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活字欲がため始動した次第。

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最近の記事

massesとniche

大衆モラルと隙間産業。 マス対コア。 預言者は、より多くの情報を吸収して、起こりうる多くの可能性を、より多く発信してるだけ。 本来はマスとコアが対立だった筈なのに、多くの人が情報の需要過多で、マスとコアが交わる。 個人的には、コアがマスを凌駕する様子を見たかっただけなのに、マスがコアを支配する、導いていく社会は実に馬鹿ばかしい。 だからこそ、一生無くならないだろう常識を掻い潜った詐欺。 知ろうとしすぎる、知りすぎるのも身体に良くない。 インプットはほどほどに。

    • 具現と普遍

      もう42歳。 最近の私の周りによくいる人達の話は一貫している。 家族、子供、仕事、趣味の話であっても、経験の中から生まれて、やっと達観しているものが多い。 どの上の世代でもそうなんだろうけど、40代となると重みが違う。 新鮮かつ重厚な感じとでも言おうか、各々の立ち位置の違いで、これ程差が出る年齢は後にも先にもないとさえ感じてしまう。 内向きな想像力から派生する範囲の違い。 過去に起きた出来事の伏線回収、この先に関わってくる人を巻き込む未来への想像。 想像したもの以上の具現

      • 外観と内観

        最近は、感じたことを思いのままSNSに綴ったりすることがとても窮屈になっていて、その中で愉しむことに限界を感じている。 人に何かを伝えたいからアウトプットしてるのであって、他人、世間の反応ありきで身構えて出力されているものに、歳をとってから余計に魅力を感じなくなった。 育った環境が違うんだから、SNS上で言ってはダメなものなんてなくて、少しでも尖ったこと言ってるやつは変わり者という風潮が変とさえ感じる。 たまたまSNS上で繋がっただけなのに、感情を文字に起こしたらこういう奴

        • 遠慮と謙虚

          最近私の周りで、僕は〜なんでやめておきます、とか、私は〜だから遠慮しておく、とか、自分を蔑んで遠慮することが、礼儀だと勘違いしている人が多くいる。 それとは、逆に、礼儀もなく図々しい人が多くいる。 社会人になって間もない私は、間違いなく後者であったと思う。 出世できた今になって感じるのは、前者、後者では、チャンスを与えられる機会が大きく異なるってこと。 どちらが伸びしろがあるかは、枠で捉えれば、一目瞭然。ジミー大西の絵を見たフェラガモ担当者が、キャンバスからはみ出す可能性に

        massesとniche

          リアルとフェイク

          全ての物事はどこに時間軸を置くかでリアルの表現方法が変わる。 過去、現在、未来。 今、エンタメ界では大きな転換期を迎えていると感じる人がいるかもしれないけど、絶対に何も変わらない。 理由は、受け手主導の業界だから。 皆が楽しめる、面白く感じられそうなものに標準を合わせるんだから、当然そうなってしまう。 解決する一つの手段は、受け手の理解度の許容範囲、もしくは、懐を拡げていくしかない。 過去のこういった事象は許せない、でも、反省したから今はOK。 今はこうだけど、過去にこ

          リアルとフェイク

          アウトプットとインプット

          表現者の手法、それに費やす時間、労力と、受け手のツールとそれに費やすそれとのバランスがめちゃくちゃ重要。 時代の変化で絶妙に異なっていて、それを傍観してる私は、敢えてそこに留まる文字を表現として選んでみた。 Facebook、Instagram、TikTok利用者が表現者としての拙さ、受け手の理解度故に、全く面白味にかけて、魅力を感じていなかったことも一因だとは思う。 ※Xは金融ツールになるから除外。 これらの共通してる拙さは、想像力の欠如が招いているんだと思う。 含みを持

          アウトプットとインプット

          人と他人

          人が他人に共有できなくなると違和感を感じるのは当たり前だし、とても普遍的。 では、そもそも会って話したこともない、価値観が近い筈でもないのに、裏切られた!とか、思った通りだ!とか決め打ちして、自分を正当化する現代は、とても恐い。 成功した人を蔑める、成功していない人を推す。 これも同じ原理なんだと思う。 創造したイメージのキャパシティが生んでる劣等感や幸福感。 芸人は〜だ、とか、スポーツ選手は〜だ、とか、アイドルは〜だ、とか。 私は画面越しに観てる人達に負けてるとは思ってな

          人と他人