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大きな地球大学校

こんばんわ。
今日は、昨日の続きの貴船神社と鞍馬寺のお話をする予定だったんですが、ちょっと嫌なことがあって、一日中家事に没頭している時にいろいろ思い浮かんでしまったので、別のお話をすることにしました。

ちょっと嫌なこと、なんていうのは、皆が日々経験していることだと思うのですが、私の場合、超嫌なことの主人や義母対策はほとんどクリアしているのに、少し近しい人のちょっと嫌なことへの免疫ができてないようで、いろいろ考えてしまった訳でございます。

私のように、時間があって真理や精神世界の追究に常に頭の中がぐるぐるしているタイプの人はそうそういるわけではないから、皆んな免疫つけたり、お酒飲んで忘れたりしながら生きてるんだと思うけど、私はお酒も飲めないし。

でも、この世が地球大学校のようだなと思うととってもラクな気持ちになったんです。

もしも相手が5歳児や思いっきり価値観の違う外国人なら、同じことをされてもしょうがないな、って思えることが、同じ日本人で同じくらいの年齢で、大体常識的に生きている人同士だと、「ムカっ!」と来たりするのはなんでかな…?と。

自然の中の動物や昆虫や植物は、全部違うのに不平不満など言わず弱肉強食を受け入れながら調和してるのに、人間だけは、何故かぶつかり合い、違和を感じ合い、相手に不平不満を感じたりする。
全員違って当然なのに。
私たちは、保育園、幼稚園、小学校、中学校、高校、大学等々、そして社会人へと、地域が違っても親や環境による価値観が違っても、「年齢」ということだけで「同じグループ」に所属し、「大体同じ」という認識を植え付けられてきた。

もし仏教的やスピリチュアル的な解釈が本当に存在するのなら、魂の段階もあるだろうし、育ってきた家庭環境、今所属する場所の中の価値観、自分自身が経験してきたことで作り上げてきた価値観、見るもの聞くもの信じているもの全てが違う「個」なのだ。

スピチュアルの世界では当然のことや用語、宗教の世界では当然のことや用語、業界の世界では当然のことや用語…等々、上げればキリがない。
それが、日本人という括りだったり、性別の括り、「親」とか「妻」とか「夫」とかという括り、「若い」とか「年をとった」とかの世代別の括りなど、セグメント化された括りの中に入れられる。というか、人を判断する時に入れてしまう傾向がある。

魂レベルとか、育ってきた価値観、宗教観、趣味・嗜好などの見えない要素は表に見えない要素が加わる。
全部違う、という恐ろしい数の分離、タイプがあるにも関わらず、私たちは自分の価値基準を元に相手を見てしまうんだな、これが。

だから、「えっ?普通こんなこと言う?」とか、「えっ?普通こんなことする?」とか、なんだその「普通」って?、みたいな考えを起こしてしまう。

同じ年齢でも、歳を重ねれば重ねるほど、先入観や刷り込みが強くなってしまい、自分と同じような考えができない人に合った時に、おっとっとっ、と受け入れられなかったり、傷ついたり、心が萎えてしまう。

最近私はYouTuber「曼荼羅スピリチュアル」さんの番組をよくきいているのだが、彼が言う「重力波使い」にやられてしまいそうになる。

今日は、私をネガティブな気分にしてくれた人(重力波使い)にやられそうになる感情を、手放そうと努力したが、ま、これも「ここから何かを学びなさい」というシグナルと思って、一旦受け入れることにした。
で、私はなんでこんなに嫌な気分になったのだろうと考えたの。

「私だったら、こうは言わない」とか、「普通に優しさや思いやりのある人なら、こんな風にはしない」とか、「社会人なら」とか「大人なら」とか、

「If I were~」構文を思いめぐらせていたことに気付いた。

結局、自分が嫌な思いをしたのは、相手のせいですよー

という言い訳を見つけていただけなんですよね。

私たち人間の全ては、生きている限り「学びの途中段階」という認識をもっと早めに知れていれば、というか、これを「普通」の刷り込みの中に加えていれば、もっと楽に、そして摩擦なく生きてこれたのにな、って思った。

今、私の住んでいる地域にはものすごく多くの外国人がいる。常識も、宗教観も、国による価値感も全てがほど遠い。
そんなに深く交わることもないから、適当に親切心と優しさで、多少のことなら何とも感じない。
それより何より最も、手ごわいのが日本人同士だと私は思っている。

