「1984年ロス五輪」野球日本代表を金メダルに導いた大学生・広澤克実

東京五輪2020の「野球」はいよいよ今日、福島で開幕する。
五輪の舞台に、野球が還ってくるのは、2004年の北京五輪以来、実に13年ぶりである。

野球の日本代表チームである「侍ジャパン」は、自国開催の五輪での悲願の金メダルを期待されているが、五輪の「野球」の歴史において、日本代表が金メダルを獲得したのは、アマチュアチームを派遣した1984年の米国ロサンゼルス五輪だけであることはよく知られている。
しかし、そのロス五輪で金メダルを獲得した野球日本代表についてはあまり多くのことが語られていない。

1964年の東京五輪でも「野球」は存在した

実は前回1964年の東京五輪でも、「野球」は開催された。ただし、あくまで「公開競技(エキシビション)」という位置づけであり、10月11日、神宮球場で、全日本学生選抜チームと全日本社会人選抜チームが、米国大学選抜チームとダブルヘッダーで戦うというものだった。
全日本学生選抜チームは、この年、全日本大学野球選手権で優勝した、駒沢大学の野球部の選手を中心に、慶應義塾大学、法政大学、立教大学の選手たちから構成された。
内野手に駒沢大学の大下剛史(のちに広島など)、慶應義塾大学の広野功(中日、西鉄、巨人、中日)、中央大学の武上四郎(サンケイ、ヤクルト)、立教大学の土井正三(巨人)、外野手に中央大学の末次利光(巨人)、法政大学の長池徳二(阪急)らを擁した。

一方、社会人選抜チームは、都市対抗野球で優勝した日本通運の野球部の選手が中心で、のちにプロ入りする竹之内雅史(クラウン、阪神)、日本コロンビアの投手、近藤重雄(ロッテ)らがいた。
彼らは帽子にこそ、日本の「J」のロゴがあしらわれたが、ユニフォームは普段、所属するチームのものだった。

第1試合の全米選抜対全日本学生選抜では、法政大学のエース、木原義隆(近鉄、大洋、広島、太平洋)が先発マウンドに上がったが、全米大学生選抜の先頭打者、ショーン・フィッツモーリスにプレイボール初球をホームランをされてリードを奪われた。その後、末次の2安打、長池徳二のタイムリー安打もあり、2-2の引き分けに終わった。
続く第2試合の全米選抜対全日本社会人選抜は、全米選抜が3-0で勝利した。

なお、この日は東京五輪の開会式の翌日の日曜日ということもあり、開催した神宮球場には観衆3万人が集まった。
一方、その前日の10月10日、甲子園球場では、阪神タイガース対南海ホークスの日本シリーズ、通称「御堂筋シリーズ」の第7戦が行われたが、土曜のナイターであったにもかかわらず、昼、東京で行われた東京五輪の開会式に注目が集まりすぎたのか、甲子園のスタンドはシリーズ7試合で最も少ない15,172人しか埋まらなかった。

米国ロス五輪で金メダルを獲った野球日本代表は「予選落ち」していた

1984年に開催された米国ロスアンゼルス五輪では、開催国・米国の「国技」ともいえる野球が再び、「公開競技」として開催されることになった。

ロス五輪の野球に出場できるのは6チームで、アジアからの出場枠は2枠。1982年に世界野球選手権で優勝した韓国代表がすでに出場を決めており、残る1枠をかけて、1983年9月に行われた「第12回アジア野球選手権大会」で、日本代表は台湾代表と代表決定戦を戦うことになった。

日本代表を率いるのは早稲田大学野球部監督の石井藤吉郎。
日本の先発は日産自動車の池田親興(のちに阪神、ダイエー、ヤクルト)で、台湾先発は2連投となる郭泰源(のちに西武)で、共に得点を許さない、息詰まる投手戦となった。互いに8回までゼロを並べ、池田は被安打わずか2と完ぺきに近い投球だった。
日本は9回表の攻撃もゼロに終わり、迎えた9回裏、台湾の先頭の4番打者・趙士強が、ついに池田を捕えた。趙が放った打球は大きく伸びて左中間スタンドへ。劇的なサヨナラホームランで、この瞬間、日本代表のロス五輪出場の夢は断たれた。

