ブレスオブザワード(5)雨について
世界に雨が降り続いている。雨のことをじっと見たのはつい最近のことだった。夜に雨が降って、バス停で待っていた。みんなが雨に打たれて、傘を差しながら待っていた。バス停の列は、あまりにも長すぎて折れ曲がっていた。わたしは折れ曲がって方向が転換する方に並んでいた。バス停はわたしの背中の方にあった。バス停ではなくバス停のそばにある電灯に向かって並んでいるみたいであった。
電灯を見上げると、雨がパラパラと空から降っている様子が見えた。雨は粒の形をしていた。よく絵で描かれる線、いわゆる雨模様では全くなかった。わたしは頭の中で、傘にぶつかる雨模様をイメージしていたから、そのとき初めて本当に自分の目で雨を見たのだと分かった。
光に照らされた部分だけ、雨が見えて、電灯の周りから同心円状に、広がって雨の粒が空中を舞っている様子が見えた。電灯は、雨を見るためのスコープ。それ以外は全く、ビルの間の空にも、雨は見えなかった。透明な雫が雪のようにひらひら舞いながら空から降ってくる。
しきりにビニール傘を叩く雨の音はわたしの耳を直接打つように、ボタボタと複雑な音、リズムで響く。日本語は雨が打つようだ、とどこかで聞いたことがある。日本語は必ず音が母音にくっついている。「あ」「い」「う」「え」「お」子音だけの発音は音素にない。だから、ぼた、ぼた、と言葉が口からこぼれ落ちている。実際の会話では、ぼた、ぼたではなく細かい雫のような形で、パラパラと散らばっていくのだろう。
傘の外に手をかざしてみた。見たあとは触れてみる。雨は待っているだけで手のひらに落ちてくる。思ったよりパラパラと降るだけで、手に伝わる感触は優しかった。濡れるのは怖くない、分かった気がする。雨で濡れるというのは、急にバケツの水を掛けられると言う濡れ方とは違う。雨の中に染まっていく、時間を掛けて濡れているのだ。だから雨の中を早く抜ければ、濡れる量は少ない。長くゆっくり歩けば、たくさん濡れる。防御しなければ、早かろうが遅かろうが濡れる。傘のような手軽な防御手段は、風に弱い。レインコートのような本格的な守りこそが、雨の中を染まらずに進むのに適しているだろう。とはいえ、足下まで完全に濡れないでいるのは難しい。
レインコートを着ている人は、まるで、外界からの影響を遮断するような格好に見える。わたしは何にも染まらない。社会に出て行くときは、雨にもかかわらずレインコートを着たら良いかもしれない。でもそれはそれでもきっと息苦しくなるだろう。汗で蒸れて、自分自身で窒息してしまうだろう。
なんだか書き足りない気持ちがある。今までそういう気持ちを誰にも読まれないノートに書いていたのだけれども、今はそれもすべてどこかに向けた言葉にしようとしている。一切合切を表現に注ぎ込みたい。雨の中わたしはレインコートを着て、駅に行った。電車に入るとしばらくして席が空いてわたしは携帯文字入力機を開いて新しい言葉を書き始めた。
わたしの観察によると一日に二千文字ぐらいを三十分駆けて書くぐらいが一日にちょうど良いらしい。今日は、この文章のほかにも書いたから、朝にそれを書く時間がなかった。移動時間に書き足して、文字数を増やしている。
だだ多く降ればば良いというものではない気がする。まんべんなく降れば良い。歩道橋から見た雨のような、霧雨ならゆっくりと降るから見える。わたしはまんべんなく言葉の雨を降らせたい。一粒一粒には、意味がない。けれどもそれらがじわりじわりと世界を染めていく。そんな妄想をしている。そのためにはわたし一人ではきっと不可能で、言葉が右から左へと、上から下へとたくさん流れていくこの社会で、一つ一つの言葉が流れではなく、雨のように粉になって、すべて等価値に言葉が言葉として、浮いていれば良いのに、なんて非現実的なことを考えてしまう。それは、言葉による社会のシミュレーションである。言葉が変われば、社会も変わるような気がしているから。サイエンスフィクションではなく、ワードフィクション。小説がもうすでにワードフィクションなので、わざわざワードフィクションとは言われない。けれども、言葉によって世界を構成し、言葉の乗り物によって旅をし、言葉と言葉を対話させ、ときには生老病死する言葉も書く、それは言葉に酔っての世界なんじゃないだろうか。
わたしはもしかしたら、外を見るための窓がない部屋にいて、外の世界を知るためには、言葉によるアナウンスを聞く以外には方法がないのかもしれない。言葉がわたしにとって世界を移すディスプレイで、言葉によってはいてすっている。言葉に依存する存在だから、何も話すことがなくなったらそれは何になるんだろう。
でも、言葉の良いところは言葉がなくなったところで、それは虚無ではないというところのような気がしている。言葉が消え去った宇宙は、それは豊かな静けさで満ちあふれている。だから、言葉がなくなったとしてもわたしは生きていて、それによって言葉に生命を預けることができるようになる。