1964年の王貞治(24歳)にシーズン最多本塁打新記録を許した男たち

1963年のシーズン、23歳の王貞治はキャリアハイの成績を更新していた。

王はプロ4年目の1962年、初の開幕4番に起用され、不振に陥ったが、シーズン途中で「一本足打法」を確立、38本塁打、85打点で初めて本塁打王と打点王のタイトルを獲得。
1963年の開幕当初は、3番を任されていたが、6月から長嶋茂雄に代わって4番に座るようになった。
本塁打数は初めて40本の大台に乗り、2年連続の本塁打王。
打点王は同僚の長嶋茂雄(112打点)に譲ったものの、106打点で初の100打点超え。
23歳でシーズン40本塁打・100打点超えはNPB最年少である。
打率も初めて3割を超え、リーグ3位。
長嶋茂雄と王貞治の「ON砲」で、川上哲治率いる巨人は2年ぶりのリーグ優勝、そして西鉄ライオンズを破って、同じく2年ぶりの日本一に輝いた。

王を始め、セ・リーグの打撃二冠王・シーズンMVPの長嶋、そして、パ・リーグのシーズンMVPとなった野村克也(南海ホークス)、最多勝の稲尾和久(西鉄ライオンズ)の4人は、航空会社からヨーロッパ旅行をプレゼントされ、オフにパリやローマなどを巡って、束の間の安息の日々を過ごした。

2年連続ホームラン王の王貞治、開幕前に一本足打法を止めるか悩む

さらなる飛躍を期待された王は1963年のオフ、思い悩んでいた。
川上哲治監督は、「一本足打法」で2年連続のホームラン王を獲得した王に対し、それでは飽き足らず、「二本足なら打率4割を打てる」と言い、一本足打法を止めるように勧めたのである。
実は王は前年の日本シリーズ最終戦で、二本足打法を試し、1試合2本塁打を放っていた。
そして、開幕前、オープン戦で二本足で打席に立ったものの、打球の飛距離が伸びないことを感じた。
王は「一本足打法」の生みの親である、打撃コーチの荒川博とも相談の上、結局、開幕まで1か月を切った段階で、一本足打法に戻すことにした。

「一本足打法」で行く、と決めた王にもはや迷いはなかった。
そして、1964年のシーズン開幕からその期待にたがわぬ打棒を発揮した。

王貞治、1964年の開幕戦で金田正一から場外アーチ、ホームランを量産

1964年3月24日、後楽園球場で行われた巨人の開幕戦は、国鉄スワローズとの対戦。
国鉄の大エース・金田正一との対決となった。
金田は前年も30勝を挙げ、リーグ最多勝、そして前人未到の13年連続のシーズン20勝を達成していた。
だが、30歳を迎えた日本球界最高の左腕ですら、24歳の王を抑え込むことは難しくなっていた。
3回、王は金田のカーブを捉え、後楽園球場のライトスタンドをはるかに超え、場外へと消えるシーズン第1号を放った。
推定飛距離は150メートルと言われた。
そこから10試合で本塁打7本と、とんでもないペースでホームランを量産した。
4月は14試合ホームランなしという時期もあったが、下旬に4試合連続ホームランと巻き返し、21試合で本塁打6本、打率.394。
一方、4番を打つ長嶋も打率.330、14本塁打と、王を上回るペースで本塁打を放っていた。
5月に入り、3日の阪神タイガース戦で、王はNPB史上初となる「1試合4打席連続本塁打」をマーク。
5月5日の広島カープとのダブルヘッダー第2戦では、白石勝巳監督が、初めて「王シフト」を実践するなど、セ・リーグの各チームは王に対する「包囲網」を敷いたが、
5月は22試合で本塁打10本と手がつけられなくなった。
一方、ライバルの長嶋は6月以降、ホームランが減少し、本塁打王争いから脱落。
王の一人旅となった。

本塁打日本記録更新ペースでシーズンを折り返す

王は6月19日、チーム70試合目となる国鉄戦で28号本塁打を放ち、前年の1963年に、野村克也(南海ホークス)が記録したシーズン52本塁打を上回る、「シーズン56本塁打」ペースとなった。しかも、前年のパ・リーグは150試合制である。
6月21日の国鉄戦では、エース金田から29号・30号を放った。
このシーズン、金田から7本目、しかも1試合2本塁打はシーズン3度目という「金田キラー」を発揮した。
6月は22試合で8本塁打、打率.326で終えた。

7月に入っても、王の打棒は衰えない。
7月19日、後楽園球場での広島カープ戦では自身通算150本塁打となるシーズン35号、7月19日、後楽園球場での国鉄戦では後楽園球場のバックスクリーンを超える、推定飛距離150メートルの36号本塁打を放った。7月も22試合で8本塁打を放った。

王は8月もコンスタントにホームランを打ち続けた。
8月2日、阪神戦では、「一本足打法」に転向してから初めて公式戦で「二本足打法」でレフトにホームランを放ち、これが2年連続のシーズン40号本塁打。
8月4日には、自己最多となる41号。
8月6日、国鉄戦で金田との対戦では、3三振を喫したものの、
8月27日の大洋戦では、1950年の小鶴誠(松竹ロビンス)、野村克也に続き、史上3人目となるシーズン50号本塁打に到達、さらに、同じ試合で51号を放って、小鶴の51本塁打に並び、セ・リーグタイ記録をマーク。
8月は月間25試合で12本塁打と、野村克也の日本記録である52本塁打にリーチを掛けたまま終えた。

