210.甲子園と父の仕事

もはやすべてが時効なので、できるだけ正確に書こうと思います。

大正13年(1924年)生まれの私の父は高校野球が大好きでした。私が物心ついた頃、父は家でも「会社の仕事」をしていました。特に春と夏は繁忙期で、子ども心にも父は忙しそうだと感じていました。

今ではもうあまり知る人も少なくなってきましたが、コピー機が一般に普及する以前、つまり私が子ども頃の昭和40年代には、建築図面の多くは「青焼き」と呼ばれる方法で印刷されていました。その頃の父は変電所の設計をしていましたから、家には大きな筒に入った青焼きの設計図がたくさんありました。

しかし、春と夏には、設計図とはちがった巨大なトーナメントの青焼きが居間のテーブルの上に広げられていました。そしてもう一枚の巨大な青焼きには、社員名簿なのか数え切れないほどの、ざっと見で何百人もの人の名前が表の中に書かれていました。

父は少しでも時間があると高校野球のテレビ中継を見ながら、あるいはラジオを聴きながら、その巨大トーナメントと名前一覧表に様々な印をつけていました。父の瞳はキラキラと輝き「ちょっと話しかけないでくれ」とまるで会社で一番重要な仕事をしていかのような口ぶりでした。

自宅にも会社の人から電話連絡が入ると、父は巨大トーナメント表に手を入れたり、様々な計算をしていました。父は数学の教員だったことがあるので、計算をしたり定規なしで直線を真っ直ぐに引いたりするのはお手のものでした。そのような特技はとりわけこの春と夏の「仕事」には欠かせないようでした。

父の会社の運動会などに行くと、すれ違う人が方々に、私の頭に手をおいて「君のお父さんは凄い人なんだよ!」「『あの仕事』ができるのは、君のお父さんをおいて他にはいないんだよ」「お父さんには本当にいつもお世話になっています」と、父がいかに余人をもって代えがたい仕事をしているのかと子どもの私に伝えてくれるのでした。

父が勤めていた会社は、工場勤務の人たちも含めると千人を超える社員がいましたが、父はその社内でも最も顔が広いとも言われていました。私が小学校に入るようになると、父は春と夏には「その仕事専任」になるのだということが次第にわかってきました。実際、父はその仕事に情熱を注ぎ込み、特技と持てる力のすべてを傾けて全力で取り組んでいました。

父は、勤務先における高校野球賭博の大元締めだったのです。

◇ ◇ ◇

あの頃は、「お国はどちらですか?」と出身地を尋ねるような時代だったので、郷土愛は今よりも熱く濃く語られ、高校野球の応援は郷土愛に支えられて、大勢の人々が故郷のチームを応援していました。

高度成長期に地方から大都市に出てきた若者たちは、親兄弟のように出身地のチームに声援を送り、その試合の行方に一喜一憂していました。実際に街を歩いていると、あちこちから高校野球中継の音声が聞こえてきました。

そんな時代背景の中、会社の潤滑油とでも言えば良いのか、それこそ工員から役員まで巻き込んで、大トトカルチョを開催していたのが私の父でした。想像するに、最初は部署内でのささやかなものだったのでしょうが、父の緻密な性格と数的センスと、そして何より高校野球への限りない愛情によって、あっという間に父は、おそらく会社公認の「大元締め」となったものと思われます。

多分参加者は何百人という規模であり、賭け金の単位は一口百円程度だったと思われます。細かいルールまではわかりませんが、宝くじのように一等から五等くらいまで、つまり準々決勝、準決勝、決勝、優勝で、参加者の掛け金がうまいこと分配されるような仕組みを作っていたようでした。

これほどの大規模なトトカルチョは、募集・集金から分配まで、かなりの手間と細かい計算が必要なので、いつの間にか、春と夏の父の業務は高校野球専任になっていったものと想像されます。当時、このような社内親睦は、あの頃盛んだった社内運動会や社員旅行と並んで重要で必要な業務の一つと見做され、言わば、父は「親睦委員」としてこの任務を遂行していたものと思われます。

どういう仕組みかわかりませんが、準々決勝、準決勝、決勝と進むにつれて、毎年父の「仕事」は熱を帯びていきました。

調べたことはありませんが、あれほど大規模なトトカルチョは、日本企業の中でも有数ではなかったかと思います。父の勤務先は上場企業でした。あの頃多くの会社では、一旦就職すればそれは結婚と同じようにその集団の仲間入りをして、生涯人間関係は変わらないと思われていました。その大勢の社員がこぞって参加していたのです。

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私が生まれた時、父は私が男の子でなくて父はガッカリしたそうです。なぜなら父は息子が生まれたら自分の得意な野球を教え込んで、戦争で叶えられなかった自分の夢、つまり息子を高校野球の選手に育てたいと考えていたからでした。

父は、私の母方の祖父(父から見れば妻の父)とウマが合いました。その理由のひとつは、祖父自身が若き日に、まだ高校野球が中等学校野球選手権と呼ばれていた頃の選手だったからでした。二人はよく高校野球の話をしては盛り上がっていました。

3年後に弟が生まれた時、父は大喜びし、弟に一日も早くグローブとバットと与えて星一徹ばりに特訓しようと手ぐすね引いていました。ところが、弟は見事に運動音痴の母そっくりで、キャッチボールをしようと父がボールを投げると弟はぎゅっと目をつぶり、顔を背けて怖がるのでした。

