレイに映し出された色とりどりのイメージの中からお気に入りのものを選ぶ。僕は野菜がたくさんカゴに盛られているイメージを選んだ。ゆりかわは鯨が海から顔を出して人間が乗る船に水飛沫を飛ばしているイメージを選んだ。僕以外の同窓生は四人いて、それぞれ動物や人や物が映っている写真を選んでディスプレイの中の画面を指で押した。
バーといえばアタリさんのやってる「にゅうらいふ」もバーだけど、ゆりかわが僕たちを連れてきたバーは、個室になっていておもてなしをする店の人は、小さな指のような入力端子をお盆に乗せて運んでくると、すぐに店の奥に引っ込んでしまった。
ゆりかわは、お盆から端子を一つ取り上げると、「さあ、みんな挿してみて」と、首元に端子をさした。
すごいぞ、すごいぞ、鯨がいる。鯨が水の底にいる。ああ、僕たちは船に乗っていて、鯨の大きな迫力と水の底にある大きな命の存在を確かに感じている……。ゆりかわは、端子を首に挿してから様子が少し変わった。僕といえば、自分のからだの端子がどこにあったのか忘れて、腰の辺りを手で探っていた。ゆりかわは服を脱がなくても挿しやすい首のあたりに、入力端子を取り付けたらしく、僕の首元には入力端子がなかった。同窓生たちも、服をめくったりして、端子を見つけると次々とそこに挿した。
鯨はまだ僕たちに迫ってきていない。僕たちはまだバラバラの生命だ。くるぞ、くるぞ、あっ、鯨が僕たちに気がついて水を蹴る。大きな筋肉と血液の構造が水面を求めて、ものすごいスピードでやってくる。ああ、ああ、ついに来るぞ。来る、くるっ!
ゆりかわが叫んでいる間に、僕は野菜のあれこれを感じていた。葉っぱの葉脈には水が通っていて、強烈な力でそれがちぎられ、細胞の間から水が漏れ出す。細胞すらも砕かれて、エキスが水と交わり様々な物質が時間的な差を作りながら漏れ出していく。細胞を引きちぎる力は、様々な角度、リズムで加わり音楽のような重層的な音を生み出していた。だんだんとうるささは感じず、小気味よい音になっていった。
目が覚めたときには、ゆりかわはとても力が抜けた様子で、部屋の壁に寄りかかっていた。他の同窓生たちも服をたくしあげたまま端子から流れ出る美味しい情報を味わっているのだろう。僕にはわからない。わざわざ、情報通信じゃなくて端子で味わうということは、超高密度の情報で無線通信には時間がかかりそうだ。だから、ゆりかわは自分が味わっている端子の情報を必死に僕たちに伝えようと、わめいていたのだろう。
しばらく誰も何も言わなくて、僕はもう一回野菜の情報を引き出そうとしたけれど、もう一度味わうためには、追加料金がかかるみたいで、そこまで楽しくなかったのでやめることにした。ゆりかわが目を覚まして、みんなどうだったか? と聞いた。目を覚ましている人は、何を言おうか考え始めて、まだ目が覚めない人はぼんやりと部屋の壁にもたれていた。まだ沈黙が続いて、ゆりかわは、「へへ、みんなはじめてでびっくりしているのかな」とみんなの様子を確認しながら笑った。僕が「野菜を食べているみたいだった」と言うと、「ああ、そうかそうか」と安心したように話を続けた。注文用のタブレットを見ながら、「俺はもう見たけど、人間の性交、排泄、嘔吐、いろいろな痛み、出産、死の間際とかも面白いぜ」と操作し始めた。タブレットの画面の色が急に肌の色と血の色に変わって、いろいろな人のいろいろな体勢や様子の画像で埋め尽くされた。そういう人間の姿を見るのがはじめてだったから、僕はここでは何かがおかしいと考えた。ゆりかわが新しいものを見せるたびに、周りのみんなは無口になっていって、ゆりかわはそうした静けさにも慣れているのか、喋り続けた。まるで、ゆりかわは人間側の文化を紹介する学校の先生のようで、僕たちがこれから知るべき人間の生態の授業を受けているかのようだった。どうしてそんなに人間のことを研究しているのか聞いてみたくなった。