ところが、王はシーズン51号を放ってから、日本記録への重圧か、6試合ホームランなしというスランプに陥った。

王貞治、三原脩の「奇策」を破り、日本記録タイとなるシーズン52号本塁打

9月5日、川崎球場での読売ジャイアンツ対大洋ホエールズ戦。
この日は土曜ということもあり、川崎球場には後楽園球場と変わらない、3万5000の観衆。
大洋は1960年以来となるリーグ優勝に向けて、首位・阪神タイガースと競っていたのと、王の本塁打記録が懸かった一戦となった。

大洋が3-2と1点リードで迎えた9回表、大洋2番手の秋山登は2死までごぎつけたが、迎えるは王貞治。
秋山が投じた球を王はスイング一閃すると、打球は特大の飛球となってライト線へ。
川崎球場の場外へと消えていったが、わずかに切れてファウルとなった。
結局、王は秋山に打ち取られ、日本記録タイは持ち越しとなった。

翌日、6日の日曜日も同じく川崎球場で大洋とのダブルヘッダーとなった。
この日も観衆は3万5000人を数えた。
大洋の三原脩監督は、前日、先発に起用して好投した左腕の鈴木隆を2日連続で先発起用するという「奇策」に打ってでた。

だが、巨人は初回、先頭の柴田勲がヒットで出塁すると、二塁盗塁を決め、2番の国松彰の送りバントで一死三塁。3番の長嶋が犠牲フライで1点を先取した。
ここで打席には王。
鈴木は王に対してストレートとカーブでカウント1-1になった。
続く3球目、鈴木が投じたのはカーブだった。
左打席の王の身体に向かってからストライクゾーンに曲がり、膝下に落ちたボールを王は一本足から振りぬいた。
王自身が「打った瞬間はファウルだと思った」と感じた打球はあっという間に、ライトスタンド上段へ。
シーズン52本目、野村克也の日本記録に並んだ。

三原脩は「奇策」が不発に終わると、鈴木をこの回限りで交代させた。

王貞治、前人未到のシーズン53号

巨人が2-0で迎えた6回表、三原監督は3番手に右腕の峰国安を送った。
峰はこの年、リリーフで40試合以上に登板、勝ち試合を締めることが多く、いわば、リリーフエースであったが(NPBで公式記録としてセーブが導入されたのは1974年である)、この回の先頭は王。
三原は「王封じ」の「刺客」として峰を差し向けたのである。

マウンドの峰は、一本足打法の王と対峙するとき、タイミングをずらすことを画策した。
峰は投球モーションに入ったが、その動きを一旦、止めた。
だが、バッターボックスの王は右足を上げない。
すると、峰のほうが焦れてしまった。
「そうか、(王は)二本足で変化球を待っている」
峰はストレートを投げようとした。
その瞬間、王は右足を上げた。
峰は右手からボールを離した瞬間に「しまった」と思った。
内角高めに行った半速球のボールを王のバットは捕えていた。
この時、川崎球場の上空には、ホームに向かって5メートルの逆風が吹いていた。
だが、王が放った打球はそれをものともせず、右中間スタンドに飛び込んでいった。
日本新記録の53号本塁打は、推定飛距離115メートルのアーチだった。

王は足早にダイヤモンドを一周した。
三原脩の「奇策」も、峰の「奇手」も王の一本足打法の前には成す術がなかった。
王はシーズン最多本塁打記録の更新のみならず、シーズン11度目となる「1試合2本塁打」の日本記録も更新した。
結局、大洋は6-1で敗れた。
逆転優勝に望みをかける大洋にとって、手痛い敗戦となった。

王、次に狙うは「戦後初の三冠王」

王はシーズン最多本塁打記録の更新もさることながら、二リーグ分立後では初、一リーグ時代から数えても1936年の中島治康(巨人)以来、史上2人目となる「三冠王」も射程圏内に入ってきた。
王は本塁打、打点はリーグトップを独走していたが、首位打者を目指す上で強力なライバルが立ちはだかった。

それが、中日ドラゴンズの江藤慎一である。

(つづく)

【余談】王貞治と峰国安の「奇縁」

王と峰には後日談がある。

翌年1965年9月19日、王が通算200号ホームランを打ったのも大洋戦で、相手は峰だった。
峰はこの年、124人の打者と対戦したが、唯一、ホームランを打たれた相手が王だった。

峰は成績不振と首脳陣との確執もあり、1969年に大洋を退団したが、移籍したのは巨人であった。
ただし。峰は選手登録はされたものの、現役の投手として期待されていたのではなく、もっぱら、打撃投手としての採用であった。
当時、12球団で専門の打撃投手を抱えていたのは巨人だけだったというが、その中でプロで一軍でもっとも実績があったのは峰だった。
峰はONの打撃投手を務めるようになり、特に王の相手をすることが多くなると、「王の恋人」と呼ばれるようになった。
現役時代、いかに王にホームランを打たせないようにするか腐心した男が、今度は王にいかに気持ちよくホームランを打ってもらうか腐心するようになったのである。

裏方に回った峰が静かに脚光を浴びたのが、1974年のシーズンオフ、MLBのホームラン王であったハンク・アーロンと王が後楽園球場で行った「ホームラン競争」の場である。

その際、王に投じる投手として選ばれたのが「王の恋人」こと峰であった。
王は、2度の「疑惑」のファウル判定もあり、わずか1本差でアーロンに敗れたが、この「世紀のホームラン競争」は日本テレビ系列で録画放送ながら、関東地区で27.8%という高い視聴率を記録した。
王に向かって投じる峰の後ろ姿が全国にテレビ中継されたのである。

そして、峰はこの日を限りに打撃投手を「引退」した。

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