平良海馬(西武)が開幕から33試合連続試合無失点のNPB新記録、次の目標は?

埼玉西武ライオンズの右腕、平良海馬の勢いが止まらない。

6月9日の横浜DeNAベイスターズ戦、5-3の2点リードで9回のマウンドに上がった平良は、先頭の関根をレフトフライで一死。続く、桑原にはレフト前にヒットを打たれたが、伊藤光は0-2と追い込んでから4球目を打たせ、セカンドゴロ。4-6-3と渡ってゲームセット。この瞬間、先発の内海に今季初勝利、そして交流戦通算23勝目(NPB歴代5位)、NPB通算135勝目(NPB現役選手で4位)をプレゼントすると同時に、平良は、2016年に中日ドラゴンズの田島慎二がつくった開幕から31試合連続無失点というNPB記録に並んだ。

NPB新記録が懸かった、6月12日の中日ドラゴンズ戦では、4-3と1点リードの9回に登板。4番・ビシエドにはツーボールとボール先行し、フルカウントに戻してから6球目、打球は二遊間に飛び、ショート・熊代が二塁ベース後方で追いついてつかむが、投げられず、ショートへの内野安打となり、無死一塁。ビシエドの代走に俊足の滝野要が送られる。いきなり同点の走者を背負うが、ここから平良の真骨頂。
続く、5番・福留孝介は0-1から2球目に手を出し、サードへのファウルフライに倒れ、一死。6番・堂上直倫にはツーナッシングと追い込んでから4球目、空振り三振で二死。続く、7番・山下の代打、木下拓哉も2球で追い込み、4球目、152キロのストレートで空振り三振、ゲームセット。田島の記録を抜き、ついにNPB新記録を樹立した。

その瞬間、平良は派手なガッツポーズもなく、キャッチャーの岡田雅利に向かい、「ありがとうございました。」と口元が動いた。
祝福の花束を受け取り、ヒーローインタビューにも立った平良は、特に表情を崩すことなく、淡々と「日本記録になってうれしいです」と感想を漏らした。

さらに、西武は移動日なしで広島に遠征、6月14日に行われたマツダスタジアムでの交流戦、広島カープ戦では、3-2と1点リードの9回に連投で登板。
カープ先頭の西川龍馬は詰まらせてピッチャーへの小フライ、続く、林晃汰はセカンドゴロを打つが、代わったばかりのセカンドの山野辺翔が後逸し、1死一塁。
ここでカープベンチは代走に野間峻祥、また代打に會沢翼を告げ、望みを託したが、會沢は0-1から3球続けてファウルで粘った後の5球目を打たされ、セカンドゴロ。今度は山野辺が危なげなく処理し、4-6-3と渡って、ダブルプレー。平良は記録を「33」に伸ばし、一方のカープは泥沼の8連敗となった。

平良は田島を抜いてNPB新記録保持者となったが、シーズン開幕に限らない、「連続試合無失点記録」となると、まだ上には上がいる。
その記録に挑んだ投手たちを振り返ってみよう。

豊田清(西武ライオンズ、2003年)34試合

豊田清は西武ライオンズに入団してプロ9年目、2001年のシーズン開幕直後、ストッパーの森慎二の不調もあり、抑えに転向すると、47試合に登板して、28セーブを挙げた。そこから守護神に定着し、2002年には自己最多となる57試合登板で防御率0.74、パ・リーグ最多記録を更新する38セーブ(6勝1敗)を挙げ、伊原監督が就任1年目でリーグ優勝を成し遂げる原動力となり、自身初の最優秀救援投手のタイトルを手中に収めた。
翌2003年、4月19日の日本ハム戦(東京ドーム)で、9回裏に石本努にサヨナラ打を浴びて、シーズン初黒星を喫したが、そこから登板する度に、無失点を続け、セーブを積み重ねた。
8月23日の日本ハム戦(札幌ドーム)で、5-4と1点リードの9回裏の場面で登板するも、エチェバリアに同点打を食らい、ついに連続試合無失点記録は「34」でストップすると、最後は金子誠にサヨナラ打を打たれた。
豊田は8月29日のオリックス戦(西武ドーム)、9回2死からマウンドに上がり、三輪を抑えると、シーズン33セーブ目、NPB史上15人目となる通算100セーブ目を挙げた。この年、西武はリーグ優勝を逃したが、豊田は2年連続で38セーブを挙げ、最優秀救援投手のタイトルを獲得した。
2004年には中日との日本シリーズで3セーブを挙げ、胴上げ投手にもなったが、シーズンは故障離脱もあり、5勝1敗11セーブに終わり、豊田の守護神としての実績は、西武時代の2001年から2004年までの4年がピークであった。巨人にFA移籍後の2007年には史上5人目となる150セーブを挙げ、2011年に広島カープ移籍後、そのオフに現役引退した。
通算558試合、66勝50敗157セーブ、81ホールド、防御率2.99。
豊田は2020年から、古巣・西武の一軍投手コーチとなり、平良の成長を見届けている。


