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全てが最高の店に2度と行けなくなった話

内容がひどいので自己責任でお読みください
作者より



結婚してから初めて迎えた私の誕生日。

お祝いに晩御飯をご馳走してくれるというオットからリクエストを聞かれた私は、前々から行きたかったイタリアンの名を挙げた。上品だがカジュアルな佇まいのその店は、私が大好きなチーズをメインとした料理が評判だった。 
専用の機械でトロトロに溶かされた4次元ポケットみたいな形のでっかいチーズが、温野菜の上にデローンとかけられている様をテレビで見て以来「これを食うまで死ねんわい」と心に誓ったあの日の悲願を、誕生日という無敵のカードとオットの財布を使って叶えてもらおうではないか。

私が店名を伝えるとインターネットでお店を調べたオットが

「せっかくだから1番いいコースにしようか。コースの中にはエムコの食べたがってるチーズも入ってるよ」

と提案してきた。私は思わずオットに駆け寄り、彼の頬に吸い付いた。誕生日が待ち遠しくて待ち遠しくて、カレンダーを何度も眺める日々が続いた。


誕生日当日。「カジュアルとはいえイタリアンだから」とお互い小綺麗な装いに身を包み、店のドアを開けた。ダークブラウンを基調とした店内をオレンジのあたたかい照明が照らす。小ぢんまりしていてアットホームな雰囲気が私たちの緊張をほぐしてくれた。

席に案内される最中辺りを見渡したが、お客さんは私たちしか居なかった。平日の17時、オープンと同時に来店する客の方が珍しいのだろう。

椅子に腰掛けるとドリンクのメニューを渡された。料理はコースなので決まっているが、ドリンクは別で頼まなければならない。お洒落なフォントで印刷されたドリンク名を必死に目でなぞっていると、オットが

「ボクはこのチリ産の白ワインをグラスで…」

と呟いた。
な〜にが「ボクは白ワインを…」じゃい。それっぽい店でそれっぽい事を言うオットに臍で茶が沸く一方、酒の飲めない私は羨ましかった。
私は酒にひどく弱い体質で、ほろよいでさえ缶から直で飲むと一缶で泥酔する。こんなに調子乗りで浮かれポンチな性格をしている癖に酒が飲めないなんて。我ながらつまらん女である。

しげしげとメニューを眺めているとサングリアというお酒に目がとまった。酒の知識はまるでないのだが、これは昔飲みの席で友達から一口分けてもらったとき美味しかったのを覚えている。

「それじゃ…私はサングリアを……」

「サングリアですね。赤と白がございますが」

「白でお願いします」

口を開けてぽかんとするオットを尻目にこれでもかとカッコつけてオーダーをキメてやった。店員さんが去った後、心配したオットが

「エムコ、サングリアとか飲んで大丈夫?」

と私の暴挙に苦言を呈してきた。

「一杯くらいなら大丈夫!せっかくチーズを食べにきたんだし、初手でノンアルはカッコつかないじゃん」

見栄っ張りの父と見栄っ張りの母から生まれた見栄っ張りのサラブレッドである私は、こういう場でカッコつけずにはいられない。哀れな女である。
しかしお酒の味云々が分からぬ私もサングリアはとても美味しいと思った。果物の果肉から滲み出た甘みと酸味がワインの味をまろまろにしてくれているおかげで、アルコール特有の苦さをあまり感じない。酒が苦手な私にはうってつけの飲みやすいお酒なのだ。

店員さんがお洒落なワインと前菜のチーズをテーブルに運ぶ。私の目の前に置かれたサングリアは、中に入った色とりどりのフルーツがオレンジ色の照明にお化粧されて、キラキラと輝いて見えた。

「エムコ誕生日おめでとう!」

「ありがとう」

ここまで来ればもう気分は峰不二子である。
指先まで神経を張り巡らせ、限界値までカッコつけながらグラスを傾けた。

「アラ…とっても美味しいわ…」

「それならよかった」

華やかなサングリアはチーズとの相性が抜群で、前菜のチーズの盛り合わせにあったどのチーズと一緒にペアリングしても美味しかった。
腹ペコだった私が前菜とサラダ、ピザをペロリと平らげて次のメニューを待っていると、テーブルの端に小さなノートが置いてあるのに気がついた。手にとってページをめくると

