162:ヒトを締め出し,同時に,ヒトを受け入れる「realm」としてのインターフェイス
前回の記事(161:it-there-realm📱エキソニモ《realm》の考察💻)で,エキソニモの《realm》を考察した最後に上のように書いたが,どここか「逃げている」感じがあった.「より大きな「realm」」とは何なのかを考えないといけない.
エキソニモには「ゴットは、存在する。」という連作がある.「ゴットは、存在する。」は,ICCの「オープンスペース2009」に展示された連作から始まっている.iPhoneが登場したのが2007年ということもあり,2009年に発表された「ゴットは、存在する。」は,スマートフォンは登場せずにカーソルを最前面に置いたインターフェイスを用いた作品がメインになっている.
エキソニモは,マウスとカーソルとの組み合わせたインターフェイスのなかに「神秘性」を見出していく.それは,ヒトを介さずに,つまり,インターフェイスを無効化してもなおコンピュータを「操作」することが可能かを試すことであり,その試みに意味=神秘性を見出すことであったと言える.
たとえば,《Pray》では重ね合わされた二つの光学式マウスが,ヒトの行為を介さずにディスプレイ上のカーソルを動かしている.「ゴット」を「ゴッド=神」と勝手に読み替えてしまうように,鑑賞者はこの状況から勝手に「祈り」という人間らしい行為を想起してしまう.コンピュータは情報入力のためにヒトの行為を必要とし,その情報の入出力の場としてインターフェイスが開発された.エキソニモはそのインターフェイスからヒトを締め出してしまう.しかし,ヒトはインターフェイスから締め出されても,そこに何かしらの意味を見出してしまう.
この流れを,私は一度考察したことがある.「メディウムとして自律したインターフェイスが顕わにする回路」で,私はエキソニモの「ゴットは、存在する。」と谷口暁彦の連作「思い過ごすものたち」とを論じて,以下のような結論に至った.
ここで書かれている「より大きな回路」というのが,前回の《realm》の考察の結論である「より大きな「realm」」と呼応している.確かに,《realm》もインターフェイスの性質を活かした作品であるから,「より大きな回路」を形成するものだと考えることもできるだろう.しかし,《realm》はiPhone以降のディスプレイに触れるインターフェイスを組み込んだ作品であり,エキソニモは「ディスプレイに触れる」ことを作品に取り込んでいることを考える必要がある.つまり,「ゴットは、存在する。」でインターフェイスから取り除かれたヒトが,《realm》ではインターフェイスに取り込まれているのである.
ヒトが再びインターフェイスに取り込まれたことで,《realm》では「ゴットは、存在する。」シリーズの作品になかったディスプレイの「奥行き」が生まれている,と私は考えている.ディスプレイの最前面に位置するカーソルが大きな役割を果たしていた「ゴットは、存在する。」は,ディスプレイにはヒトが入り込む余地としての「奥行き」がなかった.しかし,《realm》ではタッチ型インターフェイスとカーソルを用いたインターフェイスとのあいだを行き来することで,デスクトップで作品を体験した際に,最前面のカーソルとその奥にある白いオブジェクトとのあいだに「奥行き」が生まれている.スマートフォンで作品を体験するときには,「奥行き」の存在はぼやかされているし,ディスプレイに触れるほど「奥行き」は見えなくなっていき,最前面の「指紋」を見ることになる.
ヒトがディスプレイを触れ続けることで,ディスプレイから一度失われた「奥行き」を復活させる.《realm》で,ヒトはインターフェイスに戻り,ヒトが入り込める余地としての「奥行き」をディスプレイに見つけたということになるだろうか.しかし,それはデスクトップから眺めた風景でしかないということも考えなければならない.ヒトが触れ続けているスマートフォンでは,どんどん「奥行き」は見えなくなり,ヒトはインターフェイスに触れながらも,そこから締め出されてきているのではないだろうか.
スマートフォンではヒトの指紋の集積が白い最前面となってヒトを「奥行き」から締め出す.スマートフォンの白い最前面は同時に,デスクトップではディスプレイに「奥行き」をつくる白いオブジェクトとなっている.白い最前面=白いオブジェクトとが同一の存在であることの意味を考える必要があり,ここに二つのインターフェイスを行き来するなかで生じる「realm」があると考えられる.ヒトを締め出し,同時に,ヒトを受け入れる「realm」としてインターフェイスを考えなければならないことを,エキソニモの《realm》は示している,と言えるだろうか.
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