48年前に巨人のエースでシーズン26勝の堀内恒夫の年俸は、現代ならいくらが妥当か?


 読売ジャイアンツの菅野智之がポスティングによるMLB移籍を断念し、NPB残留を決め、来季年俸8億円で契約更改した。2019年、2020年の年俸6.5億円は、2004年、2005年の佐々木主浩(横浜)と並んで投手としてはトップタイであったが、これでNPBでは、かつてのジャイアンツのロベルト・ペタジーニ(2003年)の7.2億円を抜いて史上最高額となった。
 同じジャイアンツのOBであり、背番号「18」の先輩でもある堀内恒夫氏は、自身のブログ「きょうもどこかであくたろう」でこう書いている。


「菅野の年俸8億だって?凄いねぇ。いや、いいことだと思うよ。夢があっていいじゃない」
「しかし、俺、今の時代に現役やってたらいくらもらえてたかなぁ(笑)」
「ちなみに堀内恒夫くん最高年俸が26勝した時の1800万。そして次の年が12勝。10以上勝ったけど年俸は下がったというね」
https://ameblo.jp/horiuchi18/entry-12650469290.html

 山梨・甲府商業のエースだった堀内恒夫は1965年、第1回ドラフト会議で、ジャイアンツから1位指名された。翌1966年に4月14日にプロ初登板・初先発した中日戦でプロ初勝利を挙げると、開幕から13連勝はいまだにセ・リーグ記録(2020年に菅野が並ぶ)で、新人では後輩の上原浩治(1999年、15連勝)に破られるまで新人記録。途中、44イニング連続無失点という新人離れした快投を見せ、終わってみれば、16勝2敗、防御率1.39。最優秀防御率、最高勝率、新人王、そしてNPB史上4人目となる新人で沢村賞受賞と、タイトルを総ナメにした。高卒1年目の新人で沢村賞を受賞したのは堀内が最後である。打では長嶋茂雄(首位打者)、王貞治(本塁打王、打点王)、柴田勲(盗塁王)、投手では城之内邦夫(21勝)、堀内の活躍もあり、川上ジャイアンツはV2を達成した。
 堀内は翌年からエースナンバーである背番号「18」を背負い、快速球と2種類のカーブ(ドロップ、ハチマキカーブ)、チェンジアップを武器にその後も順調に勝ち星を重ね、V9時代を象徴する若きエースにのし上がった。1967年10月10日の広島カープ戦では19歳でノーヒットノーラン、そしてその試合で3打席連続本塁打というとんでもない記録も残している。
 グラウンドを離れると、寮の門限破りの常習犯で、あだ名は出身地から「甲府の小天狗」、そして自身のブログのタイトルにもつけているが、「悪太郎」の異名をとった。
 堀内氏がジャイアンツでシーズン26勝を挙げたのは、V8を達成した1972年、プロ7年目、24歳のシーズンである。長嶋・王を抑えて、シーズンMVP、2度目の沢村賞を受賞した。V9時代に、ON以外でシーズンMVPを受賞したのは堀内だけである。更に、堀内より後に、セ・リーグでシーズン25勝を挙げた投手はいない(パ・リーグでは1976年の山田久志(26勝)、1978年の鈴木啓示(25勝)がいる)。
 堀内は日本シリーズでも1972年、1973年と2年連続でMVPを受賞している。
 1972年の阪急ブレーブスとの日本シリーズは4年連続で第1戦に先発登板(日本シリーズ最長記録)して勝利、第2戦ではリリーフで2勝目、第3戦に先発し、敗戦投手になったが、第4戦ではまたリリーフ登板し、5試合のうち4試合も登板して、文句なしのMVPである。
 1973年はその反動か、シーズンでは12勝17敗、防御率4.52と不振だったが、日本シリーズでは大活躍。南海ホークスを相手に3試合に登板して2勝0敗、防御率0.91。第2戦ではリリーフで登板して決勝タイムリー、第3戦は先発完投して投手史上唯一の1試合2本塁打、日本一を決めた第5戦は胴上げ投手と独り舞台と言ってもよかった。日本シリーズ史上、27試合登板、投球回数140回1/3は最多、通算11勝はあの「神様・仏様・稲尾様」の稲尾和久(西鉄ライオンズ)と並んで、歴代トップである。
 堀内が非凡だったのは、投球だけではなかった。守備では1972年に創設されたダイヤモンドグラブ賞(現・ゴールデングラブ賞)の投手部門で初代から7年連続で受賞しており、これは投手部門では西本聖(巨人)と並んで歴代最長タイである(西本は計8回受賞)。
 打撃でも、投手唯一の1試合3打席連続本塁打を始め、日本シリーズで史上唯一の投手による1試合2本塁打、そして、1983年、後楽園での引退試合の最終打席でも通算21本目となる本塁打を放っている(小学校5年生の僕は、この試合をテレビで観た記憶がある。休日のデイゲームだったからである)