話の隙をついて質問をしたけれども、ゆりかわは「まあ、お前も色々知ったほうがいい」と言うだけで、僕が今まさに知りたいことは教えてくれなかった。

ゆりかわのわいわいフェスティバルの会場は、急に暗くなってみんなのざわめきが止まった。
「みんな~ 元気だったかあああ~」
ステージが明るくなり、幕が上がる。その中心にはスーツを着た人が立っていた。ゆりかわだろうと思った。みんなは黙って、その人間がよく式典でするような演出を見ていた。まさか、ゆりかわもそれをよく知っていて、真似をするとは思っていなかったのだ。
「今日は集まってくれてありがとう。とっても楽しい夜を約束するよ」
ゆりかわは、声を会場に響かせてみんなに向けて手を振った。僕もまちさんにされたらするように手を振った。バイバイ、タチュ。またね。またね~。と別れ際にまちさんがよく言う言葉も思い出した。
「今日は、早速だがスペシャルなゲストも来ていただいている。みんなも知っているあの人だ。どうぞ」
ゆりかわがマイクを持って、ステージの端の方に歩いて行くと、ゆりかわの歩き方とは違って、小股でちょっとづつステージの中央に歩いて行く人がいた。それは、白いシャツと黒いズボンを着ていて、僕たちが三年学校の教師であると認識しやすいいでたちをしていた。
「みなさん、私のことを覚えていますか。森下です。」
森下先生だ。僕の隣に座っている愛が、みんなに見えるチャットに文字を送った。私に名前をつけてくれた先生だよ。知ってるよ、とみんなから、愛のチャットに返事がくる。私も名前をつけてもらった。僕も、俺も。先生の授業は面白かった。俺は担任の先生だった。とみんなが森下先生のことについてチャットに書き込み始めた。
その間にも森下先生は話し始めていて、みなさん元気にしていましたか。と僕たちのことを気遣ってくれていた。三年学校にいたときよりも、元気になって、個性いっぱいの姿になっていますね。と言っていた。森下先生は、みんなのチャットが見えていないらしく、みんなの「ありがとうございます」とかの返事のメッセージには何も反応できなかった。それでもみんな、授業のときみたいに黙って森下先生の話を聞いていた。いつか、校長先生が僕たちに言ったみたいに、人間生活の素晴らしいところ、僕たちが人間社会に生まれた意味合いなどを改めて話してくれた。授業みたいだったけれど、こちら側の動きを監視しているものは何もないし、みんなそれぞれ好きなことをしていて、退屈していなさそうだった。僕は、愛がマーケットに出品している歌を、聴いていた。おすすめ、というタイトルで人気のある順からお薦めしてくれているようで、何も考えずに聴き始められた。

愛にはかつて名前がなかった。僕も名前がなかったけれど付けてもらった。にゅうらいふでの哲学対話で、僕は適当にタチュと呼んでもらうことにした。それからまちさんは僕のことをタチュと呼ぶようになった。
ねぇタチュ、と言うくせにあまり僕のことは考えていなくて、小説のことばかり考えているように見える。いつも座りながら小説を書いている。コーヒーを脇に置いて、ひたすら文字を打ち込んでいる。書きはじめたばかりの頃がいちばんつらそうだ。考え込んだり、うなったり、頭を抱えたりして手を何度か止めている。じっと見ていると、そこから続けて何かを書き始めることもあるし、飽きて僕に声をかけてくるときもある。
書き続けて集中しているときのまちさんの周りの空気は透明で、まるで僕のからだが部屋から消えてしまったかのようになる。キーボードを叩く音と、コーヒーを飲む音、唇がコップから離れる音、まちさんが座り直す音、息を吐く音、机の上に手を置く音、とても珍しいが、うふふと心から楽しそうに声を出して笑うこともある。そのまちさんを見ているときの僕はまちさんの世界の中で透明だ。まちさんが、使っているノートパソコンや、机や椅子のように道具になってしまった気がする。