「お料理とってもおいしかったです!果穂」

「チーズ!チーズ!チーズ!チーズ欲が満たされました。Y&M」

などと言った、お客さんの感想が記されていた。これは来店したお客さんたちのご意見ノートなのだろう。こういうノートには一つくらいウンコの落書きがしてあるものだが、そんなものは一切見当たらず、ただただ治安のいい言葉がお行儀良く並んでいた。ページをペラペラとめくっていくと、私の目にとある文章が刺さった。

「料理やドリンクの出てくるペースがちょうどよくて、落ち着いて楽しむことができました。コース料理の最後に出てきたチーズリゾットには驚きました。父も母も今まで食べたリゾットの中で1番おいしい、と喜んで食べていて、私まで嬉しくなりました。店員さんも高齢の両親を何かと気遣ってくださって本当にありがたかったです。絶対にまた来ます。 2017.8.10 MIKI」

私はノートを閉じ、天を仰いだ。
MIKI、アンタはなんていい女なんだ。ほとんどの感想が1〜2行の中、具体的な感想を自分の言葉で述べるMIKI。父と母、そしてMIKIがこのテーブルで幸せなひと時を過ごしたことが窺える。店員さんもきっと彼女たち家族が退店した後、このノートを手に取り感極まるに違いない。喜んでもらえてよかった、いや、この店で働いてよかった。店員さんの目から溢れた嬉し涙がページの染みになってやしないだろうかと思わず探してしまった。

感動した私はノートの最新ページを開き、

「お料理も店員さんのサービスもどれも大満足で、忘れられない誕生日の思い出になりました。思い出のお店がまた一つ増えたことがとても嬉しいです。また来年も夫と一緒に来ます。2019.0401.エムコ」

MIKIには及ばないが、自分のエピソードを少しプラスしたオリジナリティある文章を目指した。私が帰った後、ノートを開いた店員さんの笑顔が目に浮かぶ。

ノートの記入を終えた頃、何やら大きな機械が台車に乗せられ運ばれてきた。私の念願だった4次元ポケットみたいなでっかいチーズはラクレットチーズというらしい。専用の機械で表面がジュブジュブに焼かれる様子を前に、自分が峰不二子である事も忘れ「ウヒョ〜!」と感嘆の声をあげてしまった。

モチモチした食感と塩気のあるチーズが温野菜に合う合う。いや、温野菜だけではなくこのチーズがかかったものならきっとなんでも美味しいに違いない。土くらいまではギリ美味しくいただける気がする。

そんなしょうもない事を考えながらガツガツ食べていると、店員さんが「お飲み物のご注文はいかがされますか?」と尋ねてきた。調子に乗ってグビグビ飲んだ私のグラスはもう空である。

「それじゃ…さっきと同じサングリアをお願いします」

ここにきて峰不二子を取り戻した私はスマートにオーダーした。オットが

「エムコ本当に大丈夫?」

と心配してくる。体は元気ピンピン、酔ってもいないし私は今峰不二子だし問題はない。

「大丈夫!今日は全然酔ってない。いいお酒は酔わないって本当なんだね」

メインで出てきたお肉料理もサングリアとの相性が抜群だった。お肉の脂をフルーツの爽やかさが気持ちよく流してくれる。やっぱり注文してて良かったなぁと思いながら最後の一口をナイフで切っている時、頭がボンッと爆発したかのように熱くなった。目はグルグルするしナイフが肉を切る振動が全身に響いて気持ちが悪くてたまらない。

「エムコ大丈夫?顔真っ白だよ」

「え…ほんと…ちょっとトイレ行ってこようかな…」

運良くトイレは歩いて10歩もない、テーブルの真横だった。私が立ち上がると床がぐにゃりと沈み、目に映る全てがダリの描いた時計のようにトロトロに歪んで見える。まずい、これが真の泥酔か。普段ほろよい一缶で味わっている酔いとは比べ物にならない。体を振り子のように揺らしながら何とかトイレまで辿り着き、ドアノブに手をかけたその時だった。

