1974年のパ・リーグ プレーオフ、阪急対ロッテ 第1戦

パ・リーグはオリックス・バファローズが1996年以来、25年ぶりのリーグ優勝に輝いた。
2位の千葉ロッテマリーンズは1970年以来、51年ぶりの「リーグ勝率1位での優勝」まであと一歩であったが、悲願には届かなかった。

今日11月10日から、セ・パともに日本シリーズ進出を懸けたクライマックスシリーズのファイナルステージが始まったが、
いまから47年前、オリックス・バファローズの前身である阪急ブレーブスと、千葉ロッテマリーンズの前身であるロッテオリオンズとの間で、パ・リーグ優勝を懸けた「プレーオフ」が行われていた。

“ロッテが最後にパ・リーグで勝率1位、かつリーグ優勝したのは1974年。
金田正一監督の下、「ロッテオリオンズ」というチーム名だった頃だ。
ロッテは1972年オフに、本拠地にしていた東京スタジアムの閉鎖により、本拠地を失い、準本拠地を東北・宮城県仙台市にあるの県営宮城球場(現在の楽天生命パーク)とし、各地を転々としたため、「ジプシー・ロッテ」と揶揄されていた。
だが、このときはパ・リーグが前期・後期制を導入しており、ロッテは前期2位、後期優勝を、プレーオフで前期優勝の阪急に3連勝を決め、1950年の球団創設初年度にパ・リーグ優勝(日本シリーズ制覇)して以来、4度目のリーグ優勝を果たした。

従って、1974年のシーズンではロッテに優勝へのマジックは点灯していない。

遡ると、ロッテの優勝マジック点灯は、1970年、濃人渉監督の下で3度目のリーグ優勝を果たしたとき以来ということになる。”

ロッテが最後にリーグ優勝した1974年、パ・リーグは前期・後期制を採用しており、前期を制した阪急ブレーブス(現オリックス・バファローズ)と後期を制したロッテオリオンズがリーグ優勝を懸けて、プレーオフを行った。
先に3勝を挙げたチームが、リーグ優勝となり、日本シリーズに進出できる。

プレーオフ第1戦は10月5日に、阪急の本拠地である西宮球場で行われた。

阪急の先発は足立光宏、ロッテの先発は木樽正明で始まった。
34歳の足立光宏は、共にアンダースローの山田久志と1960年後半の阪急の黄金時代を支え、1967年には20勝でシーズンMVPを獲得したが、翌年、0勝に終わった。だが、シンカーを習得して、1971年に19勝と復活した。
阪急の上田監督は、この年も3年連続の二桁勝利となる10勝を挙げたベテランに初戦を託した。
一方、27歳の木樽も1970年のリーグ優勝時に24勝でシーズンMVPを獲得しており、初戦は「MVP投手」同士との投げ合いとなった。

試合は初回、ロッテ打線が足立を攻めた。
1番・池辺の当たりは、ワンバウンドして足立の頭上を越えて、セカンドの横を抜けセンター前へ。2番の飯塚が手堅くバントで送り、続く、3番・得津高宏の当たりは、ライトの長池徳二の前にポトリと落ちるラッキーな安打で先制した。得津はPL学園、クラレ岡山を経てロッテに入団したが、プロ8年目にして規定打席不足ながら打率3割を超え、外野のレギュラーを掴みかけていた。
一方の阪急は1回裏、先頭の福本豊が木樽から四球を選び、無死一塁。
当然、福本は仕掛けてスタートを切るが、2番の大熊の当たりはショート・飯塚の正面を突き、ダブルプレー。反撃の目を断たれた。
2回は5番のラフィーバーがセンター前ヒットで出塁、続く、6番の弘田のショートゴロで、1死一塁となったが、続く有藤の打席で弘田が二盗に成功。
これで1死二塁とすると、有藤通世が打った打球は、センターの福本豊の前に落ち、二塁走者の弘田がホームを踏んで2-0。有藤は右手首を痛め、打順を7番に下げていたが、執念のタイムリー安打で1点をもぎ取った。

ロッテは4回にも、得津のヒットを犠牲バントで送り、一死一、三塁にすると、また有藤に打席が廻る。
足立の投じたシュートを有藤が叩く。有藤の打球は詰まりながらも、今度はライトの長池の前に落ちる。3-0。
こうして、ロッテが有利に試合を進めていく。
足立は打ち取った当りが悉くタイムリー安打になるという不運に見舞われた。

