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山が動いた/山を動かす

こんにちは。
noteを書くようになってから、日常の中の「To Do」が増えたけれど、頭の中で反芻(はんすう)を繰り返すだけだとゴチャゴチャになりそうなことや、もしかしたら誰かにとっての有益に貢献するかもしれない考えをちゃんと言葉にしてまとめられる機会をいただけたと、大変感謝しています。(noteに感謝!)

今日は、動かないと思っていた山が動いたお話をしようと思います。
昨日の私は、強烈なシンクロニシティの印象の方が強すぎて、山を動かすことができたことの奇跡に無頓着でした。
でも今日、ふと「聖書に書いてあった、山を動かすたとえ話って、このこと⁈」って気づいたんですよね。

以下、聖書の言葉です。
(あ、決してキリスト教に引き入れようとしているわけではありませんので、誤解しないでくださいね。私は、真理はひとつで、どこから辿り着いても構わないと思っています。ただ、世界を知るためには聖書は読んどいたほうがのちのちためになるのは事実です。)

一同が群衆のところへ行くと、ある人がイエスに近寄り、ひざまずいて、行った。「主よ、息子を憐れんでください。てんかんでひどく苦しんでいます。度々火の中や水の中に倒れるのです。お弟子たちのところに連れて来ましたが、治すことができませんでした。」イエスはお答えになった。「なんと信仰のないよこしまな時代なのか。いつまで、わたしはあなた方と共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をここに、わたしのところに連れて来なさい。」そして、イエスがお叱りになると、悪霊は出て行き、そのとき子供はいやされた。弟子たちはひそかにイエスのところに来て、「なぜ、わたしたちは悪霊を追い出せなかったのでしょうか」と言った。イエスは言われた。「信仰が薄いからだ。はっきり言っておく。もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここからあそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」

新共同訳聖書/マタイによる福音書/17章14節-20節

聖書のこの箇所について、私は物理的な山のことだと思っていました。
信仰があれば、望むことはなんでも手に入り、なんでも叶う。
そのような捉え方しかしていませんでした。

でも昨日、私は絶対に変わることがないことに絶望を感じていた人間の心が変わる様を見たんです。
絶対に太刀打ちできないと思われる困難、
絶対に治らないと思い込んでいる病気、
絶対に変わらないと思っている人の感情…などなど

もしかしたらそれも一瞬のことかもしれず、また元にもどってしまうかもしれません。
でも、もう二度と同じ方向を向いて歩むことはない、と関係性が完全にちぎれてしまったと思っていた、血のつながったこの世でたったひとりしかいない妹の心を変えることができたんです。
妹は私と真逆で、常に不安感の中にいて、怯え、いくらポジティブな方向に持って行こうと思っても、無理でした。
北風と太陽のように、姉の権威をかざして無理やり持っていこうとすればするほど、彼女は離れていきました。
三文字騒動も拍車をかけたのもありますが、ベクトルの向きが正反対の方向へ離れて行き、長い年月をかけて、大きくて深い、もう埋めることが絶対叶わないだろうと思う溝ができてしまっていたんです。

でも、その彼女の心(埋められないと思い込んでいた深い溝)⇒が動いたんです。

私は、世の中で流行っているような「幸せになるには」とか「成功するには」的な方法論を知識でブログや本を書くことはたやすいことでした。
20歳くらいから成功哲学を学び、自分も成功して、望むものを手に入れ、行きたいところに行き、やりたいことをやり、人から一見羨ましがられるような生活を手に入れました。

でも。

私の一番近しい人間(親、妹、夫など)が、常にネガティブキャンペーンばかりしている。
それが、私の心を痛めていました。
最も身近にいる人間を幸せにすることもできず、自分や家族以外のまわりの人間ばかり幸せにすることができても、それは本当の「豊かさ」とは言えない。
私が思う本当の「幸せ」や「豊かさ」の中には、殻にこもってネガキャンをはっているような人に、心から充足している笑顔が戻ることも含まれていたから、人からみたら成功してるかもしれないけど、ハウツー本(やブログ)を書くことは、自分自身の魂が許さなかった。
口を開けば不機嫌か、喧嘩ばかりの身内に囲まれて、何が成功だ、何が豊かさだ、何が幸せだ、と思っていたからです。

無理だと思っていたから、近寄らなかった。
無理だと思っていたから、無視していた。
無理だと思っていたから、心に蓋をしていた。
無理だと思っていたから、真剣に叶うと願わなかった。


そう、そのことに、気が付いたんです。

「からし種一粒ほどの信仰があれば、この山に向かって、『ここから、あそこに移れ』と命じても、そのとおりになる。あなたがたにできないことは何もない。」
というイエスの教えは、ゼロポイントフィールドと同じことだし、様々な成功哲学の法則と同じこと。
その威力を経験し、知っていながら、相手の感情や考えに依存する部分はあきらめていたフシがあった。

でも、私が望む未来の幸せの絵の中には、不機嫌で心が泣いている人が周りにいないことなんだとわかってからは、自分だけが幸せを感じていたらそれでいい、という気持ちにはどうしてもなれなかったの。
だから、成功や幸せの法則に従って、自分を幸せな気持ちにすることはできるようにはなっていたけど、いつもどこかで一点の不幸を背負っているようなタイプの人間だった。

だからこそ、人の心の痛みが共有できたり、理解することができるようになったから、今ではその経験もありがたいな、って思えるようになったけれど。

太極図の中の点みたいな感じ。
でも、それが正解の形なんだと思う。

太極図

陽(白)の中の一点の黒(陰)、陰(黒)の中の一点の白(陽)、そして、真ん中の線は常に波を打つように揺れ動いている。

私と妹、私と母親、私と夫は陰陽の関係。
光も闇もないと、生命は生きてはいけない。
太陽も月もないと、生命は生きることができない。
みんな、光が当たってる方だけを目指し、好むけど、それは「闇」を知っているからなんだよね。

ときに7段飛ばしをしながら、永遠にランダムに数字が続く素数のように、螺旋階段を登るように震えながら揺れながら人生は続くものだから。

いろんな日があっていいんじゃない
いろんな人がいていいんじゃない
いろんな時間があっていいんじゃない
いろんな考えがあっていいんじゃない

って全員が思えない限り、大調和なんて訪れない。

なんか、こんな風に考えらるような自分になれたからこそ、スタート地点が「今」なのかもしれないなって、思う。

…おっと、またまた長々となってしまいましたよ。

今日も最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。
あなた様の山も動きますように。
あなた様が、山を動かすことができる能力を与えられていることを再確認できますように。

またね!




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