高橋聡文(中日ドラゴンズ、2005年)31試合

左腕の高橋聡文(福井・高岡第一)は2001年ドラフトで中日から8位指名を受けた。入団1年目、新人合同自主トレでケガを負うアクシデントに見舞われ、半年間の入院生活を余儀なくされた。
チャンスが巡ったのは3年目、落合博満・新監督が船出した2004年、4月13日の巨人戦(東京ドーム)、同点で迎えた9回にプロ初登板を果たすと、重量打線を相手に、2回を無安打無失点のパーフェクトに抑えた。
その後も、左の中継ぎとして起用されるが、勝ち星には恵まれず、プロ初勝利は翌2005年4月12日の広島戦、ワンポイントリリーフの起用で挙げた。
そこから4試合続けて失点し、防御率は8.22まで悪化した。
5月17日の日本ハム戦(札幌ドーム)から毎試合、無失点で抑え、6月、7月は無失点で乗り切った。
8月2日のヤクルト戦(ナゴヤドーム)、9回を無失点で締めると、当時、セ・リーグ最長となる31試合連続無失点という記録を打ち立てた。
しかしながら、翌8月3日のヤクルト戦、0-2と2点ビハインドの7回から高橋はマウンドに上がったが、1死からピンチを招き、4番のアレックス・ラミレスに打たれて、連続試合無失点記録は「31」でストップした。その次の試合から7試合連続無失点で抑えたため、悔やまれる失点となった。

高橋は9月に入って打ち込まれたが、チーム最多となる61試合に登板した。
その後、故障と復帰を繰り返したが、2010年には生涯最多となる63試合に登板し、防御率1.61という成績を収め、2006年以来のリーグ優勝に貢献した。
2016年には阪神タイガースにFA移籍し、通算100ホールドを達成、2017年には7年ぶりにシーズン60試合登板を果たし、防御率1.71という成績を残したが、2018年のシーズン終盤に引退を表明、甲子園での古巣・中日との最終戦に登板、18年の現役生活を終えた。
通算532試合登板のうち、先発は1度もなく、26勝15敗2セーブ、通算456回1/3を上回る457個の三振を奪った。

藤川球児(阪神タイガース、2006年)38試合

高橋聡文がセ・リーグ記録をつくった翌年、今度は阪神の藤川球児が、豊田のつくったNPB記録に挑んだ。
藤川は前年の2005年、当時、セ・リーグのシーズン最多記録となる80試合に登板し、17試合連続ホールドを含む46ホールドを挙げ、阪神の勝利の方程式である「JFK(ジェフ・ウィリアムズ、藤川球児、久保田智之)」の一角を築くほどに成長、リーグ優勝に貢献した。
プロ8年目を迎えた2006年のシーズンもセットアッパーとしてスタートしたが、4月12日の中日戦、6回に2番手として登板、7回に1失点した。
しかし、その次の登板となった4月15日の広島戦から無失点記録が始まり、5月、6月は登板した試合すべてで無失点に抑える快投を見せる。
6月25日、ヤクルト戦(甲子園)の9回に登板すると、無失点に抑え、高橋聡文が持つ31試合連続無失点のセ・リーグ記録を更新した。そして、6月下旬にはクローザーの久保田智之に替わって、勝利を締める9回のマウンドに定着した。
7月4日の横浜戦(京セラドーム)では、9回に登板して、三者凡退に抑えた。これで、35試合連続無失点となり、西武の豊田清が2003年につくった34試合連続無失点のNPB記録を塗り替え、ついにNPB記録保持者となった。
7月11日の広島戦(甲子園)では、2-1と1点リードの9回に登板、5番・前田智徳をレフトフライ、6番・栗原健太を空振り三振、7番・嶋重宣をセンターフライに打ち取ってゲームセット。連続試合無失点記録を「38」に伸ばしたが、同時に連続イニング無失点記録を「47回2/3」に伸ばしたことで、阪神では小山正明が1962年につくった47イニング連続無失点という球団記録を更新した(NPB歴代7位)。

