NPB通算1000試合以上に出場した野手で最少安打と最少本塁打は誰か


中日ドラゴンズの後藤駿太がNPB527人目となる通算1000試合出場に到達した。

後藤は4月10日、横浜スタジアムでの対横浜DeNAベイスターズ戦で、8回裏からレフトで途中出場し、オリックス・バファローズの選手として2011年4月12日に一軍で初出場を果たして以来、足掛け14年で1000試合出場の大台に到達した。

同じ試合で、チームメートの高橋周平も通算1000試合出場を決めており、NPBで同一チームの選手が同じ試合で通算1000試合出場に到達するのは、1977年8月5日、阪急西宮球場で行われた阪急ブレーブス対近鉄バファローズ戦で、阪急の福本豊と大橋譲の二人以来、47年ぶり2度目という。

後藤駿太というと近年、すっかり「守備の人」というイメージがある。
オリックス時代は、ドラフト1位指名を受けた高卒新人として開幕スタメンという華々しいデビューを飾った。
プロ2年目以降も春季キャンプでは好調で、開幕スタメンを勝ち取るものの、打撃不調となり、ファームに行くというパターンが何度も繰り返された。
一方で、後藤は時折、打席で印象に残る一発や、守備ではうならせる活躍を見せるため、ファンに期待をさせるという、不思議な魅力を持った選手だ。

その後藤が高卒から入団して14年かけて1000試合に到達した。
その間、後藤が打った安打数は385本、本塁打は15本である。
NPBでは527人目であるが、実はNPBで通算1000試合以上の試合に出場して、通算安打が500安打以下という野手は15人しかおらず、後藤は下から数えて5位タイ、通算本塁打が15本未満の野手は9人しかおらず、後藤は下から数えて10番目タイ(ほかに2名)となっている。

後藤駿太の野球人生を振り返ってみよう。

「上州のイチロー」こと後藤駿太、張本勲以来の高卒新人開幕スタメン

後藤駿太は前橋商業高校2年生の時に、2009年春のセンバツ大会に出場したが初戦敗退、翌2010年、3年夏にも甲子園出場を果たし、2回戦で敗れたものの、俊足、強肩、巧打と走・攻・守に優れ、「上州のイチロー」の異名を取った。2010年のドラフト会議では、オリックス・バファローズが1位指名の抽選で大石達也(西武)、伊志嶺翔大(ロッテ)、山田哲人(ヤクルト)を外した後に後藤を指名、入団を果たした。
背番号は「8」、登録名は同姓の後藤光尊がいたため、「駿太」となった。

駿太はオリックスの高卒新人野手では初の開幕一軍入りを果たすと、4月12日に、本拠地・京セラドーム大阪での福岡ソフトバンクホークスとの開幕戦で「9番・右翼手」としてプロ初出場。
NPBの高卒新人外野手では、1959年の張本勲(東映フライヤーズ)以来、52年ぶりの快挙となった。
だが、開幕直後に打撃が低迷し、5月に二軍落ちを経験すると、ルーキーイヤーはわずか30試合、40打数4安打、本塁打0、打率.100で終えた。

駿太は2012年も2年連続で開幕一軍入りすると、3月30日、ソフトバンクとの開幕戦(福岡Yahoo!JAPANドーム)で「9番・右翼手」としてスタメンで出場。
高卒新人野手が2年連続で一軍の開幕戦にスタメンで出場したのは、1960年・1961年の矢ノ浦国満・内野手(近鉄バファローズ)以来、51年ぶりで、さらに外野手では1959年・1960年の張本勲以来、52年ぶりという快挙を成し遂げた。

駿太は2014年、一軍公式戦の127試合に出場、6月11日には、代打満塁本塁打を放つなど、規定未達ながらキャリアハイとなる打率.280、5本塁打、30打点を記録、チームの6年ぶりのクライマックスシリーズ進出に貢献した。
2013年から5年連続で100試合以上に出場し、守備では安定的に力を発揮するも、打撃難から規定打席への一度も到達はなかった。
登録名を「後藤駿太」に改名した2018年には高卒4年目の内野手・宗佑磨が外野手転向で頭角を現し、後藤は33試合出場へと激減した。