同じテレビを見て育った世代は、さらに手ごわい。
「テレビ教」「N〇K教」とも言える強烈な洗脳によって、天動説と地動説ほどの分断も起きている。

人生は決してレースではないが、マイペースで歩ける時、走れる時、歩が遅くなる時、止まる時、ものすごいスピードで成長する時、様々な時がある。

天気ひとつとっても、雨を待ち望んでいて喜ぶ人もいれば、雨だから体調が悪くなって気分までダウンする人もいる。

地球大学校のテスト期間中(人生の試練中)の人もいれば、テストを満点でクリアできて喜びの真っただ中の人もいる。
学校にはものすごく細分化された学年もクラスもあり、違う言葉を話す人もあり、そして、それぞれ違う「個」が、それぞれ違う「時」を経験している真っただ中なのだ。

旧約聖書の「コヘレトの言葉」に、このようにある。
(3章1-8節)
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何事にも時があり
天の下の出来事にはすべて定められた時がある。
生まれる時、死ぬ時
植える時、植えたものを抜く時
殺す時、癒す時
破壊する時、建てる時
泣く時、笑う時
嘆く時、踊る時
石を放つ時、石を集める時
抱擁の時、抱擁を遠ざける時
求める時、失う時
保つ時、放つ時
裂く時、縫う時
黙する時、語る時
愛する時、憎む時
戦いの時、平和の時。
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だから、同調しない人が感情の横やりを入れてくる時は、この大きな地球大学校の中で、それぞれの個がそれぞれの時間を経験していると思えばいいのだよ。

わかりやすく言うと、
あなたが自分の好みの歌を気持ち良く歌っている時に、わざわざ雑音を入れて邪魔してくる人がいるとします。
その雑音に気を取られて、あなたが歌を歌うことをやめる必要はないってこと。

雑音を入れてくる人は、「雑音を立てる」というタイムラインの中にいて、あなたは「気持ちよく歌う」というタイムラインの中にいて、たまたまそれが交差点でぶつかってしまっただけのことだと思えばいい。

演奏曲は流れ続けてるから、ハプニングなど気にせず歌に戻ればいいのです。

大きな地球大学校の中で、超細かく細分化された学年やクラスの中で、それぞれの「個」が、違うタイムラインを持ちながら一緒に暮らしているのが、この世なのです。

今日、気付いたみたいな感じだけど(苦笑)、私に嫌な感情を起こさせてくれて彼のおかげでこうやって言語化できるまでになれました。感謝しますよ、ホント。(笑)

イラってなったら、思い出してみてね。

違う星の人だと思えば楽なのに、イラってなるのは、「同じ星の人」だと思うからだよ。
今あなたをイラつかせたりムカつかせたりする人は、象と豹ほどに、犬と蜘蛛ほどに、樹齢800年の木と、さっき目を出したばかりの草ほどに違うのです。
違うものが、たまたますれ違った時にぶつかっただけ。

「あ、ごめんなさい!」
「全然大丈夫ですよ!」
と言い合える人ばかりではないこと。

「ごめんで済むなら警察いらん!」と怒鳴ってくる人もいれば(時もあれば)
「私の方こそ悪かったんです」と言える人もいる(時もある)。

だから、人格否定もせず、相手を責めることも、なんで私っていつもこんな風に落ち込んじゃうんだろうとか自分を責めることもせず、
「ふうん」って思って、自分のタイムラインに戻る練習をすればいいだけ。
これを「手放せばいい」っていうのかな、スピリチュアルでは。
キリスト教では「赦し」というのかな。
仏教では何ていうんだろう?
神道は「祓い」っていうのかな?

なんかわからないけど、常に自分がありたいべき場所に戻れる鍛錬は必要かもね。

OH!!!!
気付いたらめっちゃ話しまくってました(汗)

皆さま今週も一週間、お疲れ様でした。
世の中は不和に向かっている真っただ中のような雰囲気ですが、平和を祈りつつも今自分ができる精一杯を生きていくことしかできないので、喜び楽しむ(愛と光)の方向に向かってできることをそれぞれのペースでやっていきましょう。

また明日以降ね。
最後まで読んでくれてありがとうございました。








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