【地方移住Z世代の手記 #5 地方創生で「高学歴」が実績を残せないって本当?】
はじめに
私は数年前に人口が4万人ほどのある地方都市に移住した。県庁所在地までは30分ほどで、普段の買い物や用達には不便しない場所だが、雄大な自然に囲まれたバランスのいいコンパクトシティだ。
私自身は学習意欲だけはあって、そのため地方でリモワしつつ、いくつか修士号を取ったり、博士号取得のために継続したりしている、セミアカデミックになりたい人。
そんな私の実体験から「なぜ都内でバリバリの高学歴の人が地方で実績を残せないか?」を書いてみる。
エピソード:某大手通信会社の高学歴社員の完璧な説明が心を全く動かさない件
ある昼下がりの打ち合わせ。いわゆる「突然の連絡失礼致します・・・」メールから始まった某大手通信会社の社員からの営業連絡に興味を持った私は1hの情報交換ミーティングの機会を作った。
彼は関東出身でT大卒。まだ20代だが新たなプロジェクトを任せられて情報収集しているところだった。
彼の課せられたプロジェクト目標は一つ。
「なるべく多くの都内の企業を、ある地方の町に移転させること」
要するに今流行りの地方創生。企業が移転すれば地域が盛り上がるでしょ、とのこと。
このプロジェクトは地方移転を促進する役目を直々に国の〇〇省から受託しているため、責任は大きい。国の目論見は「ほら、地方移転ってこんなにメリットあるでしょう?一極集中じゃなくて分散しようよ!」の正当化。
プロジェクトには毎年の目標ラインがあり、必ず達成しなければ税金の無駄遣いなど世間から叩かれる可能性もある(多くの場合は事実は埋もれるが)。
ただ、成功すれば社会貢献的に評価が上がる、ハイリスクハイリターン系の案件と言える。
そして肝心のリーダの彼との初対面。一目で分かった。彼は疲労困憊で、ネクタイもよろけ、メモを取る余力さえない。このプロジェクトは難航するだろう。
ほとんど知らない町の魅力を巧みに説明する彼を見て
それでも彼は精一杯資料を用いてその町の魅力を伝えてくれた。
「この街の人口は◯人で、主な産業は◯◯です。貴社の現在取り組んでいるこの事業と親和性が高いため、実証実験もできます。自治体からの補助金もこのように…」
素晴らしく意図的にまとめられた情報だった。
とにかく効率を良くするためになるべく早く、情報は洗練したものを提供する姿勢が徹底されていた。
つまり、彼の説明はほぼ完璧だったということだ。
しかしなぜだろう?心が動かないのは。
「実はA町(地方都市名)には泊まったこともないんですけど、とにかく企業にそこへオフィス構えてもらわなきゃいけなくて…」
実証実験のあれやこれ、補助金の類、共創の場は確かに魅力的だ。1年間ほぼ無料で新規事業開発に取り組む事ができて、しかも運が良ければ現地で採用もでき、人手不足の解決策になりうるかもしれない。
でも、なぜか心がそちらに向かない。なぜ「琴線に触れない」のか?
