024:インターフェイス🖱とサーフェイス🕋

インターフェイスが複数化していると考えてみる.マウスとカーソル,タッチパネル,APIとかの話ではなく,何か複数のもののあいだにあるもののインターフェイスもあれば,たんにそこにモノのようにただあるのだけど,それゆえに,そこに複数の存在が生じるようなインターフェイスもあるのではないか.このことを,私は「サーフェイス」と呼んでいるのではないか?

このようなことを考えているのは,私は「インターフェイスからサーフェイスへ」というテキストを書いたのだが,それでもあり続けるのは「インターフェイス」のような気がしていた.「インターフェイスからサーフェイスへ」とは,スッキリと移行するものではない.スッキリとは移行しなけれど,「インターフェイス」に何か変化が起きている,あるいは,インターフェイスと接するヒトには変化が生じていると感じているから,「サーフェイス」という言葉を使った.インターフェイスが何かとの対話の場ではなく,モノの一部となっているような感じがある.それは,タッチパネルになったのが大きいだろうし,もっと大きなところでは,インターネットがインフラになったというように,どこかコンピュータ以前の人工物と同じような扱いになっている感じがる.

「インターフェイスからサーフェイスへ」ということは確かに起こっていると思うけれど,単線的に進むわけではなく,パラレルに,重なり合っていると考えた方がスッキリする.前回書いたアップルデザインチームの話もそうだし,渡邊恵太さんの『融けるデザイン』でも「パラレル」という言葉が使われいた.インターフェイスが複数化している.

おそらく,これまでのインターフェイスは身体をミニマルにして,行為も最小化していくかたちで「知覚原理としての身体」に作用していた.それは,ヒトのセンス・オブ・エイジェンシーを拡張するものだったと言える.センス・オブ・エイジェンシーとともに行為を拡張していき,その行為を考察するなかで,アップルのデザインチームは,タッチパネルのインターフェイスが私たちのマインドそのものの延長になることをデザインの目標に掲げた.ここでのインターフェイスは確かに「インターフェイス」なのだけれど,行為を最小化していくものではなく,もっとモノそのものと行為をしている感じに近い.ボタンのオンオフを行う最小化した行為をジェスチャーとして引き伸ばす.その引き伸ばしたところに,生物学的身体を入れ込んでいく.石斧から続く道具とともに変化してきたヒトの生物学的身体が持つ感覚・認識を最小化した行為に入れることで,行為に対する実感を変化させようとすることが起こっているのではないだろうか.この試みが完成したときには,私たちはインターフェイスを介してコンピュータという別の存在を対話しているととも言えるし,コンピュータというモノのサーフェイスに触れているだけと言えるようになるだろう.インターフェイスとサーフェイスとが重なり合って,ヒトとコンピュータも重なり合っていく.

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