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234:大森荘蔵『新視覚新論』を読みながら考える01──はじめに

脳が予測に基づいて外界を認知・行為していくことを前提にして,大森荘蔵『新視覚新論』を読み進めていきながら,ヒト以上の存在として情報を考え,インターフェイスのことなどを考えいきたい.

このテキストは,大森の『新視覚新論』の読解ではなく,この本を手掛かりにして,今の自分の考えをまとめていきたいと考えている.なので,私の考えが先で,その後ろに,その考えを書くことになった大森の文章という順番になっている.

引用の出典がないものは全て,大森荘蔵『新視覚新論』Kindle版からである.


「はじめに」

「風景のあり方がそのもの視点である」という大森の考えを予測モデルに基づいて構成されると私が考える仮想世界の視覚ヴァージョンとしての視覚世界として考えられるだろうか.風景そのものが世界と私との相互作用で生まれる予測に基づく視覚世界として形成される.そこに視点はないが,生物学的な境界となる視野が視覚世界を切り取り,今見ていると私が意識している視界として私に見せる.視覚世界は私がつくるのではなく,世界に対する私の予測モデルが構築する.ここには私の履歴はあっても,それだけでなく,世界の履歴もある.私の視点はなく,世界が際限なく広がる.際限なく広がる視覚世界に対して,私の眼が見ている領域=視野があり,視野によって切り取られた視覚世界が「視界」として,私が今見ている世界として展開される.

しかし私はバークリィの研究者ではなく,一介の読者に過ぎない.それで,それ以後の折り折りの参照,援用の他は,バークリィとの表向きの関連は一章でつきる.しかし彼の有名な言葉,「存在とは知覚なり」に表現されている,物とその表象という二重構造の否認は本書全体のテーマの一つである.しかし私はそれを知覚の場面だけにとどまらず,記憶,感情,意志など,心または心の働きと呼ばれる一切におよぶものと考える.つまり,外なる世界と内なる心,という分別は誤りだと思うのである.p. 3

そして更に,この物心一如の唯一の世界に対しての「私」,客観世界に対する主観としての「私」なるものもない,というのが本書のいま一つのテーマである.それはいわば世界に対するものとしての「私」,の抹殺である.しかしそれは同時に物心一如の世界の中に私がおのずから復元することに他ならないのである.しかしその世界の中の一項目としてではなく,その世界のあり方そのものとして復元するのである.風景画にその風景の視点を描きこむことはできないがその風景のあり方そのものがその視点であるようにである.p. 3

結局,私が本書で試みたことを一言でいえば,世界とその対極としての「私」,という二極二元的な構図を,世界のあり方としての私,という構図に組み変えることである.p. 3

「物」はじかに裸で視覚世界に「立ち現われる」としてみよう.このとき「裸で」と言えるだろうか.視覚世界に立ち現れる物は,実物のコピーではない.おそらく,それはデータ的存在として立ち現れている.像ではなく,世界シミュレーションの一部分であるし続けを構成するデータとして「裸」で立ち現れる.

この作業はまず,ものが「見える」という状況を,「私」が「物」を「見る」,という三極構造としてみるのは事実の誤認ではないか,という模索から始まる.そこには「見る」という動詞的状況はなく(二章),「物」とその見られた表象という,「実物‐コピイ」の剝離は誤解であり(三,四章),「物」はじかに裸で「立ち現われる」(九,十章).ここで,海や空はその表象や像を通してではなく風景の中にいわばじかに露出しているということを表現するために,「立ち現われ」という言葉を使ったのである.そして立ち現われるのは,風景の中に,であって,「私」に,ではない.そのような風景のあり方,海や机がじかに前方に立ち現われているというそのこと,それが「私がここにいて,そちらを向いている」ということそのものだ,と思うのである.このことを的確に表現することは難しい.しかし,未熟なもどかしい表現ではあるが,あえてそれを繰り返した(二章 3,四章 1,六章 4,八章,十章 6,等).そのことを何度でも確認したかったからである.これが世界の余りもの,余計もの(六章末尾)としての「私」の抹殺であり,同時に世界のあり方そのものとしての私の復元なのである.p. 4

この辺りのことを考えるためにはAntti Revonsuoの「世界シミュレーション」を使って考えるといいのかもしれない.

