NPBプロ初登板・初セーブを最初に挙げた男のその後の野球人生は?


広島カープの2020年のドラフト1位ルーキー、栗林良吏(トヨタ自動車)が3月27日の開幕2戦目、地元・マツダスタジアムでの対中日ドラゴンズ戦でプロ初登板し、初セーブを挙げた。

栗林は、広島が4-1と3点リードの9回表、4番手でプロ初登板すると、6番・京田陽太をセカンドゴロ、7番・木下拓哉をピッチャーゴロ、8番・根尾昴を空振り三振に斬って取り、ゲームセット。わずか10球で試合を締めた。指揮官2年目を迎えた佐々岡真司監督、そして先発した先輩投手の九里亜蓮とカープファンに今シーズン初勝利をプレゼントした。

栗林は翌日3月28日の開幕戦3戦目も、0-0で迎えた9回に登板し、1イニングをまた三者凡退に抑え、0-0の引き分けに持ち込んだ。

昨日3月30日、開幕2カード目の初戦となった阪神戦では、今季初先発の森下暢仁が6回、被安打1、無失点と好投し、2番手・森浦、3番手・塹江も無失点で繋ぐと、1-0というしびれる場面の9回表にプロ3度目のマウンドに上がった。4番・大山悠輔を空振り三振の後、ジェリー・サンズに自身初となる被安打を許したものの、ライト・鈴木誠也の好返球もあり、サンズは二塁でタッチアウト。最後は同じドラフト1位ルーキーの佐藤輝明を空振り三振に切ってとり、ゲームセット。早くも2セーブ目を挙げた。

では、NPBで一軍初登板・初セーブを挙げた投手はどれくらいいるのだろうか?

栗林のプロ初登板・初セーブは、昨年8月14日に、オリックスの漆原大晟(2018年育成1位、大卒)が西武戦(京セラドーム大阪)にプロ初登板して初セーブを挙げて以来となるが、NPBで1974年にセーブが公式記録となって以降、プロ初登板で初セーブを挙げた投手は意外に少なく、日本人では栗林が史上8人目である。
外国人投手では、マリオ・ブリトー(巨人、登録名は「マリオ」)、マット・ホワイトサイド(横浜)など懐かしい名前が並ぶが、NPBで外国人の通算最多セーブ記録(234セーブ)を持つデニス・サファテも、2011年に広島に入団して来日初登板で初セーブを挙げている。

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広島は地元・マツダスタジアムで迎えた今季開幕戦、先発に大瀬良大地を立てて、7回まで4-0とリードしていたが、そこから中継ぎ陣がひっくり返され、6-7で敗れた。
栗林がもしも、開幕戦に登板してセーブを挙げていれば、1982年の阪急・山沖之彦(大卒)以来となる日本人2人目快挙であった(山沖も、栗林と同じドラフト1位である)。
それでも、同じチームの先輩で、現在、一軍投手コーチを務める永川勝浩が2003年の開幕第2戦のヤクルト戦(神宮)でプロ初登板・初セーブを挙げたチーム最速記録に並んだ。

NPB日本人の新人投手のシーズン最多セーブ記録

なお、NPBの日本人の新人投手で、シーズン20セーブ以上を挙げたのは6人しかいない。

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広島のチーム新人記録は2003年の永川勝浩(大卒)の25セーブだが、これはNPB新人歴代4位で、NPBの新人記録は2015年に、横浜DeNAベイスターズの新人・山崎康晃(大卒)が37セーブを挙げて、1990年の中日・与田剛(社会人出身、現・中日監督)が持つ31セーブを抜き、更新した。
山崎は同年5月に月間15セーブを挙げ、やはり与田が新人の1990年6月に記録した月間9セーブを大きく更新して、新人の月間最多セーブ記録も保持している。

また、プロ初登板・初セーブを挙げて、後に最優秀救援投手、あるいはシーズン最多セーブ投手のタイトルを手にしたのは、外国人投手を含めても、2015年から2017年のサファテ(ソフトバンク)だけで、もし、栗林が最多セーブ投手のタイトルを獲得すれば、NPBでは日本人投手として史上初となる。
また、通算100セーブ以上を挙げているのも、永川(通算165セーブ)とサファテ(通算234セーブ)の二人しかいない。
栗林は先輩たちの記録にどこまで迫り、そして追い抜くことができるだろうか。

NPBで最初に「プロ初登板・初セーブ」を挙げた投手は誰か?