2019年には91試合出場と持ち直したが、外野手の西浦颯大、中川圭太、小田裕也の台頭もあり、先発出場は35試合に留まり、打率.224、1本塁打。
2020年はプロ入り以来、最低となる23試合の出場にまで落ち込んだ。
チームは2021年に25年ぶりのリーグ優勝を果たすも、56試合の出場にとどまり、日本シリーズへの出場もなかった。
翌2022年も開幕スタメンは勝ち取るも、5月末に登録抹消。
シーズン途中に7月8日に中日・石岡諒太とのトレードで、中日に移籍した。

後藤は中日に移籍後も、外野の守備固め中心ではあるが、相変わらず守備には目を見張るものがあり、今季2024年も開幕一軍を勝ち取っていた。

後藤駿太は通算1000試合に到達時点で、2005打席に立ち、1772打数385安打、打率.217、15本塁打、150打点という打撃成績である。

NPB通算1000試合以上に出場した野手で通算安打数と通算本塁打数が最も少ないのは?


では、NPB通算1000試合以上に出場して、後藤駿太(385安打)よりも通算安打数が少ない野手は誰であろうか?
それは、以下の4人である。

・井上修(広島ー阪急、1965年-1980年)1035試合、245安打 22本塁打
・正岡真二(村岡真二)(中日、1968年-1984年)1188試合、288安打  2本塁打
・山森雅文(阪急・オリックス、1980年-1993年)1072試合、289安打 33本塁打
・鈴木尚広(巨人、1997年-2016年)1130試合、355安打 10本塁打

また、NPB通算1000試合以上に出場した野手、後藤駿太(15本塁打)よりも通算本塁打数が少ない野手は誰であろうか?
11人が該当するが、そのうち通算10本塁打以下は6人いる。

・正岡真二(中日、1968年-1984年) 1188試合 2本塁打
・赤星憲広(阪神、2001年-2009年) 1127試合 3本塁打
・島原輝夫(南海、1950年-1963年) 1096試合 3本塁打
・諸積兼司(ロッテ、1994年-2006年)1110試合 7本塁打
・木村勉(近鉄、1939年-1958年)  1219試合 9本塁打
・鈴木尚広(巨人、1997年-2016年) 1130試合 10本塁打

NPBで通算1000試合以上に出場した中で最少安打の井上修と、最少本塁打の正岡真二、その2人のキャリアを振り返ってみよう。


井上修

井上修は福岡電波高校から1965年に広島カープに入団。
プロ3年目の開幕戦で遊撃でスタメン出場し、プロ初安打を記録したが、打撃に課題があり、出場機会が減り、1970年に阪急ブレーブスに移籍。
西本幸雄監督の下で、主に三塁・森本潔の守備固めとして重宝され、1971年のリーグ優勝に貢献した(ただし、日本シリーズ出場はなし)。
1972年にはプロ初本塁打を記録するなど、53安打、打率.285、17盗塁を記録した。1973年以降はまた打撃が下降したものの、1971年から1977年まで7年連続二桁盗塁をマークするなど、主に守備固めと走塁で1975年からのリーグ4連覇を支えた。特に盗塁成功率が高い(通算で77.2%)のが特徴だった。