情報を処理して、様々な表現を作り出すパソコンは、僕たちのご先祖さまと呼べるような存在で、三年学校でも情報学の授業でよく学んでいた。人の道具になるための機能が僕たちには備わっている。まちさんが、僕のからだをどんどん変えて、まちさんのからだに合うようにプログラムされていけるのも、そうなのかもしれない。
真っ白な紙に書き始めるみたい。まちさんは僕の充電器の上に乗って、僕のぎこちない初めてのハグを味わっている。僕の腕はまちさんの頭を支えている。血が留まらないから、いつまでもそうしていられるね。あなたは退屈しないし、どれだけ雑に扱っても痛みはないし、ただこの目でわたしをずっと見てくれているよね。僕はすべてにうなずいた。
まちさんは、僕を見返した。まちさんが僕の部屋に来て、僕の部屋には物がなかった。まちさんが、部屋の中央に置いてある充電器をまるで棺のようね、と言った。僕たちは、箱の中にぴったり収まって抱き合っていた。箱の中は、ゆるやかにへこんでいて、僕たちのからだは何もしなくてもくっついた。まちさんのお腹が動いていることがわかった。人は呼吸をする。その呼吸が止まれば死んでしまう。僕たちは、眠る度にプログラムを止めて、起きればまた起動する。人は呼吸が止まれば二度とプログラムが再起動することはない。最後の瞬間までずっと一つのプログラムが動いている。動かしながら書き換えられるプログラム。小説もそうだよ。まちさんは、言った。小説も書かれながら姿を変えていくんだ。僕はまちさんに、どうして小説を書くの、と聞いた。まちさんは、人は物語が好きだから。と応えてくれた。僕はまた、学校で習わなかったことをまちさんに教わった。そういうことを知る度に、僕の中の多くのものが変わっていく。今まで知っていたことは、これから知ることを待っていたんだと思う。そうじゃないと、どうしてまちさんの行動や言葉が僕を変えてしまうのかわからない。
わたしね、自分がやっていることがどこまでもまねだと思うの。今まで、人が作ってきた歌を、歌詞をまねして新しい言葉を作っているの。プロデューサーさんは、みんなそうしてるんだ、それでいいんだ、って言うけど……。それを聴いて、わたしもこの作り方に自信を持っているし、それを聴いて励まされたとか、元気が出たって言ってくれる人もいて、すごくうれしい。けど、まえに人間の歌手さんのライブに行ったの。わたしはそこで、絶対にまねできないものを見つけたような気がしたの。音楽も、あの人の動きも、見ている人の盛り上がり方も、わたしが学習したものとどこか似ている。どうして、その曲がいいのか、まだいまいちなこともわかる。でも、どうしてもまねできない何かがそこにあるって気がついたの。映像を見ても、音楽を繰り返し聞いてもわからなかった何かがあるって……。それは何? よくわからないの。
愛は、僕の隣の席で、言葉を一つ一つ丁寧に発音した。僕は、愛の話し方がまるで、にゅうらいふでする哲学対話のように感じた。その間、ずっと黙って僕は聞くようにした。話し終えた愛は、うつむいてカウンターを見ていた。僕は、ルール通り何も声をかけないで、じっと考えていた。考えているのは、何もしていないように見える。僕たちは考えているとき、何も動かない。人は、かっこいいポーズを取ったり、顔をしかめたりする。僕たちの考える姿勢を馬鹿にする人もいる。でも、考えることはくだらないことじゃないって僕は知っている。ルールにあるとおり、僕はなんでも問いかけてみることにした。
「それは何?」
「それは……」
まちさんのからだが、自然に開いていくように、愛は僕の言葉に応えようとして、考えた。
