【訃報】安田猛さん/世界の王から逃げなかった男


 1970年代にヤクルトスワローズで投手として活躍した安田猛さんが亡くなっていたことがわかった。享年73。

 1979年頃からプロ野球を観始めた僕としては、残念ながら安田さんの投球はほぼ記憶にない。それでも、安田さんのことを知っているのは、漫画「がんばれ!!ダブチくん」の影響である。
 田淵幸一さんをモデルにした主役のタブチくんに次いで、安田さんをモデルにしたヤスダくんは、ほぼ準主役級の扱いだった。後で知ったことだが、二人は東京六大学野球リーグで、立教大学と早稲田大学に分かれて、凌ぎを削ったライバルであった。立教大学の田淵さんのほうが早稲田大学の安田さんより1歳上で、長嶋茂雄さんが持つ、通算本塁打のリーグ記録を抜き、すでにスターだったのに対し、安田さんは早稲田のエースではなかったが、プロでは肩を並べるような投手に成長していた。二人とも奇しくも背番号は「22」だった。
 アニメや映画にもなった「がんばれ!!ダブチくん」は正直、漫画としてはブラックすぎる内容で、登場人物の扱いもひどいものだったが、安田さんはヤスダくんのことを大笑してくれたそうである。

 安田猛さんは、福岡の文武両道の進学校、小倉高校の野球部で、170cm程度の身長ながら左腕のエースとして1965年のセンバツ甲子園に進んだが、1回戦で敗れた。その夏は福岡大会準決勝で、原貢監督(ジャイアンツ原辰徳監督の実父)が率いる三池工業に敗れた(三池工業は甲子園初出場で初優勝を果たした)。
 進学した早稲田大学では1年生で左ひじを故障してしまい、サイドスローの技巧派に転向した。同期のエース、小坂敏彦さんは甲子園準優勝投手で、後に読売ジャイアンツからドラフト1位指名を受けている。このとき、早稲田の同級生には、谷沢健一さん(中日)らを擁していたが、リーグ優勝を果たした投手の原動力は小坂さんであった。安田さんが神宮で挙げた勝ち星はわずか4勝。それでも、安田さんは卒業後に進んだ大昭和製紙で、投手として開花し、1970年の都市対抗野球大会では最高の選手に贈られる「橋戸賞」を受賞するまでになった。
 安田さんがプロに入ったのは、1971年のドラフト会議で、まだヤクルトがスワローズではなく、アトムズと名乗っていた頃だ。6位指名と、社会人投手としては決して評価は高くなかった。安田さんは遅いストレートで打者を打ち取るために、制球を磨き、投球リズムを工夫したそうなので、「技巧派」というより「頭脳派」と呼ぶほうがふさわしいのかもしれない。
 安田さんはデビューした1972年、開幕した4月からリリーフの合間に先発でも登板した。三振を奪う投手ではないが、とにかく制球とテンポがよい。そして、大事な場面で一発を食うことも少ない。名将・三原脩監督の信頼を勝ち取るのに時間はかからなかった。
 安田さんはプロ入りから2年連続でリーグトップの登板数、そして最優秀防御率投手という離れ業を演じた。NPBの歴史で、新人から2年連続で最優秀防御率投手のタイトルを獲得したのは、他に西鉄の大エースだった稲尾和久さんしかいない。
 安田さんの投球スタイルは「技巧派」と呼ばれながら、決してかわす投球ではなかったようだ。それは、これまた球史に残る、「1シーズン81イニング連続無四球」という記録にも現れている。プロ2年目、1973年の夏場に記録したものだが、それも、大学時代に仰ぎ見た六大学のスター・田淵さんへの敬遠四球から始まり、田淵さんへの敬遠四球で終わったのが、なんとも因縁深い。
 特に王貞治には闘志をぶつけた。王さん曰く「(安田さんには)内角高めのストレートで詰まらされた」。安田さんは「ONと対決するためにプロに入った」と公言していたそうで、王さんとの初対決こそストレートの四球で歩かせてしまったが、1977年、王さんが通算755号と756号本塁打に王手がかかった打席で7度、対戦し、結局、節目のホームランを打たせないどころか、無安打に封じた。王さんとの対戦で通算被打率.254(126打数32安打、10本塁打)は「王キラー」と呼ぶのに相応しい成績だった。
 安田さんが1979年以降、目立った活躍ができなくなったのは、1978年、ヤクルト球団創設初のリーグ優勝で燃え尽きてしまったこともあるかもしれない。すでに1974年の時点で、左投手にとって軸足となる右足の膝の半月板を損傷していた。その古傷を押して、安田さんは投げ続けていた。1978年も松岡弘さんに次ぐ15勝を挙げ、リーグ優勝に貢献した。スワローズ球団創設初めて日本シリーズで、広岡達郎監督は、初戦に安田さんを送った。スワローズの投手として初めての日本シリーズ先発マウンドを踏んだ安田さんは2試合に先発して勝ちはつかなかったが、チームは初の栄冠を手にし、安田さんは歓喜の輪に交じった。
 その後、両ひざを故障した安田さんは、1981年のオフに引退した。通算93勝ながら、5度の二けた勝利、そして、通算59試合の完投のうち、無四球試合23試合は、数々の名投手に交じって、NPB歴代25位という驚異的な記録を残している。
 2019年7月に行われた、ヤクルト球団創設50周年記念のドリームゲームでは、スワローズのレジェンドたちと共に、病気を押して安田さんも神宮のマウンドに上った。たった2球の復活だったが、それが公に見せた、スワローズの背番号「22」、最後の姿となった。
 病気がなければ、母校・小倉高校の監督に就任するという話もあったようだ。病気と闘いながら、足しげく、東京から母校の野球部に指導に通っていたという。志半ばの逝去となった。

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