NPBで最初に「プロ初登板・初セーブ」を挙げたのは、セーブが公式記録として導入した1974年、阪急ブレーブスの石田芳雄である。

阪急ブレーブスは1972年のドラフトで、二人の「石田」を指名した。
ドラフト1位は、栃木・足利工業の石田真という右投手で、もう一人は、ドラフト3位は群馬・上武大学第一高校の石田芳雄、同じく右投手であった。

石田真は中学時代から名の知れた右腕投手で、栃木の強豪の私立、作新学院からの誘いを受けていたが、それを断り、足利工業に進んだ。
石田真は1年生からエースとなり、3年生の夏に北関東代表として甲子園行きの切符を手に入れた。それまでに高校通算で実にノーヒットノーランを5度も達成していた。甲子園の一回戦の名護戦で12三振を奪う好投を見せ、勝利を挙げると、2回戦の中京戦で敗れはしたが、「北関東の三羽カラス」と謳われた。
180cmを超える長身から繰り出すストレートと、カーブは一級品であった。
あとの二人は、千葉県立成東高校の鈴木孝政(1972年・中日ドラフト1位)、もう一人はあの江川卓である。
江川は石田真の1年後輩で、石田真が進学しなかった作新学院に入学した。
当時の江川は、目標にする投手として「石田真さんのようになりたい」と言ったほどである。
阪急が石田真をドラフト1位に指名したのも当然であった。石田真は契約金1000万円、年俸180万円で入団した。
(奇しくも、阪急は翌年1973年のドラフトで、甲子園を沸かせた作新学院の江川卓を1位指名するが、江川は大学進学のため、指名を拒否している)

もう一人の「石田」である、石田芳雄は、上武大学第一高校3年の夏、群馬大会で敗れ、甲子園には一度も出場できなかったが、2年生のとき、対松井田戦(春の関東地区予選)と対沼田戦(西毛リーグ)で、ノーヒットノーランを2度、記録していた。右のサイドスローの投球フォームはどこかぎこちないものであったが、阪急のスカウト、矢野清の目に留まった。当時の阪急には、二大エースとして、サイドスローの足立光宏、アンダースローの山田久志がいたのも指名の決め手になったのかもしれない。

1974年の阪急は、監督が西本幸雄から上田利治に替わって臨んだ最初のシーズンであった。
前任の西本は、阪急監督在任11年の間、5度のリーグ優勝に導いたが、すべて日本シリーズで敗れ、前年1973年には前期優勝を果たすも、プレイングマネージャーの野村克也率いる南海ホークスにプレーオフで敗れ、日本シリーズ進出を逃したため、自ら身を引いた。

弱冠37歳の若き新人監督の上田が率いる阪急は開幕から順調に勝ち星を重ね、6月20日に前期優勝を決めた。
消化試合となった6月25日の地元・西宮球場での対南海戦は、一昨年のドラフト1位ルーキーの顔見せとなった。
石田真が、プロ初登板・初先発のマウンドに上がったのである。

石田は初回にいきなり1点を失ったが、阪急打線が序盤から爆発し、6回を終えて9-3と大量リードした。先輩野手たちの大量の援護にもかかわらず、石田真は制球が定まらず、8四死球と大乱調だったが、被安打6、3奪三振、3失点で勝利投手の権利を持ったままマウンドを降りた。

その後を継いだのが、石田真と同期入団の石田芳雄であった。9-3とリードで迎えた7回裏から2番手としてマウンドに上がった。
石田芳雄は8回に門田博光にソロホームラン一発を浴びたが、その1失点のみに抑え、3イニングを投げ切った。打者11人に対し、被安打3、1奪三振、1失点。終わってみれば、阪急が10-4で勝利した。
先発の石田真は、「プロ初登板・初先発・初勝利」、同期の石田芳雄も「プロ初登板で初セーブ」という最高のスタートを切った。

試合後、石田真は記者に囲まれ、破顔一笑で、
「こんなに早く勝てるとは思わなかった。これも首脳陣や先輩ナインのお陰です」
と感謝を口にした。

いまなら、翌日のスポーツ新聞に、二人の「石田」が肩を組んで笑顔でガッツポーズする写真が載ったかもしれない。

しかし、皮肉にも、「プロ初登板・初先発・初勝利」の石田真より、「プロ初登板・初セーブ」の石田芳雄のほうが、記録的には希少価値があった。
しかも、石田芳雄はこの時、19歳4か月であり、1989年にヤクルト・川崎憲次郎が18歳7か月で初セーブを挙げるまで、最年少セーブ記録であった。