我々は,意識の世界シミュレーションのメタファーをVR技術と結びつけて考察した.コンピュータが作り出す脳内世界シミュレーションは,シミュレーションされた世界にいることを完全に納得させる体験を目指している."プレゼンス "と "完全な没入感 "は,シミュレーションされた世界にいる経験を分析するための重要な概念である.夢の研究とVR技術から得られた教訓をまとめると,脳は世界のシミュレーションを外在化させるため,「世界にいる」という体験をしているとき,実際には自分の脳の中にいることに気づくことはほとんどない,という考えに行き着く.夢の体験では,自分の脳が内側からどのように見えるかを見るのではなく,ある世界に存在していることを感じる.知覚では,私たちは自分の身体を取り囲む外部の物理的世界に存在していると感じる.しかし,^^知覚でさえも,脳の内部で作られた「テレプレゼンス」体験に過ぎないのだ.内部世界のシミュレーションが感覚情報とリアルタイムで共鳴しているのだから.私たちが経験する世界は脳の中の世界シミュレーションである^^,というこの内部主義的な経験概念は,知覚や意識に関する私たちの素朴な考えに反するため,受け入れがたいかもしれない.しかし,シャーロック・ホームズが結論づけたように,いったん不可能なことを排除してしまえば,つまり意識が脳の枠からどうにか抜け出すことができれば,どんなにあり得ないことでも,信じられないことでも,残されたものは何であれ,真実に違いない.p.119

Antti Revonsuo, Inner Presence: Consciousness As a Biological Phenomenon

私はAntti Revonsuoのこと,渡辺正峰『脳の意識 機械の意識 脳神経科学の挑戦』で知った.Revonsuo以外でも,渡辺が「バーチャルな視覚世界」や二次元が膨張して三次元世界が現れるなどはとても影響を受けている.というか,私が考える「視覚世界」の多くは,渡辺からの影響だと思う.

これこそが,最初に紹介した,たった二つの視覚部位からなる生成モデルには含まれない大きな特徴である.脳がバーチャルな視覚世界を創りだし,それが意識であるとする,レヴォンスオの「意識の仮想現実メタファー」仮説と深く関係する.生成過程の途中に出現する豊かな三次元世界は,脳の中の仮想現実そのものだ.p. 265

渡辺正峰『脳の意識 機械の意識 脳神経科学の挑戦』

「私はいわば「心」という袋をひっくり返しにして「心の中」を世界の立ち現われに吐き出した」を考えてみる.「心の中」が世界の立ち現れとなる.心というものを,世界と私の予測モデルとがつくるものとして考える.Andy Clarkが「人間の心はとらえどころのない,幽霊のような内面的なものではない.脳,身体,世界によって絶えず調整され,うずまく予測の海なのである」と書いていることを引用すると「ひっくり返した」というニュアンスが伝わるような気がする.

それらの箇所で私はいわば「心」という袋をひっくり返しにして「心の中」を世界の立ち現われに吐き出したのである.時空四次元(三章 2)の世界にである.世界そのものが悲しく喜ばしく恐ろしく,世界そのものが意志的であり(八章),回想や希望は心の秘め事ではなく外部四次元世界の立ち現われである(九,十章),というのである.特に記憶や回想については,現在の視覚風景そのものが既に過去の透視に他ならないことから(六章),知覚と記憶との連続性が確かめられた.このことと,現在とは点的時刻ではありえないこと(『物と心』 13章,『流れとよどみ』 14章)とを合わせれば,フッサールの Retention(直前過去把持)も自然な場所をうることになろう.またベルグソンの記憶論から混乱を取り除くこともできるのではないかと思う.p. 5

その統一性の形が,今明らかになった.私たち自身の感覚的予測における誤差を最小限に抑えようとする,脳によってインスタンス化された基本的な原動力がある.その同じ衝動が,私たち自身の身体内部の状態や,豊富な物理的行動の数々(その多くは情報を集め,不確実性を減らすように設計されている)を導き,またそれによって導かれるのである.脳の構造と神経化学,生理的な身体,私たち自身の行動,歴史,習慣,そして私たちが生活し働く環境設定,これらすべてが組み合わさり,協力して予測の流れを管理している.このように,人間の心はとらえどころのない,幽霊のような内面的なものではない.脳,身体,世界によって絶えず調整され,うずまく予測の海なのである.私たちは,どのような物質的,デジタル的,社会的世界を構築するかに注意すべきである.なぜなら,それらの世界を構築することで,私たち自身の心も構築されるからである.p. 216

Andy Clark, The Experience Machine: How Our Minds Predict and Shape Reality Kindle版 

予測と意志とのあいだに曖昧な境界があると考えてみる.その曖昧さのなかで,予測に基づいた認知と行為が行われる.ここには意志ではなく,予測がある.そして,予測を外部デバイスに託したとき,自分の予測かデバイスの予測かが曖昧になり,予測と意志の曖昧な境界にデバイスの予測が入り込んでくる.