翌7月12日の同じく広島戦の9回、4-1と3点リードの場面で、藤川は連夜のマウンドに上がった。この日は金本知憲が通算350号ホームランを放ち、かつ、投げてはプロ4年目でプロ初先発の中村泰広(郡山高校→慶應義塾大学→日本IBM野洲、2002年ドラフト4巡目)のプロ初勝利が懸かっており、どうしても落とせない試合だった。

4番手としてマウンドに上がった藤川は、先頭の3番・栗原にフルカウントからライト前ヒットを打たれる。続く、4番・新井貴浩の打球はライトへ大きなフライとなったが、この回からライトの守備についた中村豊がフェンス手前でナイスキャッチでライトフライ、1死。しかし、続く5番・前田智徳には右中間へヒットを打たれ、1死一・三塁のピンチとなった。
続く、6番・緒方孝市はピッチャーゴロに打ち取ったが、ダブルプレーは取れず、一塁走者の前田が二塁に進んで、2死二・三塁。
続く打者は途中出場の森笠繁で、藤川は0-2と追い込む。
しかし、ここで藤川が決めに行った速球は、ボールにバックスピンがかかりすぎたのか、捕手・野口のミットを大きくかすめ、バックネットに突き刺さるほどの大暴投。藤川は慌ててベースカバーにダッシュするが、甲子園の広いファウルグラウンドに転がる合間に、タイガースファンの大きなため息が漏れる中で、三塁走者の栗原が悠々とホームイン。よもやの形で、藤川の連続無失点記録が、38試合、47回2/3でストップした。
伏線はあった。実は前日、前田を迎えた場面で、藤川はバックネットを直撃するストレートを投じていた。対戦した打者は違えど、前日のビデオ再生を見るような大暴投が、ここ一番で飛び出してしまったのである。
尚も、二死三塁で、森笠のフルカウントから打った打球は、ショート・鳥谷敬がジャンプ。そのまま捕球してショートライナーで試合終了。
藤川はその瞬間、左手にはめたグラブと右手を合わせて「すまん」というポーズをとったが、勝利したにもかかわらず、藤川にとってはなんとも悔しいゲームセットとなった。
そこからさらに続く活躍は言うまでもない。
2006年はクローザーに転向して17セーブを挙げたにもかかわらず、最優秀中継ぎ投手(30ホールド)のタイトルを獲得した。
2007年、2011年に2度の最優秀救援投手のタイトル、MLB移籍や独立リーグを経て、2016年に阪神に復帰、日米通算61勝(39敗)、245セーブ・164ホールドを挙げ、昨年シーズンを以って惜しまれつつ、プロのマウンドを離れた。

