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199:thinking of it as moving up or down between different layers of codes and languages

A revolution in language practice, with important theoretical implications, occurred when the conception changed from thinking about encoding/ decoding as moving across the printed page to thinking of it as moving up or down between different layers of codes and languages. Impossible to implement in telegraph code books, the idea of layers emerged in the context of computer code, with machine language positioned at the bottom and a variety of programming, scripting, and formatting languages built on it, with the top layer being the screen display that the casual user sees. Positioned at the bottom layer, binary code became the universal symbol code into which all other languages, as well as images and sound, could be translated. Unlike the telegraph code books, which positioned national tongues as the “natural” languages to which “artificial” code groups corresponded, linguistic surfaces in a computer context can be considered as epiphenomena generated by the underlying code. If mathematics is the language of nature, as eighteenth-century natural philosophy claimed, code becomes in this view the universal language underlying all the so-called natural languages.
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理論的にも重要な意味を持つこの革命は,エンコードやデコードを印刷されたページの上を移動すると考えるのではなく,異なるコードや言語の層の間を上下に移動すると考えるようになったときに起こった.コンピュータのコードは,機械語を最下層に置き,その上にさまざまなプログラミング言語,スクリプト言語,フォーマット言語を配置し,最上層には一般ユーザーが目にする画面がある.最下層に位置するバイナリコードは,他のすべての言語,画像,音声を翻訳することができる世界共通の記号コードとなった.各国の言語を「自然言語」とし,それに「人工的な」コード群を対応させていた電信コードブックとは異なり,コンピュータにおける言語の表面は,コードが生み出す付帯現象と考えることができる.18世紀の自然哲学が主張したように,数学が自然の言語であるならば,コードはいわゆる自然言語の基礎となる普遍的な言語であると考えられる.(翻訳はDeepL+水野)

N. Katherine Hayles "How We Think: Digital Media and Contemporary Technogenesis" からの引用.

コンピュータのコードによって,エンコードやデコードの移動の向きが「水平」から「垂直」へと変化したことは,メディアアートを考える上で,革命的な意味を持つ.作品の体験者が見ているものは,最下層に位置するバイナリコードが実行され,さまざまなレイヤーで解釈された結果,ディスプレイ上で起こる現象である.普遍的な言語としてのコードの解釈が「水平」ではなく,コンピュータの階層構造でなされていき,最後の解釈者してヒトが存在している.

「垂直」構造なので,最後の画面に表示されていたものから,その最下層にあるソースコードにたどり着くこともできる.「メディアアートの輪廻転生」展のQ&Aで,神田竜は「人の死についての定義も様々ですが、もし「作品の死」を定義するとしたら、あなたはどのような状態が作品の死だといえると思いますか?」という質問に対して,次のように回答している.

話題は逸れるかもしれないが、作品は発掘/発見されることもあるし、復活も有り得る。絵画作品の場合は現物が燃えたらほぼ復活不可能だが、ソフトウェアアートの場合、どれだけ古くてもソースコードが発掘され、コンパイルが通れば昔と同じ姿で復活可能である。記録動画さえあれば、ソースコードが違っても、優れたプログラマーが目コピで転生させる可能性もある。

記録した残された映像から,プログラマーがソースコードを書き起こす可能性もあるというのは,「記録映像」の意味を拡張する感じがする.ソースコードが残っているのが一番だが,ソースコードが失われたり,作品が書かれたプログラム言語自体が消失してしまったりした場合でも,記録映像からあらたなプログラム言語で記録映像を再現するソースコードがあらたなに書かれる.このとき,作品はあらたなソースコードのもとで「転生」される.

アートは絵画や映像といった主に平面で展開されているものの保存を考えてきた.彫刻などの立体もあるけれど,その作品のサーフェイスをできる限りオリジナルに忠実に残そうとしてきた.だから,記録映像というかたちで作品のサーフェイスを映像に記録しようとしている.だが,メディアアートの場合は,その映像のサーフェイスもまたコードへとつながる垂直の階層の一つのレイヤーであって,映像からその最下層にある「普遍的な言語」であるコードをリバースエンジニアリングできれば,作品は「転生」する.

神田は先のコメントの最後に「ソフトウェアのアートを完全に殺すの凄く難しい気がしてきた。ゾンビのようだ」と書くが,メディアアートは死にそうで死なないアートである.


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