覚めた行動それ自体が,箸のあげおろしに至るまですべて意志的行動なのであって,ここでも「意志」なるものは余りものなのである.そしてその意志的行動は崖から墜落中の手足のバタつかせに至るまですべて自由な行動なのである.p. 6 

物理言語が視点を必要としないのは世界と予測モデルとの相互作用から生じる視覚世界を必要としないことなのかを考えてみたい.視点を持たないということは,視野によって視覚世界を切り取らないどころか,ヒトが世界にいなくてもいい.ヒトがいなくなると物理言語はつくられないから,世界の一点にヒトが存在して,視点を必要としない物理言語をつくる.世界と予測モデルの相互作用とは別のモデル=物理モデルを作るということ.そこには視点は存在しない.物理モデル=物理言語と予測モデル=日常言語を重ね合わせる.物理モデルは構築されていない部分もあるが,予測モデルはその空白の部分とも重ね合わされる.ヒトによる物理モデルはないが,物理世界としてそこにある

それに対し,科学言語の基礎となる物理言語は原理的には,人間が死滅してもなお有意味な,そして特定の「視点」を全く必要としない,非人間的な,半神的な言語である.この物理言語と,先の日常言語とによって,同一の世界が時間空間的に,つまり四次元的に「重ね描」かれるのである.それに対して二元的構図は,この「重ね描き」を剝離して,物理描写を客観世界の描写とし,日常描写を主観世界,すなわち「心の中」の描写とするのである.私が始めに根本的事実誤認と呼んだのはこのことである.p. 7

「空白な空所」は小説『もう一度』に出てくる「ニュートラルな空間」として考えてみると面白いかもしれない.物理モデルと物理世界はそこに存在しているが,それに対応する予測モデルがズレている.このズレを含めて,予測している.予測モデルが物理世界からのフィードバックを受け付けずに,予測モデルが視界(および,視界と同時に立ち現れる感覚の世界)を占有してしまったときに幻像が現れる.光学的虚像は,予測モデルをハックする物理モデル,物理世界から情報によって構成される.

しかしこの事実誤認には根深くまた根強い動因がある.まず,上に述べた「心の中」という錯視がある.そして更にその他に二種類の科学的事実がこの誤認にいとも自然に誘いこむのである.その科学的事実の第一種は光学的「虚像」である.その第二種は脳生理学的「幻像」である.それらは共に,世界の物理描写と日常描写の時空的「重ね描き」の破綻,またはズレを示しているように見えるのである.物理的には何も存在していない,または全く別の物が存在している時と所に,「像」が視覚風景の中に見える(聞える).鏡像やレンズ像といった光学的虚像がそれであり,幻想幻覚の幻像がそれである.それは「重ね描き」の時空的なズレ,あるいは[[空白]]な空所である.この「像」が客観的世界の物でないとすれば,それは主観的意識の中,「心の中」,に虚住する他はない.こうして世界と「心の中」との剝離が始まる.そしていったんこの剝離が始まれば,たちまち総なだれで世界と「私」との二極分極が進行完成するのである.p. 7

「視覚風景は座標系とは無縁独立なのである」とあるが,予測モデルもまた座標系から成立しているとすると,どうだろうか.幾何学的な座標系とは異なりつつ,対応する座標系がヒトの意識に存在している.見るというだけなら,空間座標とは無縁かもしれないが,空間内で行為をするとなると空間座標に対応するような,空間座標と重ね合わせされる座標が視覚世界に必要なのではないだろうか.それは,ジェフ・ホーキングが提案している脳が作成するとされる座標系かもしれない.