 一方、菅野智之は大卒かつプロ入り時に1年浪人しているので、24歳でプロ入りしており、プロ8年で通算101勝49敗、防御率2.32。昨季は開幕から13連勝(新人の堀内と並びセ・リーグのタイ記録)で通算100勝に到達したが、通算登板192試合での100勝到達は、日本人歴代6番目の早さで、通算100勝到達時点での勝率.680は、田中将大、ダルビッシュ有、松坂大輔らを上回る日本人歴代9位である。
 活躍した時代が異なる両者の投手成績を単純に比較することは難しいが、24歳の堀内は、いまの菅野並みか、それ以上の活躍をしていたといって過言ではない。
 その投手が48年前とはいえ年俸1800万円というのは、いまの感覚でいえば、いくらなんでも安すぎると思うのは当然である。
 

 菅野の年俸が8億円に達した背景には、言うまでもなく、NPBでのフリーエージェント制の導入、複数年契約・出来高制(成果報酬)の一般化、MLB移籍の可能性が広がったことによる選手年俸の高騰がある。そして選手の年俸増を吸収できるだけ、NPBがスポーツビジネスとして市場規模を拡大してきたことも大きい。
 日本プロ野球選手会が昨年6月に、加入選手を対象とした年俸調査の結果を発表したが、球団別の支配下登録選手の2020年の平均は4189万円である(選手会に加入し、2020年開幕時に支配下登録されていた選手。外国人選手は含まれていない)。これは現行の調査となった1988年以来、過去最高となっている。
 なお、NPB選手会は全チーム別の選手総年俸について1980年以降、数値を公表しており、1980年の12球団の平均選手年俸は602万円、ジャイアンツは657万円であった。これは阪急ブレーブス(765万円)、広島カープ(690万円)に次いで3位である。その40年後、2020年のジャイアンツの支配下登録選手の平均年俸は6109万円で、ソフトバンクホークス(7131万円)に次いで2位、セ・リーグでは断トツのトップである。
 従って、堀内が全盛期の頃、1980年以前の選手年俸の全貌をとらえることはできなかったが、堀内の年俸が安く抑えられていた理由の一つに、同じチームのスーパースターであるONの存在が強かったと言われる。1972年、ジャイアンツはV8を達成したが、長嶋は36 歳で、打率.266、27本塁打、92打点という成績だった。前年、打率.320で首位打者を獲得し、年俸が4560万円から4920万円へとアップしたが、この年は大幅に打率が下がり、自己最低となったこともあり、翌年の年俸は現状維持の4920万円だった。
 一方、王貞治は32歳で、1972年は年俸4260万円で迎えた。打率.296、48本塁打、120打点、本塁打と打点の2冠王を獲得し、翌年の年俸は4800万円(前年より13%増)。4歳年上の長嶋とほぼ変わらないレベルにまで上がった。そして、長嶋が現役引退を迎える1974年には5220万円で初めて長嶋をこえると、40歳で現役最終年となった1980年の年俸は8160万円となった。王が現役引退した翌年の1981年、ジャイアンツの支配下登録選手の平均年俸は657万円から601万円まで下がった。
 NPBの選手年俸がはじめて1億円を超えるのは、1986年にロッテから中日に移籍した落合博満(1億3000万円)まで待たなければならなかった。
 長嶋・王が在籍していたジャイアンツではいくら活躍しても、長嶋、王の年俸を超えることはありえないという不文律があったと言われる。しかも、後によく言われるように、長嶋、王は自身の年俸に無頓着であり、契約更改でも自分の年俸をもっと上げてほしい、と球団に対して主張したことがなかったと言われる。
 ただし、長嶋・王がジャイアンツに入団した当時、1950年後半はドラフト制度導入前で、選手の獲得は自由競争であったことから、東京六大学リーグの大スターであった長嶋の契約金は破格の1800万円だった(年俸は180万円)。その行き過ぎを抑えるために1965年のドラフト制が導入されたが、前年にジャイアンツに入団した選手の契約金は6000万円まで高騰し、ドラフト1期生の堀内の契約金は1000万円だったという。