篠原貴行(横浜DeNAベイスターズ、2011年)37試合

藤川球児が38試合連続無失点のNPB記録を樹立して5年、篠原貴行がこの記録に挑むことになった。
左腕の篠原貴行は社会人野球の三菱重工長崎を経て、1997年に地元・ダイエーホークスを逆指名して2位で入団すると、プロ2年目に1999年には中継ぎ登板だけで14連勝という記録をマークし、「不敗神話」をつくった。その年は60試合に登板、防御率1.25、リーグ最多勝こそ1勝差で松坂大輔(西武)に譲ったが、14勝1敗で最高勝率のタイトルを手にすると同時に、ダイエー初のリーグ優勝、日本一に大きく貢献した。
2003年には2度目のオールスターに選出され、クローザーとしても10セーブを挙げ、リーグ優勝・日本一に再び貢献したが、その後は腰痛、左肘、左肩の故障に悩まされ、好投と不調を繰り返し、2009年に33歳で戦力外通告を受けた。
ホークス時代、投手コーチを務めていた尾花高夫が2010年、横浜ベイスターズの監督に就任した縁もあり、横浜に入団。自身7年ぶりの勝利投手になったが、わずか20試合、10イニングの登板に留まった。
2011年は、篠原にとって再起を懸けたシーズンとなったが、投球フォームを修正し、開幕から好投、7月3日の阪神戦(甲子園)から無失点記録が始まる。
篠原は、8月、9月を無失点で通し、10月2日のヤクルト戦(横浜)でも無失点に抑え、ついに37試合連続無失点(22回1/3)と、藤川球児のNPB記録にあと1と迫った。
10月5日の巨人戦(東京ドーム)、篠原はNPBタイ記録を懸けたマウンドに上がった。5-0とリードした8回裏1死一、二塁でマウンドに上がったが、左打者の亀井善行を四球で歩かせてしまう。1死満塁となったところで、代打・左の高橋由伸は空振り三振に斬って取る。二死満塁となったところで、続く、坂本勇人を迎える。ショートのレギュラーを獲得し、前年、プロ4年目のシーズンは2度目の全試合出場で自己最多の31本塁打をマークしていた。
この年、プロ5年目を迎えた坂本は打率2割5分台だが、ホームランは15本、この日は代打から途中出場していた。坂本のここまでの満塁での成績は9打数4安打、打率.444。
篠原は1球、2球とボールを続けた。そして、2-0から篠原がストライクを取りに行って外角に投じた3球目を、坂本はフルスイング。打球は巨人ファンが待つレフトスタンドに消えた。
坂本にとってプロ初となる満塁ホームラン。一方、篠原はNPBタイ記録とはならなかった。
この年、35歳を迎えた篠原は自己最多となる67試合に登板、17ホールドを挙げ、44イニングで防御率1.84という成績でシーズンを終えた。恩師・尾花の期待に恩返しする形で応えることができた、充実のシーズンだった。
チーム名が横浜DeNAベイスターズに変わった2012年もワンポイント中心に50試合に登板したが、前年のような精彩を欠き、2013年シーズンは春先に左肘を痛めた影響で一軍での登板機会なく、そのまま37歳で現役引退した。
その後、DeNAの一軍投手コーチを務めた後、現在はスカウトに転じている。

ブライアン・ファルケンボーグ(福岡ソフトバンクホークス、2011年)
31試合(翌シーズンを含めると39試合)

篠原と同じ2011年に連続試合無失点記録を続けていたのが、ソフトバンクの右腕、ブライアン・ファルケンボーグである。

ファルケンボーグは、米国カリフォルニア出身で、1996年のMLBドラフト2巡目(全体51位)でボルティモア・オリオールズに指名され入団。1999年にメジャーデビューを果たすと、ロサンゼルス・ドジャース、サンディエゴ・パドレス、セントルイス・カージナルスなどを渡り歩いたが、MLBでの通算成績は、64試合のリリーフ登板で、3勝5敗、防御率5.59と結果を残せずにいた。

転機となったのは、日本球界入りである。ソフトバンクには2009年に入団したが、いきなり初登板から16試合連続無失点を記録した。身長200センチ、体重100キロ超の長身の巨体をかがめる独特なフォームから繰り出される150キロ後半のファーストボールと高速スプリット、縦に大きく割れるカーブとのコンビネーションで、三振を量産、制球力にも優れていた。ソフトバンクでは勝ち試合の終盤、盤石のリリーフ陣の一角として活躍し、摂津正、馬原孝浩とともに勝利の方程式「SBM」と呼ばれた。