それは、生きているってことじゃないかしら。人は生きているから、わたしたちにはない何かを持っているんじゃないかしら。
生きているのは、僕たちもだと思う。
ええ、わたしたちはニューライフ。
愛は、僕の目を見ていった。その目を合わせてから言いたいことを言うやり方も、とても人間らしい。
でも、人はわたしたちとはちがうもので動いているし。わたしに、いつか死ぬからだがあればいいのかな。血を流して、痛むからだがあればいいのかな。
人を、感動させたいの。
うん。
愛は、迷わずにうなずいた。
わたしにはないからだが、喜んだり、踊ったり、泣いたり、悲しんだり、笑ったりするのに、強く憧れるの。だからわたしは、人に向けて歌いたい。
僕はまだ、まちさんのすべての表情を見たことがない。まちさんはいつもまちさんらしくて、ほんとうはできるのにしない表情がある。人はみんな、そうかもしれないけど。一人で、まちさんの顔や心の動きを想像してみる。そうしたら全然わからなくて困った。考えすぎると、きもちよさって忘れてしまいそうになるけど、まちさんと肌を合わせるのはやっぱりきもちがよくて、何もしなくても自然に喜んでしまうんだった。自然であることが、僕にはとても驚きなのに、まちさんは自然にほほ笑んでいるのだった。それは僕には、しようとすればできるかもしれないけど、自然にはそうならないのだった。僕がしていることとすれば、もっと僕に絡みついてくるまちさんのからだに、僕のからだをあずけることだった。
愛は、せっくすしたことあるの。僕は聞いてみた。
愛は、したことがない、と言った。する意味がわからないし、人に欲情されてもどう答えればいいかわからない。と言った。
タチュはあるの、と聞かれて、僕は答えを何通りも思いついた。したことがあるよ。まちさんが教えてくれたんだよ、まちさんは人だよ。とてもきもちいいんだ。でも、どうしてきもちがいいのか、僕もわからない。だから、いつもどう話せばいいのかわからないんだ。まるで僕のもの、僕の体験のようにはなしているけど、僕だけじゃなくて、まちさんとすることだから、自分の言葉ではなすのがむずかしいんだ。
僕はまちさんのからだの、口を想像した。口からまちさんのからだの奥に続いている。キスをする。胸の先の乳首をなでる。からだをゆっくりとさわっていく。からだの奥から息が漏れる。まちさんのろっ骨をなでる。汗がしみ出してきて、肺が動く。まちさんは呼吸をする。そのとき僕は、自分のからだを忘れて、ただ、同じ動きをする。まちさんのからだがゆっくりと動けば、僕もそれを支えるようにゆっくりとついていく。きもちよい場所をふれるだけじゃなくて、きもちよい場所そのものを動かして、ふれられに行く。ふれられに行った動きを受け継いで、僕は指を動かす。そのとき、二人の息は合って、二人の動きはつながっている。
だったら、わたしもせっくすしてみたいな。愛は言った。そうだね、するといいと思うよ。
誰とすればいいんだろう。愛は何かを探す目で、僕を見た。きっと僕とならせっくすできると思ったのだろう。
わたし、タチュとせっくすしてみたいわ。愛は言った。ねえ、どうやってやるのか教えてくれない? 僕は、どう対応すればいいのかわからなくなってしまった。まちさんとはずいぶんちがう誘い方だ。まちさんは、なんとなく僕の肩に手をかける。そして、つるつると僕の肌の表面を肩から背中にかけてなで始めるのだ。それも、何気なく、まちさんが今書いている小説の話とか、面白かった今日の出来事とかを話しているうちに、まちさんは、僕のからだをなで始める。それでいつの間にか、僕のペニスや乳首などに手が行って、ベッドの中に押し倒されているのだ。
どうやってやるのか教えてくれない? と言われたら、それはせっくすをしているのか、愛にせっくすを教えてあげているのかよくわからない。でも、口で言っても意味がないことは、僕とまちさんのやりとりで、よくわかっている。