井上が阪急に在籍している間、チームは日本シリーズに5度出場しているが、特に1975年の日本シリーズは、井上の古巣・広島との対戦となった。
第3戦、3-3の同点で迎えた9回、ヒットで出塁した高井安弘の代走として、井上は日本シリーズに初めて出場し、中沢伸二のホームランで決勝のホームを踏むと、第4戦も延長13回に代走で登場し、一時、決勝点となるホームを踏んだ。
結局、上田利治監督率いる阪急が4勝2敗で広島を下し、初の日本一に輝き、井上も大いに留飲を下げた。
ただし、1976年と1977年の日本シリーズは出場はなかった。
1978年の日本シリーズ、ヤクルトスワローズとの第4戦の9回裏にようやく代走として出場、同点のランナーとなったがホームには還れず、第5戦も7回から代走で出場、1死三塁の場面で、1番・福本豊の三塁への内野安打の間にホームを踏んだ。
そして、3勝3敗で迎えた第7戦は、6回、阪急先発の足立光宏からヤクルト・大杉勝男が放ったレフトポール際の大飛球がホームランと判定されたことを巡って、阪急・上田利治監督が猛抗議。
NPBコミッショナーの金子鋭まで巻き込む大騒動となった。
結局、判定は覆ることなく1時間19分の中断の末、試合は再開されたが、足立は降板を余儀なくされ、ヤクルトがチャーリー・マニエル、大杉のこの日、2本目となるホームランで4-0とリードし、9回表へ。
阪急は代打の河村、大熊が倒れ、2死走者なしとなったところへ、代走から遊撃の守備固めに入っていた井上に打順が廻った。
井上は日本シリーズ初めての打席を迎えたが、ヤクルト先発の松岡弘の前にカウント1-2と追い込まれると、4球目を打ってショートゴロに倒れ、遊撃の水谷新太郎から一塁の大杉勝男に送球が渡ったときには井上は一塁ベースのまだ手前にいた。
井上はヤクルトスワローズの球団創設初となる日本一を決めた瞬間の最後の打者となった(そして、井上にとって、生涯唯一の日本シリーズでの打席だった)。

https://www.youtube.com/watch?v=Em9Zhe6nMf4

井上修は梶本隆夫監督に替わった1979年には96試合に出場、うち遊撃手として先発で57試合に出場、打率.213ながら自己最多となる9本塁打を放ったが、1980年オフに34歳で引退した。
通算1035試合に出場し、通算245安打、22本塁打、59打点、打率.223、132盗塁(盗塁死39)、盗塁成功率77.2%。
引退後は阪急のコーチを務めた後、1993年に台湾に渡り、統一ライオンズ、和信・中信ホエールズでヘッドコーチを務めた。


正岡真二(村上真二)

村上真二は愛媛・今治南高校では「高校球界No1の遊撃手」との評価を受け、3年夏の甲子園では2回戦で敗退したが、1967年のドラフト会議で中日ドラゴンズに4位指名を受け入団、背番号は「51」を着けた。
1968年のシーズン最終戦で、「9番・遊撃手」でプロ初の先発出場を果たし、二塁打を放ってプロ初安打を記録した。しかし、打撃難から1969年、1970年と一軍出場はなかった。その間、二軍で森下整鎮コーチ(元南海ホークス内野手、盗塁王、ベストナイン2回)に徹底的に守備を鍛えられ、プロ4年目の1971年8月にようやく一軍再昇格を果たした。
守備には定評があったものの、当時の中日の内野には遊撃には守備に長けた元メジャーリーガーのバート・シャーリー、二塁には高木守道がおり、正岡に割って入る隙はなかった。
1972年に姓を「正岡」に変更。
1972年オフにバートが引退したものの、ロッテから広瀬宰が移籍し、遊撃手のレギュラーを獲得したため、正岡はもっぱら広瀬の守備固めだったが、1974年は112試合に出場し、スタメン出場はわずか7試合ながら、リーグ優勝に貢献し、優勝決定の瞬間もショートの守備位置から見届けた。
長嶋茂雄の引退試合となった10月14日、後楽園球場でのダブルヘッダーでも第1試合で「8番・遊撃手」でスタメン出場している。
ロッテオリオンズとの日本シリーズは広瀬が14打数5安打、1本塁打と好調であったため出番がなかったが、中日が2勝3敗と追い込まれ、中日球場で行われた第6戦、正岡は「8番・遊撃」でスタメン出場を果たし、ロッテの先発・村田兆治から4打数2安打と気を吐いたが、チームは延長の末、敗れ、日本一にはなれなかった。