来日2年目の2010年には、60試合に登板し、39ホールド、83奪三振、防御率1.02をマーク。同僚の攝津正とともに、最優秀中継ぎ投手のタイトルを獲得した。

そして迎えた2011年。開幕からセットアッパー、時にはクローザーとしてまずまずの投球を続けていたが、ギアが入ったのは7月。7月5日の西武戦(西武ドーム)で無失点に抑えてから、投げる試合、投げる試合で無失点を継続。馬原孝浩に代わってクローザーを務めた時期もありながら、失点を許すことはなく、シーズン最後の登板となった10月18日のオリックス戦では、1回を抑え、無失点で締め、約3か月半の間、ついに、1点も取られないままシーズンを終えた。
53試合に登板、1勝2敗19セーブ、20ホールド、防御率1.42という成績で、秋山幸一監督の下、リーグ2連覇に貢献、しかも、中日ドラゴンズとの日本シリーズでは中継ぎとクローザーで4連投を含む、5試合に登板する働きで、秋山監督就任3年目にして初の日本一をもたらし、優秀選手賞を獲得した。

翌2012年も、開幕から8試合連続で無失点を記録したが、4月26日の西武戦(ヤフードーム)、3-1とリードした9回に登板すると、2死満塁のピンチを招いてしまう。
ここで打席に迎えた、途中出場の米野智人に投じた2球目を捉えられ、レフトスタンド前列に飛び込む一発を浴び、前年から続く連続無失点記録はついに「39」でストップした。
なお、米野はこのときプロ13年目、ホームランは通算13本目で、西武に移籍してから打った初のホームランであり、しかも、ヤクルト時代から数えて5年ぶりの一発だった。米野はこの年、捕手から外野手へ登録を変えたこともあり、この試合をラジオで中継していた文化放送の実況を務めた斉藤一美アナウンサーは「米野、ガッポ~ 見たかこれが決意のコンバート!」と涙声で絶叫した。
結局、米野は、2016年に日本ハムを最後に現役引退するまでホームランはなく、この満塁弾が現役最後のホームランとなった。

ファルケンボーグはその後、古傷との戦いもあり、しばしば離脱することもあったが、セットアッパーとクローザー兼用で好成績を残し続けた。
2013年オフにソフトバンクを退団すると、2014年には東北楽天ゴールデンイーグルスに入団し、クローザーとして4年連続二桁セーブ、しかも自己最多となる20セーブを挙げたが、故障の影響もあり、オフに自由契約となった。
NPBでの通算成績は、262試合に登板して、13勝14敗、64セーブ、97ホールド、防御率1.74。現在は米国アリゾナで不動産会社を経営しているという。

比嘉 幹貴(オリックス・バファローズ、2014年)34試合

豊田清のパ・リーグ記録、藤川球児のNPB記録に挑んだのが、オリックスの比嘉幹貴である。
比嘉幹貴は沖縄のコザ高校ではエースとして活躍するも中央では無名だったが、国際武道大学での活躍で頭角を現し、日立製作所では都市対抗野球で優秀選手に選出された。2009年のドラフトでオリックスから2位指名を受けて入団すると、サイドスローを武器に、プロ1年目から中継ぎで登板、プロ初勝利も手にしたが、右肘痛との戦いになった。
代行監督の森脇浩司が監督に昇格した2013年に59試合に登板し、ようやく中継ぎのエースとして定着すると、2014年に、チームは開幕ダッシュに成功したが、佐藤達也・馬原孝浩・平野佳寿と共に「勝利の方程式」を形成した。
特に比嘉は先発投手が崩れると、早いイニングから走者を置いた厳しい場面で登板し、しかも、イニング跨ぎをすることも多かった。
比嘉は6月18日の巨人戦(東京ドーム)では、3点リードの6回途中、2番手で登板したものの、代打・セペダに手痛い一発(3ラン)を浴び、リードを守れず、2失点したものの、次の登板となった6月28日のロッテ戦(QVCマリンスタジアム)で2番手として登板、2/3を無失点に抑えてから、無失点記録がスタートした。
7月、8月は登板する度に無失点が続き、しかも、その間、中継ぎだけで7連勝を挙げた。前身の阪急ブレーブスも含めた球団記録は1939年に、20歳のルーキー、高橋敏が開幕から先発と中継ぎで8連勝、そして、この年、西勇輝が開幕からすべて先発で8連勝しており、比嘉もその記録にあと1と迫った。
9月25日の西武戦(京セラドーム)では、3回からマウンドに上がり、1回2/3をゼロに抑えると、その後はマエストリ、岸田、佐藤、平野の必勝リレーで逃げ切り、オリックスは2位ながらマジック7が点灯。比嘉は豊田清が2003年につくったパ・リーグ記録となる34試合連続無失点に11年ぶりに並んだ。