阪急も、4回にようやく木樽を攻め、3番・加藤秀司の三塁打が、4番・長池徳二のタイムリー安打が飛び出して、1点を返し、反撃に転じた。
ロッテ・金田監督はここで木樽を諦め、二番手に八木沢壮六を投入。
しかし、続く、5番の森本にセンター前にはじき返される。
6番の住友がバントで一死二、三塁と一気に同点のチャンスをつくり、7番の捕手・中沢を右打席を迎えたところで、金田監督は再び動き、3番手に右の高卒ルーキー、三井雅晴を投入した。
三井は高卒新人ながら直球を武器に、先発・リリーフに31試合に登板し、6勝4セーブという成績を挙げていた(この年、パ・リーグ新人王を獲得した)。
阪急・上田監督は早くも「代打の切り札」、高井保弘を打席に送る。
両監督、ここが勝負所と読んだのである。

三井が右打席に高井にスリークオーター気味のフォームで投げ込むと、高井は三井のボールを引っ張って捉えた。高井の打球が三塁線を強烈に襲う。
だが、サードの有藤が好捕した。打球が抜けると判断した三塁走者の長池が飛び出しており、有藤はすかさず長池にタッチしてツーアウト、そして、有藤は一塁に送球、高井が一塁に到達する前に、ファーストのラフィーバーのミットに収まる。ダブルプレー。
阪急の同点のチャンスは一気に潰えた。
両チームの明暗が分かれる4回の攻防となった。

阪急は5回、三井を攻めて、大橋が四球、続く9番・足立の代打、正垣のヒットで無死一、二塁のチャンス。1番の福本豊を迎えたところで、三度び、金田監督が動く。4番手に左腕の水谷則博を送ったのだ。
しかも、この采配がまたもやはまり、阪急は無得点に終わった。
阪急は6回表から2番手の戸田がマウンドに上がると、ロッテ打線は2イニングをパーフェクトに封じる。すると、阪急は7回裏に、3イニング目に突入した水谷を捕え、福本がタイムリー二塁打を放ち、3-2。
ついに1点差まで迫る。

勝負の攻防は8回にまた訪れた。8回表、阪急は3番手のオースチンを投入するが、1安打1四球ですかさず、4番手の竹内に交代。竹内がロッテ打線を無得点に封じ、阪急は8回の攻撃を迎える。ロッテは水谷が4イニング目のマウンドに上がる。
8回先頭、加藤の打球は痛烈な当たりとなって三塁線を襲う。
だが、サード有藤が逆シングルでキャッチすると、一塁に送球してアウト。2度のファインプレーで流れを渡さない。
それでも、阪急は二死一、二塁のチャンスをつくり、迎える打者はベテラン捕手の種茂雅之。
種茂は東映フライヤーズ時代、1962年の日本シリーズで、エース土橋正幸とバッテリーでMVPを受賞したこともある。
ここで金田監督が最後の切り札を投入した。村田兆治である。
村田は、種茂を三振に斬って取り、阪急はまたも同点のチャンスを逃した。

カネやんが動くことはもうなかった。
村田は9回裏もマウンドに上がり、先頭から始まる福本を三振に取り、続く、大熊、加藤も退けて、ゲームセット。
ロッテの救援投手陣が、追いすがる阪急の攻撃を封じて、3-2で逃げ切ったのである。
試合後、勝った金田監督は「2年間の監督生活でこんなに楽しいことはない」と「カネやんラッパ」を吹き、敗れた上田監督は「ツキがなかった」と肩を落とした。

第2戦の勝負は翌日の10月6日、同じく西宮球場に引き継がれた。

ロッテの先発は金田留広、阪急は水谷孝がマウンドに上がった。
27歳の金田は、金田正一監督の13歳下の実弟で、この年、日拓(現在の日本ハム)からロッテに移籍したばかりで16勝を挙げ、自身2度目の最多勝、リーグMVPに輝いた。一方、阪急に1966年ドラフト会議で1位指名された水谷は26歳、高卒8年目で自身4度目の二桁勝利となる11勝(5敗)を挙げていた。

(つづく)

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