私は彼の話を微笑を浮かべながら聴きつつ、ずっと考えを巡らせていた。
一旦話が落ち着いた時に思わず口に出てしまった。
「素晴らしい情報をありがとうございました。でも、なぜ今あなたは都内にいるんですか?」
彼は一瞬わからないと言う表情になったが、非常に聡い方なので全てを理解したようだった。観念したというようなポーズを取ってから苦笑いし「今からいうことはただの本音なので、聞かなかったことにしてくださいね。」そう前置きして、本当の彼は静かに語り出した。
新しいプロジェクトを任せられて3ヶ月前にかなり張り切ってスタートした
ただ、どんなに頑張っても関係企業を地方に引き寄せることができない
現地の補助金制度の紹介、新規事業開発の提案、BPO対策、様々な角度から攻めたが相手企業に響かない
ちなみに、これは普通は他の企業さんには言わないが、実はプロジェクトにアサインされてからは多忙すぎてその町には1度、しかも1時間程度しか滞在したことがない(が、Wikipediaの情報は全て暗記していて人口から商業構造まで全て誦じることができる)
今はおおよそどんな情報であってもインターネットで集めることができる。
Youtubeでは見たこともない魚の解体動画が見れるし、
10年前に姿を消した有名タレントの現在だってまとめ記事で読めるし、
ニッチな街のニッチなスナックにいるパンチの効いたママの人生だって知ることができる。
一方、地方に移り住んで気がついた事がある。
私の琴線に触れるものは全て、調べる必要のないことばかりだったと。
それはぐったり疲れた帰り道の、夕暮れ時の形容し難い美しい赤の空だったり
名前も知らないおばあちゃんとのバスでのお天気についての会話だったり
公園で見かけただけの親子の、時間を忘れた水遊びの、柔らかく躍動する水鉄砲の描く曲線だったり
全てはインターネットで調べる必要のない、
非常に単純で、故に強く美しい、日常的な生活の営みだった。
現代の高学歴者は「数字と情報の力」を過信し「身体知」を置き去りにしている
もちろん高学歴の人全てが結果を残していない、なんてことは言わない。多くの高学歴の人が地方創生を切り開いてきたことは事実だ。(一方でその傍らには必ず地域の高学歴ではない多くの関係者が存在している)
ただ、精度の低い失敗(次に活かす部分が少ない失敗)を分析すると、やはり「数字と情報の力」への過信が関わってくるのではないかと考える。
結局のところ、地方に移転するメリットはお金では決してない。稼げるわけがないのだ。数字で出すことに意味がない。
そんな中拠点を移すとなると、どれだけその生活が魅力的なのか、都内で得られないものが得られるのか、どんな実体験が豊かさにつながるのか等という非常に抽象的な観点から判断せざるを得ない。
そろそろ分かってきた、私たちは金銭的インセンティブのみを追い求めて生きられる種族ではない。
だから「琴線に触れる」瞬間が必要で、多くの場合それは言語化が非常に難しい。類稀な才能を持つ文筆家(例えば幸田露伴の娘である幸田文など)であれば可能かもしれない。
ただあの言語レベルで美しさを表現するには、知識で埋める事ができない数十年の実体験が必要だ。20代の若造が戦争を語るより、90代の戦争の焼け野原を経験した文筆家が語る悠然とした自然の方が、心にくるものがあるのは言わずもがな、確固たる事実とそれに添える形での説明のための言語だ。
今地方の問題に取り組む高学歴達にどんなことが起こっているか
「あれ?おかしいぞ?いつもと同じやり方なのに、全くうまくいかない…」
「情報も数字もプレゼンも完璧なはずなのに!」
「筋は通っているのに、反応が悪すぎる…」
よく聞きます。よく見ます。その度に、「地方の良さは言語化しちゃいけないんだよ…!」と歯軋りしながら、私は今日朝挨拶した時に飴を持たせて送り出してくれた近所のおばあちゃんを思い出す。この良さは、言語化したくても、しちゃいけない気がして、実はあんまり周りに説明したことはない。
この乖離は端的にいうと、
従来のコンセンサスを取るための「数字」「情報(データ)」はあくまで資本主義の成長する前提に必要な一つの手段である
この手段は今後小さくなる全体のパイ(人口減少、経済停滞)の状況と全く相容れないもののため上手くいかないのは必然
高学歴の人は精度の高いほぼ完璧な解を出す、最短で到達するをベースにしているが、地方はそもそも縮小状態なので完全解はなく、最短の道も未知
こんな感じだと思われる。
地方は「あれ?普通のカップラーメン食べているのになんでこんなに美味いんだ?」ってなる場所
例えばコロナ禍にアウトドアブームが起こったが、その時感じた人が多いのではないかと思う。
「あれ?普通のカップラーメン食べているのになんでこんなに美味いんだ?」
まさにこれが地方の良さなのである。
全く彩りなく見える日常が、急に輪郭を帯びて見える。
そしてそれは言語化してはいけない領域なのだ。
地方は新しい事業を開発して稼ぐためにある実験場ではない。私たちが捨ててきた人間性、身体知へ立ち戻る”お金以外の価値”が保存されている場所
この事実に高学歴の人が気がつけば、地方創生はもっと現実味を帯びた動きになっていくはず。
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