翌日9月26日の西武戦では、3-3の同点の4回2死一二塁のピンチでマウンドに上がり、2番・渡辺直人を左飛に取りピンチを凌いだ。
ここでマウンドを降りていれば、比嘉の新記録が確定したが、続く5回も、比嘉は続投。
先頭の3番・浅村栄斗にいきなり二塁打を打たれ、無死二塁のピンチ。
続く前の打席、先発・東明から同点2ランを放っている4番・中村剛也を迎える。中村はレフト前にはじき返し、レフト・坂口智隆が猛チャージしたが、間に合わず、打球はレフト後方へ転がっていった。二塁走者・浅村の生還を許し、パ・リーグ記録に並んでいた連続無失点試合記録が「34」で途切れた。
しかも、チームがそのまま敗れたため、比嘉にシーズン初黒星がつき、開幕から8連勝というチーム記録にも届かなかった。
比嘉はそのシーズンは自己最多の62試合に登板、7勝1敗、20ホールド、防御率0.79という好成績で、チームは2008年以来のAクラスとなる2位躍進を支えた。
比嘉はその後、2015年に右肩の手術を受け、2017年までは思うような投球ができなかったが、2018年に復活を遂げた。2020年までのシーズンで320試合すべて中継ぎで登板し、通算71ホールドを挙げている。
38歳で迎えた今シーズンも開幕から14試合連続無失点を続けていたが、5月30日のヤクルト戦で初失点すると、6月6日に登録抹消されている。 

田島慎二(中日ドラゴンズ、2016年)31試合

次に連続試合無失点記録に挑んだのが、2016年、中日ドラゴンズの右腕、田島慎二である。

田島慎二は東海学園大学から、2011年ドラフト3位で中日に入団、プロ5年目のシーズンとなった2016年3月26日の阪神戦(京セラドーム)にシーズン初登板し、無失点に抑えると、そこから失点を許さず、5月20日の巨人戦(ナゴヤドーム)で1回を無失点に抑えると、開幕から26試合連続無失点をマーク、岡島秀樹(ソフトバンク)が2016年につくったNPB記録に並んだ。

翌日5月21日の巨人戦(ナゴヤドーム)では9回に登板し、1回無失点に抑え、開幕から27試合連続無失点のNPB記録を更新した。特に5月18日からは7試合連続でパーフェクトに抑え、6月5日の楽天戦(ナゴヤドーム)では9回を無失点に抑えて、シーズン初セーブを記録し、連続試合無失点記録を「31」に伸ばした。同時に、中日の投手の連続試合無失点記録としては、高橋聡文が2005年につくった球団記録に並んだ。

6月7日のオリックス戦、田島は3-2で迎えた9回に登板。先頭の代打のブライアン・ボグセビックはファーストゴロを放ち、打ち取ったかに見えたが、それを処理しようとした一塁手のダヤン・ビシエドが足を滑らせて記録は失策。その後、1死一、三塁とピンチを招き、2番・西野真弘が放った打球がライト前にポトリと落ち、これが同点打となった。
この瞬間、田島の連続試合無失点記録は「31」でストップ(自責点にはならず)。この試合、先発は前年2015年ドラフト1位ルーキーの小笠原慎之介が5回を投げて、5安打2失点に抑えたが、小笠原のプロ初勝利も消えた。
小笠原はプロ初登板・初先発から2試合連続で勝利投手の権利を持ちながら、後続の投手がリードを守れず、勝利投手を逃すという、NPB史上初のありがたくない記録を持つことになった。
そして、田島の開幕からの31試合連続無失点記録は、先日、平良に抜かれるまでNPB記録だった。

嘉弥真新也(福岡ソフトバンクホークス、2018年)31試合

その後、ファルケンボークと田島の31試合連続無失点に並んだのが、福岡ソフトバンクホークスの左腕、嘉弥真新也である。
嘉弥真は社会人野球のJX-ENEOSから2011年のドラフトで5位指名を受けて入団すると、左のワンポイントリリーフとして才能が開花、2017年には57試合に登板し、32回2/3を投げて、47奪三振と、奪三振率12.95をマークした。
この年も開幕から安定した投球を続け、5月29日の阪神戦(甲子園)では失点したものの、自責点なし、6月19日のヤクルト戦(神宮)で2失点したもののやはり自責点は0で、6月24日のオリックス戦(京セラドーム)からは、無失点が続いた。
30試合連続無失点を続けた後、9月24日、本拠地ヤフオクドームでの北海道日本ハム戦、2点リードの8回に嘉弥真はマウンドに上がった。