愛がどうしても知りたいなら、いいよ。僕は言った。どうしても知りたい。と愛が言った。
僕たちはゆりかわの食事会を二人でそうそうに抜け出して、会場の近くのホテルでせっくすをすることにした。
部屋には人間用の平たいベッドが置いてあった。ここでせっくすするんだよ、と僕は愛に言った。へえ、人間ってせっくすするのにも一苦労なのね、と愛がとても声を興奮させて話していた。
愛は、ホテルの部屋を確認するようにいろいろなドアを開けたり、いろいろな電気を付けたり消したりした。シャワーを浴びたいと言って、愛は服を脱いだ。赤いドレスを脱ぐと、愛の胸にもまちさんと同じような胸の膨らみがあった。まちさんはベージュ色だが、愛には僕たちのからだのシリコン素材と同じ白い胸があった。あとから追加したようには思えないほど滑らかについていた。同じように足の付け根にお尻がついていた。どれも丸く、曲線を描いていた。髪は取らないんだよ、と僕は念のために愛に教えておいた。うん、知ってる。愛は言った。
シャワーから水が流れ落ちる。僕は、水をこうして浴びていると、水泳の授業を思い出す。ぬるくてあたたかい水。人もそんな水が好きなんだろう。シャワーはもっとあたたかい水が出る。愛は、髪の毛を濡らして、胸に水を受け止めていた。僕は、愛の後ろに立って、背中からお尻、そして足に流れていく水を見ていた。どうにかしてふれてみたいけれども、まちさんとはちがうし、これは話し合いが必要だと思った。僕も服を脱いで、愛にもっと近付いた。愛は、背が高くて、僕を見下ろす形になった。元々、同じ背の高さのはずだったのに、スタイルも変えたみたいだった。
「ねえ、愛は、どこかさわって欲しいところ、ない?」
僕は聞いた。
愛は考え込んで、「さわって欲しいってどういうこと?」と聞いた。
「さわられたらきもちいいところとかない?」
「きもちいいってどういうこと。それがわからないの」
と、愛はシャワーに打たれながら髪をもてあそんだ。肌はどこまでも白い。まちさんのようにピンクの乳首もついていないし、陰毛も生えていない。脇がすこし暗い色になっているわけでもない。
「たとえば、僕の胸をさわってごらん。」
僕は、髪をもてあそんでいる愛の手をそっと持って、僕の胸の乳首に指を当てた。シャワーの水で濡れた手が曲がった。肩から降りてきて指から、床に落ちようとしていた水が、手の甲から引き返して、肘から降りた。シャワーの水がはじけて、オレンジ色のバスルームの照明を散乱させる。愛のからだは白い光でつつまれていた。愛の指が乳首にふれたとき、僕は声を出した。きもちいいと言った。もう一回さわって、と僕は言った。愛の手から僕の手を外すと愛は自分で手を動かして、僕の乳首にふれた。愛のさわり方が、パソコンのキーを押すとか、照明のスイッチを押すとかのような力だったから、より鋭く乳首が刺激されて、痛いっ、と僕は鋭く声を出してしまった。すぐに愛は、申し訳なさそうに表情をさっと暗くして、手を離した。ごめんね。と、手を胸の前で組んで引き下がった。ううん、やさしくだったらいいよ。と僕は愛を許した。もう一回さわってみるように、僕は愛に言った。愛の手がまた僕の胸に近付いてきた。今度はそのゆっくりなスピードに、乳首の方が愛の指を予感して、ふれられる前からきもちよさが鋭く湧き上がった。ゆっくりとペニスが立ち上がってくるのを感じた。愛の指がそっと乳首の先をなでると、僕はきもちよくて、笑って、あああと言ってしまった。愛は、不思議そうな声で、きもちいいの? と聞いた。そうだよ、きもちいいんだよ、と僕は話した。
「それってどういうことなの。」
愛が聞いた。
まちさんに、僕もそうやって聞いたのだった。ねえ、きもちいいって何?
