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オリックス、先発全員複数安打!

5月3日、オリックス・バファローズが福岡PayPayドームで行われた対福岡ソフトバンクホークス戦で、計22安打を放って、9-4で勝利したが、8回表、9番・捕手の若月健矢がセンター前にヒットを放ち、先発したメンバーが全員、複数安打を達成した。

NPBで「先発全員がマルチ安打」達成は10チーム目



NPBで「先発全員がマルチ安打」を達成したチームは、今回のオリックスで10チーム目であるという。

しかしながら、この記録については情報に乏しく、

・NPB最初の達成は、1940年4月6日の阪急軍(対南海軍戦)。
・オリックスは前身の阪急軍、阪急を含めて、1978年6月7日の対クラウンライターライオンズ戦以来、45年ぶり3度目の達成。
・NPBで今回のオリックスより前の達成は、2004年7月24日の近鉄バファローズ(対西武ライオンズ戦)で19年ぶり。

それらの情報を基に、作成したのが次のリストである。

セ・リーグは投手も打席に立つため、先発全員安打ですらハードルが高いが、パ・リーグでは1975年にDH制度が導入されており、交流戦以外は原則、投手が打席に立つことはないため、この記録の達成が集中しているといえる。

特にオリックス投手陣は2003年に、福岡ダイエーホークスに先発全員複数安打を2度、食らっており、20年の時を超えて雪辱を果たしたことになる。

この両チームの「因縁」はここでとどまらない。
さらに戦前に遡ることにしよう。

1940年4月6日 阪急軍対南海軍、NPB最多得点試合


日本の職業野球で最初に「先発全員複数安打」を記録した試合は、黎明期の1940年に遡り、さらに「いわくつき」の試合だった。
1試合でのチーム最多得点を記録した試合でもあり、最多得点差を記録した試合でもあった。

1940年のシーズンも始まってまだ1か月もたたない4月6日、阪急西宮球場で行われた阪急軍対南海軍。
太平洋戦争が激化する中で、職業野球の選手たちも次々と戦地へ送られた。南海軍は主将の鶴岡一人を始め、宮口美吉、中田道信、平井猪三郎、小林悟楼、栗生信夫、海蔵寺弘司が兵役にとられ、チームは弱体化した。
阪急軍も高橋敏(前年19勝、9完封)と荒木政公(前年9勝)という二人の20歳の投手を応召され、戦力ダウンが甚しかった。
それ故、公式戦で出場する選手が不足する事態に陥った。

阪急軍はこの日、本来、外野手である山田伝を先発登板させた。
山田はアメリカ出身の日系二世で、日系二世で構成されたノンプロチームで日本に遠征中のところを阪急軍にスカウトされ入団したという変わり種。
俊足好打で、前年には盗塁王を獲得しており、守備ではフライをキャッチするときもヘソの辺りにグラブを持ってくるという変則キャッチを見せるので、「ヘソ伝」というあだ名がついた。
しかも、左利きにもかかわらず、二塁を守るという器用なプレイヤーであった。

一方、南海軍はアンダースローの劉瀬章をマウンドに送った。
劉は中国大陸生まれの中国人で、法政大学野球部に進むと、エースの若林忠志(のちに大阪・阪神タイガース)と共に、法政大学の2度目のリーグ優勝に貢献し、南海軍が発足した1938年に入団した。
NPBで中国人選手が一軍で実働したのは劉瀬章以来、まだ現れていない。

しかし、この試合、大誤算だったのは南海軍のほうだった。
先発の劉が早々に打ち込まれ、一死も取れずに降板。
南海軍はたまらず2番手の平野正太郎をマウンドへ送ったが、平野も回を追うごとに失点し、6回まで投げ被安打10を浴び、11失点を喫した。
一方、阪急軍先発の山田はスローカーブを放って打者を翻弄し、5回まで無失点に抑える好投を見せた。

南海軍は2-15と大差がついた7回、新人の深尾文彦をマウンドへ。
深尾は大阪・京阪商業高校時代は甲子園に3度、出場した有望な投手で、チームメートの宮口美吉と共に地元に創設された南海軍に入団しており、これがプロ初登板となった。
しかし、これが火に油を注ぐ結果となった。

深尾は7回、阪急軍打線に対し、四球、ヒット、三盗、四球で無死満塁のピンチを招くと、3つの押出し四球、長打で5点を失い、2-20と大量リードを許した。
深尾は8回もマウンドに上がったが、阪急軍打線の勢いを止められない。
またも無死満塁のピンチをつくると、7番の新富卯三郎がレフト線を破る2点タイムリー二塁打を放って22点目を挙げた。
この瞬間、阪急軍は職業野球で初めて、先発メンバー全員が2安打以上を記録した。
続投する深尾はさらに3本のタイムリー安打を浴びて、8失点。2-28となった。
それでも試合はまだ1イニング、残っていた。
深尾は9回もマウンドに送られた。
またも3連打で1点を失い、さらに無死満塁のピンチに陥ると、味方のエラーも重なり、5番・山下実のライト前タイムリーでついに17失点。
さらに二死一、二塁のピンチとなったが、最後は8番・土肥省三をレフトフライに打取り、なんとかスリーアウトチェンジ。

阪急軍先発の山田伝は8回まで2点に抑えると、9回もマウンドに上がり、南海打線を抑え、ゲームセット。
山田は南海軍打線に10安打を浴びながらホームラン1本の2点に抑え、プロ初勝利を完投勝利で飾ると、打っても3安打2打点と「二刀流」の活躍を見せた。
この後、投手としても3試合に登板したが、勝利を挙げたのはこの試合だけで、本業の打撃のほうでは打率.272でリーグ5位に食い込み、この年から創設されたベストナインの外野手部門で堂々、選出された。

一方、深尾文彦はこの日、3イニングを投げて、被安打13、四球12で17失点。
防御率51.00という不名誉なデビュー戦となった。

「1試合17失点」の深尾文彦、その後の野球人生



しかも、この試合以降、深尾が投手としてマウンドに上がることはなかったため、これが生涯成績となった。
さらに、深尾の「1試合17失点」は職業野球史上ワースト記録となっていたが、1950年5月31日、東急フライヤーズ対毎日オリオンズ戦で、東急の伊藤 万喜三が18失点を喫し、1試合の最多失点のワースト記録を更新した。
この記録はいまだに破られれていない。

深尾はその後、野手として内野、外野を守り、代打要員となったが、目覚ましい成績は残せず、翌1941年限りで退団となった。

深尾文彦のプロ生活でのハイライトは、1940年6月4日、巨人の沢村栄治が兵役から戻って2年ぶりとなる職業野球の復活マウンドの試合だった。
沢村栄治は8回まで南海軍打線をゼロに封じ、9回もマウンドに上がると、二死三塁のピンチを招く。
ここで代打に深尾が起用されると、沢村のボールをセンター前にはじき返し、沢村の完封を阻止した。
これが深尾にとってプロ入り初打点となったが、同時に職業野球で挙げた最後のヒットと打点でもあった。




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