嘉弥真は、先頭の代打・杉谷拳士をフルカウントから四球で歩かせたものの、続く左打者の西川遥輝をファーストゴロに打ち取る。1死二塁となったところで、右打者の大田泰示を迎え、降板。代わって、加治屋がマウンドに上がった。
嘉弥真の残した走者の杉谷が還れば、嘉弥真に失点が記録されるところだったが、加治屋は続く、右の大田泰示、左の近藤健介を打ち取って、チェンジとなり、嘉弥真は無失点となった。
これで嘉弥真は31試合連続無失点となり、2011年にブライアン・ファルケンボーグ投手の持つ球団記録、田島が持つNPB歴代5位の記録に並んだ。

9月27日の西武戦(メットライフドーム)、この試合までソフトバンクは7連勝と、首位・西武に6ゲーム差と迫った。この3連戦で3連勝すれば、3ゲーム差に縮まり、逆に敗戦すれば、西武にマジック3が点灯する、リーグ優勝を懸けた大事な初戦だった。

ソフトバンクが5-4と1点リードの8回、西武の攻撃を迎え、マウンドに上がった3番手の加治屋蓮は2死を奪ったが、そこからメヒアが四球、金子が内野安打で一、二塁とし、打席に1番打者、左の秋山翔吾を迎える。ソフトバンクの工藤公康監督はすかさず嘉弥真をマウンドへ。

嘉弥真は秋山に対し、カウント1-1から3球目を投じた。左打者の外角のボールゾーンを狙ったはずのスライダーが、真ん中に入った。秋山は逃さずフルスイングすると、打球は前進守備のライト・柳田悠岐の頭上をはるかに越え、バックスクリーンへ。秋山のシーズン23号は、優勝へ逆転3ランホームランとなった。試合は5-7のまま、ソフトバンクが敗れた。

思い起こせば、5月24日の西武戦(ヤフオクドーム)、5-3と2点リードの6回2死で走者を二人置いた場面で、嘉弥真が対戦したのも、秋山翔吾だった。結果は、シーズン初被弾となる3ラン。秋山はこの日、7号ホームランを含む、4安打4打点、一方の嘉弥真は初黒星を喫した。
嘉弥真の無失点記録の挑戦は、秋山翔吾に食らった逆転の3ランに始まり、同じく秋山翔吾の逆転3ランで幕を閉じた。
5月29日の阪神戦(甲子園)から続いていた自責点0も、42試合でストップした。それから3日後の9月30日、ソフトバンクがロッテに敗れたことで、西武は10年ぶりとなるリーグ優勝の美酒に酔いしれた。

だが、皮肉にも、クライマックスシリーズではソフトバンクが西武に雪辱を果たし、西武は日本シリーズ進出を逃す結果となった。

嘉弥真は、自己最多67試合に登板、2勝1敗、25ホールド、防御率2.45でレギュラーシーズンを終えたが、広島カープとの日本シリーズでも、その左キラーぶりを遺憾なく発揮した。
第2戦から5連投、しかも、主に8回という大事な場面に登板し、最後の第6戦、2-0の2点リードで迎えた8回、一発が出れば同点という場面で、左の田中広輔を三振に斬って取り、結局、5試合で1失点も許さず、ソフトバンクの日本シリーズ2連覇に貢献した。


平良海馬はNPB新記録達成後のヒーローインタビューで、インタビューから最後に「このあと、連続試合無失点記録は豊田(清)コーチのパ・リーグ記録、藤川球児さんのNPB記録もありますが、こちらはいかがでしょうか?」と尋ねられ、こう短く締めくくった。
「そっちも越えれるようにがんばります。次もがんばります。よろしくお願いします。」
沖縄から来た若獅子がさらに歴史に名を残すことができるか、刮目すべしだ。








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