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062:スマートフォン📱によって、画像が手に持たれるようになった

画像の「厚み」🧱を考えみると、紙焼きの写真では紙の薄さが画像の「厚み」をないものにしてきた言えるのではないか。紙の表面に画像を定着させて、裏はないものになり、画像の厚みも紙の裏面とともに消失していく。しかし、画像はしっかりと紙に定着している。だから、裏面を見ようと思えば見えるけれど、そこにあるのは紙の裏面であって、画像の裏面ではない。

コンピュータのにおける画像は紙の薄さすらも破棄して、ディスプレイに表示されている。ディスプレイがブラウン管だったときは、「ブラウン管」というモノの厚みと画像の厚みは、恐らく分離していた。そこにはモノがあり、その前面に画像が表示される面があった。モノと画像とが分離していたというか、それは液晶ディスプレイにおいても分離していると考えられるので、ブラウン管では「乖離」していたと言った方がいいのかもしれない。ブラウン管の厚み🧱と画像の厚み🌁とが一致することなく、それぞれあった。

ディスプレイが液晶になりモノの厚みと画像の厚みとの乖離が少なくなり、重なり合い、くっつき出した。そして、スマートフォン📱によって、画像が手に持たれるようになったことで、モノが裏面となり、画像が表面を構成する一つの複合物が生まれて、画像の厚みをモノが代替しながら、それが画像の厚みとして無意識に入り込んできたのではないか? デジタル画像に厚みが生じ、それをあえてフィジカルなモノとして扱おうとしてきたのが、「ポストインターネット」という言葉で括られた作品群なのではないか📃 

しかし、モノと画像とが接着した複合物として、画像に厚みが生じたと考えるだけではなく、データと画像との関係でも考える必要があるだろう。ベンジャミン・H・ブラットンは『The Stack』で「ユーザ/インターフェイス/アドレス/都市/クラウド/地球」という6つのレイヤーが全世界を覆っていると指摘しているが、スマートフォンのディスプレイに画像が表示されるときには、これらの6つのレイヤーをほぼ同時にめぐるデータが存在している。データには6つのレイヤーの厚みがあり、そこから画像に圧力がかけられる。画像にデータからの圧力が裏面からかけられてきて、その圧力に耐えられなくなった画像はデータともにディスプレイの表面からはみ出るようになったのではないか。そして、画像は指とダイレクトに触れ合うようになり、物質的質感を求めるようになり「マテリアルデザイン」という物理法則をシミュレートしたデザイン原則や、ディスプレイのガラスの質感を求めた「フラットデザイン」を経由して、流体的な滑らかさを求める「Fluid Design」といったものが提案されたと考えることも可能ではないか。

アーティストであり、プログラマのucnvは情報科学芸術大学院大学[IAMAS]で開催されている個展「Volatile」で、「スマートフォンというデバイスもまたカメラとコンピュータが合流する場である」と書いている。この言葉は、私がこれまで書いてきたことを明確に示している。スマートフォンは画像とモノとが合わさったものではなく、それはコンピュータであり、そこにはデータが存在している。スマートフォンが提示する画像にはデバイスとしての厚みと、データからの圧力による「厚み」が合流しているのではないか。一方は手に触れることができる厚みであり、もう一方は手に触れることはできない「厚み」とが合流しているからこそ、スマートフォンというデバイスがしめす画像は興味深いと考えられるのである📑


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