プロ初登板を最高の「結果」でスタートした、二人の「石田」であったが、その後の野球人生は順風満帆とはならなかった。

次に出番が訪れたのは、石田芳雄のほうだった。
その翌週、前期最終戦となった7月3日のロッテ戦(後楽園)で2-2の同点で迎えた8回表、石田芳雄は8番手として登板した。しかし、ジム・ラフィーバーに決勝の一打を浴び、敗戦投手となった。

その翌日から後期のシーズンが始まると、阪急は出足で躓き、その後、巻き返したものの、9月に15日間でダブルヘッダー2回を含む16試合という過密日程となり、その間に6連敗を喫して、後期はロッテオリオンズの優勝を許して、2位に終わった。
その間、二人の「石田」には登板機会がなかった。

後期シーズン最終戦は消化試合となった10月1日のロッテ戦(西京極)で、先発はエースの山田久志であったが、山田は先頭打者の千田啓介を三振に取ると、マウンドを降りた。二番手はベテランの米田哲也が上がり、2回まで投げた。この起用は、山田と米田がシーズン規定投球回数の130イニングに到達させるための、上田監督の計らいであった。
阪急が2-0とリードした3回表に、石田芳雄が3番手として登板した。リードを守ればプロ初勝利の権利もあったが、2イニング目にエラーがらみもあって一挙、4失点して逆転を許し、敗戦投手になった。
阪急はその年のプレーオフ、ロッテに敗れてリーグ優勝を逃した。

翌年1975年、石田芳雄に一軍での登板の機会は与えられなかった。翌々年の1976年も、一軍のマウンドに上がることはなかった。
石田芳雄は一軍登板わずか3試合でそのまま1976年オフに引退した。

「登板3試合、先発ゼロ、投球回6、被安打8、被本塁打1、奪三振2、与四死球ゼロ、自責点4、0勝2敗1セーブ、防御率6.00」
-これがNPBで日本人投手で8人しかいない「プロ初登板・初セーブ」を最初に達成した石田芳雄の一軍での成績である。

もう一人の「石田」である、ドラフト1位の石田真はどうなったのか。
石田真は「プロ初登板・初先発・初勝利」という輝かしいデビューを切ったように見えたが、課題の制球難は相変わらず解消されず、すっかり二軍の主となっていた。二軍では好投するが、一軍では出番がないままであった。
石田真が次に一軍で登板したのは1980年11月8日、シーズン最終戦であった。
20歳を迎えた直後のプロ初登板・初勝利から実に6年4か月の月日が流れていた。2328日ぶりの一軍登板であった。
その間、上田阪急は1975年からリーグ4連覇し、その最初の3年で日本シリーズも3連覇するほどの戦力を誇っていた。
つまり、二人の「石田」は、山田久志、今井雄太郎、山口高志、佐藤義則という強力な投手陣の間に割って入ることができなかったのである。
その年、梶本隆夫率いる阪急は前年の2位から5位に沈んでいた。
日本シリーズは2年連続で広島カープと近鉄バファローズとの間で争われ、広島カープが日本シリーズ2連覇を果たしていた。
その日本シリーズが終了した後に、阪急と近鉄の間でレギュラーシーズンの130試合目が開催された。
その試合の先発の木下智裕は前年1979年のドラフト1位(大卒)で、3番手の矢田万寿男は、同年のドラフト4位(高卒)であった。
阪急は2-12とリードされ、敗色濃厚となった8回のマウンドに4番手として石田真が上がった。石田は三者凡退に抑えたが、それがプロでの最後の登板となった。
プロ8年間で、「登板2試合、先発1試合、投球回7、被安打6、与四死球8、失点3、1勝0敗0セーブ、防御率3.86」
これが1972年ドラフト1位入団・石田真の一軍成績である。

NPBの歴史で、「プロ初登板・初先発・初勝利」、「プロ初登板・初セーブ」という投手リレーは、1974年6月25日の阪急・石田真、石田芳雄の同期コンビしかいない。
その二人が、プロ野球生活でそれぞれ「1勝」と「1セーブ」しか挙げていないというのも、野球という記録のスポーツの奥深さである。

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