その結果,われわれの空間概念,特に空間が時間と独立であるという通念には誤りがあるのではないか,と思うようになった.もちろん相対性理論の意味でではなく,相対論以前に既に意味上において空間概念は時間を必要とする,ということである.つまり,四次元世界点の前提の中で初めて空間概念が可能だ,ということである.そのためには避けて通ることのできない幾何学の再検討を含めてそれを分析したのが七章である.更にそこで一つの実例として自転する地球人の天文学的視覚風景の骨格を描写し,あわせて,視覚風景は運動によって影響されないことを確認した.視覚風景は座標系とは無縁独立なのである.p. 8

われわれの二〇一六年の発見で,脳がどうやってこのモデルを学ぶかの説明がつく.新皮質は人が知るすべてのこと,すべての知識を蓄積するのに,座標系( reference frame)と呼ばれるものを使う,とわれわれは推定した.このことはあとでもっと詳しく説明するが,さしあたって,たとえとして紙の地図を考えてほしい.地図はモデルの一種だ.町の地図は町のモデルであり,緯線や経線のような格子線は一種の座標系である.地図の座標系である格子線は,地図の構成を支えている.座標系はあなたに事物の相対的な位置を教え,ある場所から別の場所への行き方のような,目標達成方法を教えることができる.脳の世界モデルは地図のような座標系を使って構築されていることに,われわれは気づいた.ひとつではなく,一〇万を超える座標系だ.それどころかわれわれの現在の理解では,新皮質内の細胞のほとんどは,座標系をつくり,操作することに専念しており,脳はその座標系を使って計画を立てたり考えたりしている.p. 20

ジェフ・ホーキンス『脳は世界をどう見ているのか 知能の謎を解く「1000の脳」理論』Kindle版

ひらけた場所で遠くを見ていると,ここで書かれていることを思い出す.私の眼に入ってくる光がそれまでの歴史を担っている.私はその歴史を透視しながら,視界を見ている.視界は光の歴史に満ちている.しかし,その歴史は,私が生きてきて構築してきた予測モデルの履歴からもできている.予測モデルに基づいて構築された視覚世界を透して,世界を見る.履歴に基づく予測モデルと現在に至る一連の歴史をもつ光に満ちた世界とを重ね合わせる.

ここで私は長くためらったが,今宵の今現在,過去の星がじかに見えているのだ,という結論に達した.したがって,視覚風景は過去の[[透視]]風景であり,それは空間的奥行きとともに,それと連動する時間的奥行きをもつのである.現在の視覚風景は,現在に至る一連の歴史を透視する風景なのである(六章 3).更にその一連の歴史とは,諸物からの光が私の眼に到達する因果的経過の歴史である.したがって,視覚風景は因果系列を逆方向に透視する風景なのである.

そしてこの因果系列は眼がその終点ではない.眼から網膜,視神経,脳,と続く.そして終りがなく底がないのである(六章 4).そして視覚風景はこの因果系列の逆透視,すなわち,……脳 →神経 →網膜 →水晶体 →空気 →物,という方向への透視風景なのである.正常な状況ではこの系列は最終端の不透明体以外は透明である.正常な脳もまたこの「見透し線」上では透明である(別の見透し線,例えば頭蓋を割って鏡で見る見透し線の末端では灰白色である).だがこの見透し線のどこかに異常が生じると,その点から以遠の「見透し風景」が異常となる(霧の風景,赤メガネの風景,白内障の風景等).だから脳に異変があれば外部風景にも異変が生じる.例えば「幻像」である.p. 9

脳を透して見える透視風景を視覚世界と考えて,空気の物理描写をJ・Jギブソンが考える包囲光で満ちた外界だと考える.光の情報が視覚世界を構築し,視覚世界の情報を使って,予測モデルが外界を予測して,認知・行為を行う.認知・行為を行う際に,視覚世界が網膜の視野によって切り取られて,外界に重ね書きされて,視界が生じる.ここで外界を見ているのは私であるとも言えるし,今の私ではなく,これまでの履歴から構築された予測モデルだとも言える.

それゆえ,幻像は脳を因果的原因として生じるのではない.それは因果系列の逆方向の「逆透視」によって起こるのである.脳を前景として起きるのであり,脳は幻像のいわば透視前景因なのである.

だが,その透視風景で,透し見ているのは誰なのか?  「私」ではない.また他の誰でもない.透し見る人,はいないのである.その透視風景がかくあること,そのことが私がここに居り,ここに生きていることそのことなのである.こうして「私」は抹殺され,私が復元されたのである.p. 10

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