1975年の春季キャンプで当時メジャーリーガーのフェリックス・ミヤーン(のちの大洋ホエールズ)をまねた打法を取り入れると、スタメン出場は65試合と増え、打席数も204に増え、自身キャリアハイとなる打率.267を記録。そのオフに広瀬が太平洋クラブライオンズに移籍したが、交換相手の梅田邦三も遊撃手であったため、1976年のシーズンは梅田との併用が続いたが、プロ9年目で初の本塁打を記録した。
1977年、120試合出場のうち85試合で遊撃手で先発、自己最多の259打席に立つと、1978年も119試合に出場、自己最多の106試合で先発出場、305打席に立ち、64安打を放ったが、1979年に高卒2年目の宇野勝に遊撃手のレギュラーを奪われた。
背番号が「6」に変わった1981年は3年ぶりに100試合以上に出場し、5年ぶりの本塁打も放ったが、スタメン出場はわずか9試合に留まり、半数は三塁・大島康徳の守備固めとしての出場だった。

このシーズン、正岡の守備がもっとも光ったのは8月26日の巨人対中日戦(後楽園球場)である。
この日は中日先発の星野仙一が6回まで巨人を無得点に抑えてきたが、7回裏、二死二塁の場面で、巨人・山本功児が打ったショートフライを宇野勝がヘディングして落球する”事件”が起きた。
跳ね返ったボールはレフトフェンスまで転々とし、その間に、二塁走者が生還、さらに打者の山本もホームを狙ったが、守備固めでセカンドに入っていた正岡がショートの位置まで走って中継に入り、レフトの大島から返球を受けると矢のようなワンバウンド送球でホームでアウトにして同点を防いだ。
巨人は前の試合まで159試合連続得点を続けており、星野仙一はその阻止に燃えていたものの、宇野のエラーで完封を逃し、ホームベース付近でグラブをグラウンドに叩きつけて悔しがったのはあまりに有名なシーンだ。
結局は星野はこの1失点に抑えて、巨人から完投勝利を挙げ、試合後、正岡は星野から感謝されたという。


近藤貞雄監督の下で中日がリーグ優勝を果たした1982年、正岡は92試合に出場しながら、先発出場はゼロ、打席に立ったのは13打席だけで、70試合は三塁の守備に不安があったケン・モッカの守備固めであった。
このあたりから正岡は視力の低下と体力の衰えを自覚するようになり、チームも最下位に終わった1983年は23試合の出場に終わり、オフに現役引退のつもりであった。
しかし、次期監督の山内一弘から引き止められ、1984年は50試合出場のうち、三塁のケン・モッカの守備固めとして44試合に出場し、先発出場はゼロに終わると、シーズン最終戦、甲子園での阪神戦に代走で出場して、オフに引退した。
通算1188試合に出場して、1314打数288安打、打率.219、2本塁打、59打点、35盗塁。
通算1000試合以上に出場した527人のうち、正岡の通算本塁打2本は最少である。(ロッテの岡田幸文は通算910試合に出場して本塁打0)。

引退後は中日に残り、守備コーチを経て、1996年・1997年と二軍監督を務めた後、スカウトとしてを又吉克樹らを獲得した。
現在は名古屋北リトルリーグの総監督を務めている。




1936年に始まった職業野球からNPBの2023年シーズン終了時点に至るまで一軍に在籍したことがある選手は7291人いるという。
その中で1000試合以上に出場した選手は527人しかいない。
一軍に出場した選手の中でも、わずか7%のさらに狭き門をくぐった選手たちだ。

その中で打撃以外の価値で生き残った選手がいるという事実を以って、野球というスポーツの奥深さをより伺い知ることができるだろう。

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