 また、投手である堀内の年俸が安く抑えられたもう一つの理由は、当時と現在における、野手と投手の貢献度に対する考え方の違いだと思われる。レギュラーの野手は毎日、試合に出場する可能性があるが、投手は毎日、登板するわけではない。堀内は1972年に48試合に登板、26完投しているが、それでも、毎日試合に出場していた長嶋、王に比べたら、堀内の稼働は少ない、という考えがあったものだと思われる。投手の肩が消耗品だという認識が薄かった時代の、誤った認識に基づくものだろう。
いまのジャイアンツの主力選手の年俸を挙げると、

菅野智之(31歳) 6.5億円→8.0億円
坂本勇人(32歳) 5億円(5年契約の2年目、最初の3年は年俸5億円)
丸佳浩   (31歳)  4.5億円(5年契約の2年目、年俸4.5億円)
岡本和真(24歳) 1.4億円→2.1億円

 投手の菅野の年俸が、すでに通算2000安打を放って名球会入りした坂本よりも30%も多いのである。投手の200勝と野手の2000安打の難易度の違いはあれ、これはONと堀内の時代では考えられなかっただろう。
 これらの要因が、1972年のジャイアンツの契約更改で、長嶋(36歳)4920万円、王(32歳)4800万円、堀内(24歳)1800万円、という年俸の序列になった真相と言ってよいだろう。

 では、堀内恒夫が現在、ジャイアンツのエースを張っていたら、その年俸額はどうだっただろうか?だが、菅野は現在、31歳、1972年当時の堀内が24歳であるため、これまた単純な比較は難しい。
 そこで、いまのNPBで堀内と似たような年齢・成績の投手を探してみたが、これもなかなか難儀である。いまのNPBで、かつての堀内のように、高卒1年目からシーズン二けた勝利を7年、続けている投手もいない。そもそも、当然ながら、堀内がエースであった1960年代後半から70年代前半までと現在では、投手起用の考えが大幅に異なる。先発、中継ぎ、抑えで分業はなく、力のある投手は、先発した登板の合間に、リリーフで登板するのも当たり前であった。
 例えば、現在、高卒からプロ7年を終えた投手で最も年俸が高いのは、楽天の松井裕樹で年俸2億5000万円(2020年から4年契約、2021年からプラス出来高)である。クローザー中心に、通算で22勝・141セーブ・61ホールドを挙げているが、先発中心で起用されていた堀内と比べるのは適当ではないかもしれない。
 また、昨年、27歳のシーズンを迎えた福岡ソフトバンクホークスの千賀滉大は高卒で育成契約での入団だが、プロ6年目から5年連続二けた勝利を続けており、通算189試合登板で66勝35敗、防御率2.69。堀内と比べると、通算成績では若干、不足する印象だが、昨季は通算投球回855回1/3での通算1000奪三振到達(昨年11月4日)は、藤川球児(阪神)に次いでNPB史上2人目で、最多勝(11勝)、最優秀防御率(2.16)、最多奪三振(149個)の投手主要タイトルを独占しており、パ・リーグではNo1の実績といってよい。年俸は昨季の3億円から今季4億円である。
 

 堀内以降に、堀内と似たような成績を挙げた投手はといえば、桑田真澄と松坂大輔だろう。
 桑田真澄はプロ2年目の1986年にブレイクし、15勝6敗、防御率2.17でタイトル、沢村賞を受賞した。そこから5年連続で二けた勝利を挙げ(通算74勝)、プロ6年目の23歳のオフには年俸9840万円と1億円の大台にリーチをかけた。堀内が24歳で26勝を挙げてからちょうど20年後のことだが、桑田は堀内の5倍強の年俸を得たことになる。
 24歳で迎えた翌1992年に6年連続となる二けた勝利を挙げるも、自身初の負け越しとなり、年俸9840万円から8880万円にダウンした。26歳で迎えた1994年に14勝を挙げて、通算100勝を超えると、年俸は1億4300万円(72%増)でようやく大台突破となった。だが、直後の1995年5月に桑田は右ひじの腱を断裂しトミー・ジョン手術を受け、約1年半を棒に振った。1996年オフに同級生の清原和博(当時西武)の年俸は3億6000万円に達しており、桑田の年俸(1億円)との差は最大3.6倍にまで広がっていた。桑田は菅野と同じ31歳の時に、年俸2億円に到達したが、堀内同様、10代、20代の酷使がたたったせいか、故障と不振を繰り返し、通算150勝に到達したときは33歳になっていた。34歳で迎えた2002年に4年ぶりの二けた勝利、防御率2.22で、16年ぶりに最優秀防御率のタイトルを獲得して復活を見せ、年俸3.4億円(約80%増)と大台に乗せるが、その後は9勝しか積み上げられず、38歳で巨人を退団、MLBで1年プレーして通算173勝で引退した。皮肉なことに、桑田がジャイアンツで稼いだ年俸総額28億円のうち、半分は晩年の6年間で稼いだもので、その間は25勝しか挙げていない。

