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188:自由エネルギー原理のもとでは,知覚と運動は循環していて区別することは難しい

まとめると,視覚野は網膜から来る外受容感覚(視覚)信号を予測し,運動野は筋肉からくる自己受容感覚を予測している.ともに予測しているのは感覚信号なので,中枢では感覚と運動の区別はないといえる.末梢の反射弓とよばれる運動サーボ機構を駆動することによって予測を実現し,予測誤差を最小化するというのが運動である.自由エネルギー原理のもとでは,知覚と運動は循環していて区別することは難しい.たとえば,運動の目標は主に自己受容感覚の実現であるが,運動が生じると今度は筋肉の自己受容感覚が体性感覚野に送られるというように,運動と知覚は常に循環して生起する.このような関係を循環的または円環的因果律という.p. 136

乾敏郎『感情とはそもそも何なのか』の「Ⅳ章 自由エネルギー原理による感情・知覚・運動の理解」からの引用.

自由エネルギー原理と予測についてのテキストを読むまでは,感覚と運動とは明確に分かれていると考えていた.けれど,「自由エネルギー原理のもとでは,知覚と運動は循環していて区別することは難しい」とされている.

「視覚野は網膜から来る外受容感覚(視覚)信号を予測し,運動野は筋肉からくる自己受容感覚を予測している」という部分も気になる.脳は知覚も運動も予測して,感覚信号を送り出す.知覚の予測誤差が最小化するように予測モデルを修正すると同時に,予測モデルに合うように身体を動かして,外界を操作する.これが同時に行われている.知覚も運動も予測誤差を最小にすることを目指している.

常に,少し前の情報から「現在」に何が起きているのかを予測して,知覚と運動とを「現在」を予測したモデルを送り,フィードバックに基づいて修正したときには,それはもはや「現在」ではないのか,「現在」というものは,意識で後からつくられるだけかもしれない.ちょっと前の状態から「現在」の粗い予測モデルをつくりほぼ自動で対応しつつ,フィードバックから高精細モデルをつくり,それを表象として体験している.体験以前で外界には対応しているから,外界とのあいだで何か問題が起こることはなく,どこか目立ったところに注意がいき,そこが高精細モデルとともに体験として立ち現れる.

写真が興味深いのは,運動と切り離されて,知覚のみを自動的に高精細にして,しかも,限られた領域を高精細な表象で覆ってしまったというところかもしれない.ヒトの外界の体験で立ち現れる高精細な表象は視野一面ではなく,高解像度と低解像度がモザイクのようになったモデルから組み立てているけれど,注意が向いているところが意識に立ち現れて,あたかも写真のような高精細な表象が視野を覆っているように体験しているし,低解像度の部分も運動とともに解像度が補われているのではないだろうか.ヒトはカメラのように運動と切り離すことも,外界からの情報を一定の時間で切り取ることもできないで,常に流れのなかにある.流れのなかで体験する表象を写真は切り取ったように見せているが,ヒトは写真のようには外界を体験していない.情報の流れのなかでのモザイクのような表象をつくる予測モデルとともに,ヒトは外界に対応している.

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このテキストは「パフォーマンス 正直+臼井達也」を聞きにながら書きました.



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