ところが、失意の日本代表に思わぬどんでん返しが待っていた。
ロス五輪開幕まで3か月を切った1984年5月、野球の出場6枠の一角を占めていたキューバが出場を辞退したのである。背景には、西の大国、米国で開催されるロス五輪を旧ソ連がボイコットし、共産主義の同盟国・キューバも歩調を合わせたからである。
キューバの代役には、同じ中南米のドミニカ共和国が選出されたが、五輪大会組織委員会のピーター・ユベロスは、キューバの不出場によるレベルの低下を懸念し、参加国の拡大を提唱、急遽、日本とカナダにも白羽の矢を立てた(なお、ユベロスはその後、MLBのコミッショナーに就任している)。

野球日本代表の監督と選手が決まったのは、開幕1か月前だった

7月4日、ロス五輪に派遣する日本代表チームのメンバーが発表された。社会人で占められた五輪予選の日本代表メンバーとはガラリと変更された。
まず、監督には、法政大学野球部の黄金時代を築いた、住友金属工業前監督の松永怜一を据えた。そして、日本代表選手として20名が選出され、そのうち7名が大学生から選出された。キャプテンは日本楽器の捕手、熊野輝光(阪急、オリックス、巨人、オリックス)が務め、大学生のメンバーには、明治大学の広沢克己(ヤクルト、巨人、阪神、現・広澤克実)、慶応義塾大学の上田和明(巨人)、法政大学の秦真司(ヤクルト)、日本大学の和田豊(阪神)らもいた。メンバーの平均年齢は予選の27.7歳から、22.5歳と一気に若返りを見せた。

しかし、日本代表メンバーが発表されたのは本選までわずか1か月足らず。選出された大学生のメンバーたちは日米大学野球選手権大会で一足先に渡米していたが、現地で、米国の大学生選抜からなる五輪代表チームと練習試合をしても1勝6敗と、全く歯が立たなかった。その時の米国代表は、南カルフォルニア大学のマーク・マグワイア(アスレチックス、カージナルス)、カリフォルニア州立大学のシェーン・マック(パドレス、ツインズ、巨人)、バリー・ラーキン、B・J・サーホフなど錚々たるメンバーで、一方、主砲として期待された広沢は19打数3安打、ホームランも打点もゼロと散々な結果であった。
一方、社会人メンバーたちは渡米までの短い間、松永監督の下、金メダルを獲るために、東京で厳しい合宿練習をこなしていた。

ロスに出発する野球日本代表に取材するメディアは皆無だった

7月25日に、松永監督はじめ、社会人のメンバーたちは大学生メンバー7名と合流した。正田曰く、成田空港でロスに向かう飛行機に搭乗する日本代表を取材するメディアは一つもなかったという。

また、広沢によれば、五輪へのモチベーションについては、松永監督と社会人メンバーと、大学生メンバーとの間にはかなりの温度差があったという。
社会人メンバーたちは「大学生には頼っていられない。オレたちだけで勝つ」という態度を露骨に出していた。
広沢は「最初はチームワークなんて、全然なかった」と述懐した。
松永監督は再三のミーティングで「国を代表するんだから負けちゃいけない、絶対勝つんだぞ」と繰り返し、鼓舞したという。

予選ラウンド開幕、広沢克己の打棒が爆発

ロス五輪の野球は、出場国8か国を2つのグループに分け、予選ラウンドが行われた。一つは米国、台湾、イタリア、ドミニカ共和国、もう一つは日本、韓国、ニカラグア、カナダという組み分けになった。会場はドジャースタジアムである。

日本代表は、8月1日に行われた予選ラウンドの初戦、韓国戦は先発のプリンスホテルのエース、吉田幸夫の好投もあり、2-0で破ると、続くニカラグア戦(8月3日)でも、広沢がライトスタンドへホームランを放つなど19-1で勝利、カナダ戦(8月5日)には広沢が2試合連続でホームランを放ち、4-6で敗れたものの、2勝1敗で、韓国と共に準決勝進出を決めた。もう一つのグループは米国と台湾が勝ち上がった。
米国代表の試合のみならず、ドジャースタジアムは連日、沢山の観衆が動員された。広沢らの大学生メンバーも試合を戦う毎に、メダルへの手ごたえを感じ始めていた。