 松坂大輔は高卒で西武に入団した1年目の1999年に、16勝5敗、防御率2.60で最多勝、新人王を獲得し、翌年の年俸は7000万円、5700万円増の約5倍に跳ね上がった。その後も3年連続でリーグ最多勝、4年目は故障の影響で登板数が14まで減少したが、5年目、6年目には2年連続で最優秀防御率のタイトルを獲得している。松坂は24歳を迎えた7年目、2006年のシーズンに年俸3.3億円の大台に乗せた。翌年はポスティングでMLBのボストン・レッドソックスに移籍、6年で5200万ドル(当時の為替レートで約61億円)の大型契約を勝ち取った(西武は移籍金として5111万ドル(同60億円)を得た)。

 24歳の松坂大輔(年俸3.3億円)、27歳の千賀滉大(年俸4億円)、31歳の菅野智之(年俸8億円)を基準に、年齢、所属するチーム、物価などの違いなどを考慮に入れると、1972年当時、24歳の堀内恒夫の活躍を基にした来季の年俸は、6億円が妥当ではないだろうか。日本シリーズでの活躍も加味している。
 24歳で自己最多となるシーズン26勝を挙げた堀内は、その時点で通算117勝を挙げていたが、実はこの年が成績ではピークだった。それでも新人から30歳のシーズンまで13年連続で二けた勝利、計194勝を挙げ、名球会入りは余裕かと思われたが、その後が長かった。堀内には若い頃から腰痛の持病があり、しかも、シーズン200イニング以上の登板が9度もあった代償は大きかった。31歳のシーズンは、4勝7敗に終わり、通算200勝まではお預けとなった。そして、32歳で迎えた1980年6月、本拠地・後楽園球場でのヤクルト戦で、NPB史上16人目となる200勝をマークした。その後、堀内は江川卓、西本聖、定岡正二らの台頭の前に、登板機会が激減し、1983年に通算203勝で現役引退した。32歳から引退までの35歳の間の4年間でわずか5勝しか挙げることができなかったのだ。ジャイアンツの生え抜きエースとして、最多勝利となる中尾硯志の209勝にわずかに届かなかった。
 堀内もV9時代の登板過多がたたり、晩年は勝ち星を伸ばすことができなかったが、それでも200勝を達成できたのは幸運だったかもしれない。堀内の前に、NPBが始まって44年間で15人も誕生した200勝投手は、堀内の誕生以降、40年間で9人しか生まれていない(日米通算200勝の黒田博樹を含み、現時点で計25人)。
 そして、ジャイアンツは80年余りの歴史で、投手出身の監督は藤本英雄、藤田元司、そして堀内恒夫の3名しかいない。堀内は2004年からジャイアンツの監督を2年務め、3位、5位とリーグ優勝は果たせなかった。堀内にとって、藤田は同じ投手出身、エースナンバー「18」を受け継いだ先輩でもある。藤田は実働9年、通算119勝で現役引退したものの、長嶋政権と王政権の狭間で監督としてリーグ優勝4回、日本一2回という結果を残したため、藤田と堀内は、現役時代と監督の実績では対照的なものとなってしまった。
 堀内氏はその後、政界に転身し、73歳を迎えたいまは実質、隠居の身だが、ブログで発言すればまだまだ注目される立場である。ジャイアンツの原監督が唱えるDH制度導入には、「DHがあるからパ・リーグが強いっていう原(監督)の意見は違う」と直言している。
 一方で、堀内氏は「悪太郎」のイメージが強いが、現役時代、父が病に倒れ、東京の病院に呼び寄せ、東京にいる時には毎日、わざわざ病床まで顔を見せに行ったという親孝行の一面もあった。そのシーズンに、堀内氏の26勝という大記録はつくられた。
 ジャイアンツのエースにしか分からない景色を見てきた堀内氏の野球観にも耳を傾けたいものである。

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