サーーーーーーーーー

私は吐いた。
隣で肉を食べているオットも気がつかないくらい、静かに、静かに吐いた。飲みすぎて吐いたのはこの時が初めてだった。

口から出るそれを理性で止めることはできない。ドアノブに手をかけたまま、川の流れのようにゆるやかに床へ広がっていくそれを、私はただ眺めることしかできなかった。ひとしきり吐いた後、肉を食べているオットに

「オット…ごめん…吐いた……」

と申告した。オットは吐瀉物にまみれる私を見るなり悲鳴をあげ、我々の異変に気がついた店員さんが2人がかりで飛んできた。

店員さんは大量のおしぼりを私に握らせ、

「とりあえず先にお手洗いの中へどうぞ、ご気分が悪い時はおっしゃってください」

とドアノブの向こうへと押し込んだ。
私は便器を抱き抱えるかのように引っ掴み、口から溢れるサラサラを流した。そのまま20分ほど経っただろうか。うねりを上げていた胃が突然ピタッと止まり、とてつもない開放感が襲った。吐いたらすっきりするとはこの事なのか。突然ケロリとした私は先ほどの失態の数々を思い出し、このトイレから出るくらいなら死んだ方がマシだと思った。

店員さんからいただいたおしぼりで口の周りを拭う。服にほとんどついていなかったのが唯一の救いである。

私がおそるおそるドアノブを開けると、先ほど私が作った川がきれいさっぱりなくなっていた。数十分前までここが川だったことを忘れるくらいにピカピカになっている。私が状況を掴めずにいると、トイレから出てきた私に気がついた店員さんが

「お水をどうぞ。ご気分はいかがですか?私どものことはお気になさらないでくださいね」

ここで店員さんの言う“私どものこと”とは、“先ほど私がゲロまみれにしてしまった床及びそれを掃除した店員さんたちのこと”である。申し訳なさのあまり今すぐ腹を切って詫びようとする私を、こんなにも分厚いオブラートにくるんで気遣ってくれるホスピタリティ。MIKIの言葉は真であった。

何度も何度も頭を下げて謝り、恐々とテーブルに戻るとオットが口を開いた。

「体調は大丈夫?」

「はい…」

「それなら良かった。エムコがトイレに消えてから、俺の身に何が起きたか教えてあげようか」

淡々と話すオット。

「はい………」

どんなお叱りも甘んじて受けます、と私が頭を垂れると、オットは切ない声を振り絞るように

「店員さんがめちゃめちゃ申し訳なさそうに、アツアツのチーズリゾットを持ってきたよ…」


と言った。よりにもよってあんな惨劇を目の当たりにした直後にチーズリゾット。MIKIと両親がおいしいと感動した、あのチーズリゾットだ。
本来なら私たちもMIKIとその家族のように、アツアツのチーズリゾットに舌鼓を打つはずだったというのに。テーブルに持ってきた時の店員さんの悲痛な面持ちが目に浮かぶ。店員さんにもオットにも本当に申し訳ない。

「エムコを待ってもいつになるかわからないし、きっともう食べられないだろうから俺は2人前のチーズリゾットを一人で食べました…」

「大変申し訳ございませんでした…もう調子に乗ってお酒は飲みません…」

「そうしましょう…」

「はい…」

「帰りましょうかね…」

私の暴挙でその場にいる全ての人を不幸にしたあの日の夜は、間違いなく忘れられない誕生日になった。オットが会計を済ませる隣で私は店員さんたちに何度も謝罪した。店員さんは

「本当にお気になさらないでくださいね。こちら本日お召し上がりいただけなかったデザートです、お包みしてますのでご気分がよくなられましたらお家でお召し上がりください。またのお越しをお待ちしております」

と、本当はコースの最後に食べる予定だったデザートの盛り合わせをお土産に持たせて下さった。

MIKIの語ったこの店の素晴らしさに、嘘偽りがないことを身をもって味わった。そんなMIKIが絶賛したチーズリゾットが食べられなかったことが心残りである。しかしノートに日付と名前まで書き込んでタトゥーを残してしまったサングリアゲロ吐き女は、もう2度と、この店に足を踏み入れることなどできないのであった。

いただいたお気持ちはたのしそうなことに遣わせていただきます