楽天の「累計538勝カルテット」が目指す「通算100勝カルテット」、過去の達成チームは?(その1)

 東北楽天イーグルスの石井一久GM兼監督が今季2021年シーズンの開幕投手に涌井秀章(34歳)、開幕2戦目の先発に田中将大投手(32歳)を指名したと報道された。
 田中は自身、7年ぶりのNPBへの復帰となるが、これによって楽天の投手陣に「累計通算538勝投手カルテット」が誕生した。
 2020年シーズン終了時点で、楽天の主な投手陣の通算勝利数を見てみると、

涌井秀章(34歳):通算144勝(西武85勝、ロッテ48勝、楽天11勝)
岸孝之(36歳): 通算132勝(西武103勝、楽天29勝)
則本昴大(30歳):通算85勝(楽天のみ)

 この累計361勝トリオに、田中将大の通算177勝(楽天99勝、ヤンキース78勝)が加わり、2021年のシーズンは計538勝の豪華な先発ローテーションが形成される可能性が高い。しかも、則本があと15勝を挙げて、通算100勝に到達すれば、「通算100勝投手カルテット」の誕生となる。
 では、NPBで過去に同様の「通算100勝投手カルテット」は存在したのだろうか? 歴史を紐解いてみたい。
(年齢はすべて開幕当時)


読売ジャイアンツ(1949年)

 NPB史上初の「通算100勝カルテット」に触れる前に、「通算100勝トリオ」について触れておく必要がある。
 1948年、水原茂監督(49歳)率いる読売ジャイアンツは開幕ダッシュに失敗し、山本一人(旧姓:鶴岡)選手権監督(31歳)が率いる南海ホークスを猛追したが、結局、南海が逃げ切って優勝した。打撃陣は、川上哲治(28歳)と青田昇(23歳)が共に本塁打王、さらに青田昇が首位打者の二冠を獲得し、投手陣も、中尾硯志(29歳)、川崎徳治(27歳)がともに27勝を挙げて最多勝を獲得するほどの活躍を見せたが、南海の投手陣のうち、先発三本柱である別所昭(25歳、後に毅彦に改名)が26勝、中谷信夫(27歳)が21勝、柚木進(27歳)が19勝を挙げてさらに上回り、選手兼監督の山本が主に四番・サードで出場し、自身2度目のMVPを獲得した。

 巻き返しを図りたい巨人は、南海のエース格の別所昭(通算89勝)が自らの待遇に不満を持っていることに目をつけ、別所の引き抜きを画策する。これがいわゆる「別所引き抜き事件」に発展した。連盟は別所に事前接触した巨人に対して制裁金が課したが、結局、別所はシーズン開幕直前に巨人入り(同時に「毅彦」に改名)し、両チームに禍根を残すこととなった。
 1949年のシーズン開幕直後に行われた巨人対南海の3連戦はいきなり遺恨試合となり、3連戦最後となった4月14日の試合で、試合中の南海の筒井敬三の走塁プレーをめぐって、水原監督がベンチを飛び出して筒井を殴打するという、最悪の事件となった。
 水原は連盟から無期限出場停止の処分を受け、代わって、40歳の中島治康が選手兼任のまま監督代行を務めた。別所を引き抜かれた南海は7月以降、失速し、巨人に大きく負け越すと4位に終わった。一方、巨人は出場停止を食らった別所が6月に移籍後初先発を果たすと先発ローテーションに加わり、期待にたがわぬ活躍をし、7月には水原が出場停止処分を解かれて、指揮官に復帰すると、最後まで独走し、巨人は戦後初の優勝を果たした。

 別所毅彦は10月2日、大阪タイガース戦(後楽園)でシーズン11勝目を挙げ、通算100勝をマークした。これで巨人には藤本英雄、中尾に続いて、別所が加わる、NPB史上初となる「通算100勝」トリオが誕生した。
 さらに、川崎徳次が11月10日の南海戦(後楽園)でシーズン19勝目を挙げて、この年、24勝を挙げた藤本英雄に次ぐ20勝に王手をかけたが、あと1勝、届かなかった。


  巨人の主力の投手陣は1949年シーズン終了時点でこのような通算勝利数であった。

藤本英雄(31歳) 100勝+24勝= 124勝
中尾硯志(30歳) 124勝+13勝= 137勝
別所毅彦(27歳)  89勝+14勝= 103勝
川崎徳次(28歳)  79勝+19勝=   98勝
合計                 462勝
(年齢はシーズン終了時点)


 ところが、1949年オフに二リーグ分裂問題が起き、球団拡張によって、福岡に西鉄クリッパーズ(現・西武ライオンズ)が誕生することになり、福岡出身の川崎は西鉄に請われて移籍することになった。
 こうして、NPB史上初の「通算100勝カルテット」の誕生は幻となった。
 そして、川崎が去った巨人は、セントラル・リーグ初年度となった翌年1950年、松竹ロビンス、中日ドラゴンズの後塵を拝し、3位に終わった。

読売ジャイアンツ(1955年)

 1955年、巨人は水原円裕(茂から改名、1955年から1959年までの登録名)が監督就任6年目を迎えたが、前年の1954年に中日ドラゴンズに初優勝を許していた。投手陣は、藤本英雄(36歳)、中尾硯志(35歳)、別所毅彦(32歳)というベテランに加え、下手投げの大友工(30歳)が別所に次ぐ先発の柱となっていた。

 大友が7月10日の中日戦で完封勝利を挙げてシーズン20勝をマークすると同時に、通算100勝に到達し、NPB史上初の「通算100勝カルテット」が誕生した。

 さらに、中尾が8月11日の大洋戦(川崎)で通算200勝、藤本英雄が10月11日の広島戦(和歌山)で通算200勝を挙げたことで、NPB史上唯一の「通算200勝トリオ」も誕生した。

 結局、この年の巨人は、大友が30勝、別所が23勝、中尾が16勝を挙げて、チーム92勝、貯金55という圧倒的な強さでリーグ優勝を果たし、藤本、中尾、別所、大友は累計758勝の投手カルテットとなった。ただし、通算200勝を挙げた藤本はこの年限りで引退したため、「通算100勝カルテット」も、「通算200勝トリオ」も、短い命であった。

藤本英雄(37歳):通算200勝(巨人183勝、中部日本17勝)
中尾硯志(35歳):通算204勝(巨人のみ)
別所毅彦(33歳):通算224勝(南海89勝、巨人155勝)
大友工(30歳): 通算110勝(巨人のみ)
合計  758勝
(年齢はシーズン終了時点)
 

 読売ジャイアンツは、1955年シーズン終了時点で、通算1288勝を挙げていた。その間、この4人の投手がジャイアンツで挙げた勝利数は実に652勝。チーム20年分の勝利数の約半数に相当する。まさにジャイアンツの最初の20年の歴史をつくった4投手といってよい。

(つづく)



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