わからないから、おもしろい
Twitterを見ていて考えたことを、書きのこしておきたくなった。
投稿することを「ツイートする」という。
英語でtweetは小鳥のさえずりの意味で、日本語では『呟く』と訳される。
どこかから聞こえる小鳥のさえずりみたいに、誰かが独り言をつぶやく場所、みたいなニュアンス?
わざわざ連絡するほどじゃないけど、なんとなく誰かと共有したいことを、ポンと放り投げられる場所。
たまたまそれを見て、共感したり、もっと見たいなと思えばfollow。逆に、見たくないなぁと思ったら、ブロックできる。
今は少し『影響力』に比重が傾いて、情報や価値を求められる側面が大きいけど、それでも本質は『言いたいことを言える場所』なんだと思う。
それなのに、そんな『呟き』に対して、わざわざ攻撃しに行く人がいる。
中にはパフォーマンスの人もいるが、そうじゃない人も少なくない。
私はそういう人を見ると、ブロックしたり通報したりしていた。
でも、ふと思った。
何故、彼らはそういう行動をとるんだろう。
ぼんやり眺めていると、彼らは議論と喧嘩をごちゃまぜにしてるように見えた。
私は自分と違う意見に触れた時、どういう反応や行動をするだろうか?
折角なので、ちょっと考えてみた。
私は、相手がなぜそう思うのかを知ろうとする。
例えば、私がトマトをおいしいと思うのに、相手が思わなかったら、相手に「何が嫌なの?」と尋ねる。
相手が「青臭い感じがするし、中身のドロッとした食感が嫌」と答えたのを聞いて「なるほど。ちなみにキュウリも青臭いと感じる?ドロッとした食べ物に、オクラは入る?」とか、できるだけ具体的にお互いがわかる物を例にあげて、相手の感覚を理解しようとする。
実は、私が大のトマト好きで、その美味しさを相手にわかってもらいたい!
そうなると、議論がはじまる。
この例の場合、議論というより営業かも(笑)
でも、私は相手の主張を聞いてるから、相手に合わせたアピールポイントを伝えたり、相手が受け取りやすいボールを投げられる可能性が高くなる。
相手は自分の主張を一旦聞いてもらってるから、私の話にも耳を傾けてくれる。
私にとっての議論は、そうやってお互いが自分の主張を投げ合って、すり合わせていくことで、一緒にゴールにたどり着くこと。
でも、Twitterでよくトラブルになってる人たちは、喧嘩をしているように見える。
先ほどのトマトの例に当てはめてみると、こんな感じだろう。
トマトが嫌いだと聞くと「こんなにおいしいのに、なんで食べないの?」と批判する。
そして、相手が「青臭い感じがするし、中身のドロッとした食感が嫌」と伝えると、「キュウリの方がもっと青臭いし、ドロッとしたところなんて、水で流し込んじゃえば平気じゃない?」といった具合に、自分の価値観を相手に押し付ける。
でも、それこそ「アナタの感想ですよね」という話だ。
自分が正しいことをなんとか認めさせようとするのは、議論ではない。
議論は「どちらも正しいよね」という前提で話が進むが、喧嘩は「自分こそが正しい」と言うのが前提。
だから、自分の主張をひたすらにぶつけて、相手の言っていることを理解しようとしていない。
言葉でいくら「そうですね」と言っていても、歩み寄ろうとしてないことは文面でもよくわかる。
そして、相手が埒が明かないと判断してその場を降りるという大人の対応をすると、「逃げた」と言って勝ち誇る。
でも、それって本当に勝ってるのだろうか。
結局、その喧嘩の勝ち負けすらも見る人によって見解はバラバラ。
世の中は、見る人によって全然違ったものに見えていて、みんな主観でしか生きられないんだと思う。
そもそも、何年も連れ添った夫婦や最前線で走ってきたバンドでさえも価値観の不一致で別れるのに、たまたまその瞬間にTwitterを開いていただけの相手と全く同じ感覚で話すなんて無理だ。
わからないなら、わからないでいいじゃないか。
情報も人も、自分基準で選ぶのが当たり前になったからこそ、自分は『普通』で『当たり前』だと思いがちになる。
でも、その『当たり前』は人の数だけあるんだということを忘れてはいけないんだなと、最近私は思うようになった。
自分が理解できないから、おかしいとはねつけるんじゃなくて、理解できないものに歩み寄って得られるものも大切にできる人でいたいと思う。
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