033.父の「おみや」

小学校に上がる前、昭和30年代の後半(1960〜65年)のことです。父は仕事の帰りに時々「おみや」を買ってきてくれました。お土産のことですが、私の家では「おみや」と呼んでいました。

「おみや」は不定期で、特に理由もなく、父の気分で買ってきたりこなかったりでした。子どもの頃、今日は「おみや」あるかなぁと楽しみにしていました。

父の「おみや」の定番は我が家では「でんでん太鼓」と呼ばれていた不二家のポップキャンディでした。直径3、4センチの楕円形をした飴に白い棒が付いているキャンディです。赤や緑やオレンジなど色んな色がありました。当時、一本5円位で売っていたのだと思います。

父が「はい、おみや」と言って飴を差し出してくれると「わぁ、でんでん太鼓だぁ」と大はしゃぎして、飴を右に左にくるくる回して喜んでいたことをよく覚えてます。飴はもちろん一本だけでした。

一度、でんでん太鼓を口にくわえたままお風呂に入ったことがあって、この世にこんな幸せがあるのかと思ったこともよく覚えています。

私は、その飴の名称のことを長い間「でんでん太鼓」というのだと信じていましたが、少し大きくなると、でんでん太鼓というのは、子どもの玩具の名称で、おみやの飴は形状が似ているからつけられたあだ名だということがわかりました。

でも誰がつけたのでしょうか。父か母か、あるいは祖父母だったのかもしれません。でんでん太鼓とは我が家だけの独特な呼び方だったのでしょうか? それとも地域性もあったのでしょうか。

小学校にあがると、不二家のポップキャンディは、ペロペロキャンディとも呼ばれていることに気づきましたが、私の中では、いつでも「でんでん太鼓」でした。ずっと大きくなってから、何かの拍子でこの飴を見かけたりすると、「あ、でんでん太鼓」と心の中で呟いていました。

「おみや」の定番のもうひとつは「すあま」でした。すあまというのは薄桃色した優しい色の餅菓子で、中の方は少しずつ色が薄くなって白くなっていきました。餡子も何もはいっていなくて、ただ可愛らしい色をした餅菓子でした。

味も見かけとおんなじで、ほんのり甘く、優しい味でした。食べると口の周りに少し白い粉がつきました。

子どもながらに、父はなぜ大福や草餅ではなく、すあまを買ってくるのだろうかと疑問に思っていました。正解は今もわかりませんが、子どもの私が立てた仮説には、まず値段が安いこと、次に夕飯の邪魔にならないこと、虫歯にならないこと…などがありました。

子どもの頃のことを思い出すと、小さな子どもでも色んなことを疑問に思い、考えながら生きていたのだと思います。


思い起こすと、父が「おみや」を片手に帰宅したのは、大抵夕方から宵の内でした。当時の父は三十代でしたが、その頃の三十代のサラリーマンは、それくらいの時間に帰宅して、家で家族と夕食を取るのが一般的だったのでしょうか。

私自身が企業で働き始めた1980年代、90年代を思うと、三十代の男性が夕方に帰宅して家族と食卓を囲むことなど想像もできませんでした。皆んな日がとっぷり暮れるまで職場にいました。私の周囲だけだったのかもしれませんが、その後も顧客と夜の宴席があったり、同僚と飲みに出かけたりと、真っ直ぐ帰宅することも稀だったように思います。

私の子ども頃はちょうど高度経済成長期でしたが、父が「今日は特出(とくで)だ」などと言いながら日曜日に出勤したことや、「今夜は遅くなるから先に寝てろ」などという台詞は覚えていますが、それはどちらかといえば例外でした。夕飯の食卓は家族が揃っているものでした。


私は父と同じ性格だと子どもの頃から周りの大人たちに言われていました。電池でもプラスとプラスは合わないと言うので、同じ性格だから合わないんだねとも言われてきました。私にとって父とのコミュニケーションは難しく、十七回忌も過ぎましたが、父との関係性については長年思い悩んできました。

それでも、父との関係の原点には「でんでん太鼓」や「すあま」があるのでした。今も、古い和菓子屋さんの店頭で「すあま」の可愛い姿を見かけると、一瞬にして半世紀以上昔にタイムスリップしてしまいます。


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