郭泰源へのリベンジを懸けた準決勝、キーマンはやはり広沢

準決勝は、日本代表の相手は、郭泰源を擁する台湾で、前年のアジア選手権の再戦となった。そして、予選ラウンドに続き、ここでも広沢がキーマンとなった。
日本は1回、2死一、三塁のチャンスで5番の広沢に打順が回ると、広沢が打った強烈な打球がマウンドの郭泰源の右足を襲う。郭はここは無失点に凌いだが、郭は広沢の打球を軸足である右足に受けたことで調子を落としたのか、ストレートの球速が如実に140キロ台へと落ちた。郭は5回に日本石油の荒井幸雄(ヤクルト、近鉄、横浜)にタイムリー三塁打を許してしまい、ついにマウンドから降りた。
1-1のまま試合は延長戦へ。10回裏、日本の攻撃、またも荒井が放った打球は台湾の遊撃手の前でイレギュラーするラッキーなヒットとなり、新日鉄広畑(現・日本製鉄広畑)の正田耕三(広島)がホームを踏んで、日本がサヨナラ勝ちを収めた。

完全アウェーの決勝戦、指揮官の一言と広沢克己の値千金の一打

日本代表は郭泰源へのリベンジを果たし、8月7日に行われた決勝戦は、米国との対戦となった。
当然ながらドジャースタジアムに集まった観衆のほとんどは、自国を応援する野球ファンで埋め尽くされており、日本代表に容赦なくブーイングを浴びせたという。
そんな中で、松永怜一監督は選手たちにゲキを飛ばした。
「いいか、米国の選手と同じことをやったら勝てない。緊張していい。緊張すれば必ず力が出る。緊張はおまえらの敵じゃないんだぞ」

指揮官のこの一言で、浮足立っていたナインは奮い立った。
日本代表が完全アウェーの環境の中、現地時間の午後8時40分、決勝戦のプレーボールが宣告された。米国の先発は、ジョン・フーバー。後にMLBにドラフト指名されるフーバーは150キロを超えるファーストボールと大きく曲がるカーブが武器の投手であった。一方、日本の先発は本田技研の伊東昭光(ヤクルト)。
試合は3回裏、米国がシェーン・マックの先制弾で1点を先制すると、日本はすぐさま4回表に正田が出塁し、4番の荒井のタイムリーで同点に追いつく。さらに1死一、二塁の場面で、広沢がセンターに抜けるタイムリー安打で2点目を奪って勝ち越した。日本は5回にも2死から正田が四球を選ぶと、住友金属の嶋田宗彦(阪神)のタイムリーで追加点を挙げて3-1とリードしたまま終盤へ。先発の伊東は7回途中まで1失点で、川崎製鉄水島の左腕、宮本知和(巨人)にリレーした。
8回表、日本の攻撃は正田から始まり、今度はレフト前ヒットでチャンスメークすると、2死一、三塁で再び、広沢に打席が廻った。広沢はあくまで走者を還すためのヒット狙いだったというが、フーバーが投じた高めに抜けたカーブに思わず手が出た。広沢自身は「打ち上げてしまった」と思った打球が、左中間にグングン伸び、スタンドイン。ドジャースタジアムに米国を応援するために集まった観衆たちが静まりかえる中、広沢はダメ押しとなる3ランホームランを叩きこんだ。やがて、ドジャースタジアムに観衆のブーイングが飛び交う中、これで勝負の行方は決した。あとはプリンスホテルのエース、吉田幸夫が米国の反撃を9回の2点に抑え、日本代表は、公開競技ながら五輪初の野球で金メダルに輝いたのである。

表彰式が始まる頃には、時計の針は11時を過ぎていたが、国際オリンピック委員会のフアン・アントニオ・サマランチ会長がわざわざ直々に姿を見せ、日本代表の選手たちの首に金メダルをかけた。公開競技としては極めて異例の扱いであった。

ロス五輪の野球は決勝戦ですらテレビ中継されなかった

この決勝戦はドジャースタジアムに5万5235人の大観衆を集め、野球は全8日間で38万人を動員したが、公開競技という位置づけもあり、なんと米国内ですらライブでテレビ中継されることはなかった。
野球に関しては決勝戦のみならず、予選ラウンドもライブでのテレビ中継は一切なく、現地の放送局では試合のあった夜に、ダイジェスト映像のみが放映されただけだったという。
Youtubeを漁っても、当時の野球日本代表の雄姿が登場する映像を全く探すことができないのはそのせいである。

ロス五輪の野球日本代表メンバーから16名がプロ入りした

日本代表メンバー20名から、プロ野球の世界に進んだのは16名。
なお、決勝戦を戦った米国代表選手20名のうち、MLBドラフト指名を受けたのは15名だった。

この後、1988年のソウル五輪も野球は「公開競技」となるが、日本代表には大学野球・社会人野球のアマチュアの精鋭が集まり、NPB入りへの登竜門となることで、注目度も次第に上がっていくようになる。

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