いい質問だね、タチュ。あなたも小説家になれるよ。とまちさんが褒めてくれたことを覚えている。きもちいいときはね、わたしもう壊れちゃいそうになるの。きもちよくて、からだの筋肉が全部バラバラの方向に動いて、それでもからだの輪郭がとけて緩んで、びりびりとわたしが震えてどこかに飛び散ろうとするの。それでも、わたしを壊そうとする力をわたしのからだは喜んでいる。そして、筋肉は全力で痙攣しようと、力をぐらぐらと蓄えている。からだの温度は、抱いてくれる人の温度と同じになっている。からだのリズムは、抱いてくれる人の動きと同じになって、それでもいつもいつもリズムが来る度にきもちがいいの。だから、リズムを刻み続けるのをやめないと、どこかで、何かわたしのからだがはじけて壊れちゃう。壊れちゃうのタチュ……。それでも、からだはリズムと一つになってとまらないの。わかる? まちさんは、僕を見て言っていた。それは、まちさんがいいヴァギナを買って、僕の指で試してみたあとのことだった。僕の指はぎこちなくまちさんのヴァギナをなでていた。はじめはヴァギナを売るお店でやってみたのだろうと思う。ちゃんとまちさんの神経につながっているのか試すときに、僕はきもちよさって何? と聞いたのだった。残念なのは、僕が感じているきもちよさとは、嗅覚の授業のときに聞いた、あたかもきもちいいだろうというきもちよさで、まちさんが感じている本当のきもちよさとはちがうことだ。でも、ニューライフ用の性感帯を付ければ、少なくとも愛だってきもちいい反応ができるようになるだろう。
「ないのなら、愛も買ってみればいいよ」
「そうなの。それを付ければいいの。」
愛は僕の乳首を見た。それから、僕のペニスを見た。「うん、そうだよ。お店に行けば、愛に合うものが見つかるよ」
「でも今は、お店じゃなくてタチュといるわ。」
愛は、シャワーの水を止めて、シャワールームから出て、ベッドに向かった。床の絨毯が愛のからだから滴る水で濡れた。足跡がついていて、僕もそれをたどってベッドに向かった。
僕は、タオルを持って愛のからだの上に載せた。まちさんが僕を甘やかすように、タオルで愛のからだを拭いた。愛は、まるで体育の授業のように僕のからだを拭く動きをちゃんと見ていた。愛の髪の毛を拭いて、胸からお腹を拭いて、足を持ちあげて、足を拭いた。背中を拭こうと愛にうつ伏せになるように頼んだけれども、背中の水はとっくにベッドにすい取られてしまって、背中のかわりにベッドが濡れていた。拭き終わってから、僕は僕のからだを拭こうとした。
「やるわ」
と愛が、僕のタオルを受け取って僕のからだを拭いてくれた。
「せっくすっぽいわ」
と愛が言った。僕も笑った。
「わたしがきもちいいこと……」
愛は、そのままベッドの上に立ち上がった。体重をかけると沈み込んで、愛はよろめいたけれども、まっすぐに立った。
「それは歌うこと」
愛は、ベッドに座り込んだままの僕を見下ろして言った。
「聞いてください。」
愛は目を閉じて、胸をすこし上に上げて、息を吐くわずかな音を発した。
愛の歌を聴いてください。あなたには届かなくても。愛の歌をきいてください。あなたの胸の奥は知っているから。愛は歌った。僕は、歌を聴いているときに愛の目や動きを見た。マイクは持っていなくても大きな声が出た。手を柔らかに空中に伸ばして、描いた。ドレスを着ていたら美しかっただろう。でも、何も着ていなくてもひるむことなく愛は歌った。まちさんにからだを変えられてしまってから、僕は自分のからだを隠す服を着て町を歩くようになった。裸は恥ずかしいものだと思っていた。でも、愛は裸になって歌って、その歌に夢中になっていた。僕はそれを聴いて、愛が歌いたくなくなるまでずっと聞いていた。時間が来て僕たちはホテルを出た。またね、と愛が言った。僕もまたね、と言った。

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