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いつまでも、心が動く人間でいたい。

こんばんは。
MM Yamadaです。
今日はちょっとした写真の話をします。

僕は写真を20年以上やってます(年齢がばれる)。
高校二年の時に親父の押し入れからニコンFEを見つけ出し、なんとなくフィルムを装填し、なんとなく露出を合わせ、なんとなく庭先の花を撮って、部活(文芸部)の顧問にその撮った写真を見せたところ絶賛され、その写真がそのまま部誌の表紙に採用されたのが僕の最初の成功体験でした。

その成功体験を支えたのは、ほかならぬ、「新規の体験を楽しむことができた」からでしょう。フィルムを装填する感覚、絞りその他を操作する感覚、ファインダーを覗き込んだ先の枠で限られた世界を見る感覚、シャッターを切る感覚、フィルムを送り、巻き上げる感覚。すべてが新鮮でした。その千度ある体験が、そのまま感動につながり、最初の成功を引き出したのかもしれません。

今、残念ながら、僕の中ではその新鮮な体験は急速に薄れていっています。何もかも見たことのある光景、見たことのあるシチュエーション、見たことのある光、見たことのある陰影…。大体のことが既視感にあふれています。

既視感と戦う

技術的に言えば、いろいろなことに先んじて勘が働くようになったと言えます。構図も光も読めるようになったと。しかし、逆にそれが手枷足枷になってしまったような気がします。もう「この条件以外では撮れない」というような。これはある意味悲しい。有名観光地で「今日は光がいまいちだな」と捨て台詞を吐いて去っていくようなベテラン写真趣味者に、一歩近づいてしまったのかもしれません。

光を読めてしまう悲しさ

個人的にはそのような態度は格好いいとは思えません。

ここで肝心なのは、「心が動いたら撮る」と自分に言い聞かすことだと僕は思っています。わずかでも心が動いたなら、ほかの理由をつけずに撮る。その閾値を、可能な限り下げておく。これを意図的にやる。

「心」が動かなくなったら、眼前には荒れ地があるのみ。僕はいつまでも、「心」が動く人間でいたい。

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