それでも弟は、小学生になるとすぐに地元の野球チームに入れられました。しかしキャッチボールもまともにできないので守備は外野ということになりました。ところが少年野球のコーチによれば、弟は外野にしゃがみ込んでお砂の山を作っているような子だったそうです。

ある日、弟がバッターボックスに立っていたら、ピッチャーの投げた球が弟の頭を直撃したと、コーチが弟をおんぶして家へ連れ帰ってきました。コーチは普通ボールが来たら反射的によけようとするものだが、弟はただじっと立っていて球の直撃受けたと言いました。父はその話を聞いてすっかり肩を落とし、弟を退部させ、自分の「仕事」により邁進するようになりました。

◇ ◇ ◇

春と夏の甲子園が始まると、父の生活は本当に野球一色となりました。父は甲子園の大ファンでした。なにしろ父は甲子園と同い年でした。甲子園が完成したのは父の生まれた大正13年(1924年)のことでした。この年は、暦の干支を構成する「十干」と「十二支」のそれぞれの最初の「甲」と「子(ネ)」が合わさる縁起の良い年だったので甲子園と名付けられたそうです。甲子園は来年で設立100周年となります。

数年前、朝ドラで有名になった古関裕而の「栄冠は君に輝く」は、まるで我が家のテーマソングのように春と言わず夏と言わずレコードがかかっていました。私は子どもの頃からずっと聴いていたので、今でも三番までそらで歌うことができます。伊藤久男の輝くような歌声に合わせて、父が人差し指一本で指揮をしている姿が目に浮かびます。

父はプロ野球には一切興味を示しませんでした。私の家でプロ野球のテレビ放映が流れていた記憶はありません。その理由を聞いたことはありませんが、1985年に阪神が日本一になった時に父が大喜びしていたことから推測すると、私が物心ついた頃の昭和40年(1965年)から昭和48年(1973年)には巨人のV9時代があったため、青春時代を大阪で過ごした父にはおもしろくなかったのかも知れません。

父の勤めていた会社は、私が中学生の頃オイルショックの不況を受けて、銀行から派遣された役員による人員整理が行われ、その後、統廃合されていきました。父も優雅に「親睦委員」をやっている場合ではなくなり、その内、父自身も関連会社に出向させられ、後に転職することになりました。

◇ ◇ ◇

父の「仕事」が違法であることを私が初めて知ったのは中学生の時でした。ちょうどオイルショックで父が「廃業」に追い込まれていた頃、通学路で読み捨てられたスポーツ新聞が風に吹かれて足元に転がってきました。その時「野球賭博で〇〇が逮捕」という大見出しの記事が目にとまりました。

「野球賭博って何?」と一緒にいた同級生に聞いたら、「どのチームが優勝するのかお金を出して賭けるんじゃない?」というので、「それって違法なの?」と聞くと、「逮捕っていうんだから法律違反なんじゃないの?」と言われました。子どもの頃から、周りの人たちに尊敬され、父自身も誇りを持ってやっていた父の仕事が逮捕されるようなことだったとはにわかに信じ難いことでした。

子どもの頃は、父の同僚たちはよく連れ立って我が家に遊びに来て、一緒に食事をしたり、麻雀をしたりして家族ぐるみでつきあいがありました。そんな時、決まって話題の出るのはいかに父が会社で信頼されており、父の「仕事」のおかげで会社には活気がみなぎり、どれほど皆んなに感謝されているかでした。

娘の私から見ると、父はどう見ても「変人」と呼ばれる種類の人間でした。いわゆる偏屈というか、妙なところにコダワリのある人物で、お世辞にも社交的だとは言えませんでした。しかし皆んなから信頼されていたというのは、「変人」ゆえに狡いところは一切なく、常に公明正大に物事を進める性格だったからだと思います。

例えば、家での麻雀大会でも「せっかく来てくれるんだから」と食事から何から何まで一切合切を無償で提供していましたから、母はよく嘆いていました。おそらく大元締めをやっても明朗会計、その上すべての経費は持ち出しだったので、周囲からの信頼も篤かったことと思います。

まさかその父の「仕事」が逮捕されるかもしれない「犯罪」だったとは、私はしばらくショックで口がきけないほどでした。しかもそれを知ったのが、風で飛ばされてきたスポーツ新聞だったというのも、哀しさを一層増幅させました。

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父はとにかく高校野球が好きでした。オイルショックで「廃業」し、転職してからは、もう「親睦委員」をすることはありませんでした。世間の風が変わったことが大きな理由だったと思います。企業文化も高度成長期が終わって大きな変革を迫られたことでしょう。それでも父は相変わらず家にいる時はテレビで、出かける時には耳にラジオのイヤホンを入れて高校野球そのものを応援していました。

父のもう一つの夢は、高校野球の審判になることでした。小さい頃、私はそのうち父は高校野球の審判になるのだろうと漠然と考えていたほどです。結局、高校野球の審判になることなく、父は二十年前に亡くなりました。

父が肺がんで亡くなったのは、アメリカがイラクに侵攻してバグダットが陥落した2003年4月9日でした。春の高校野球は既に終わっていました。それから数ヶ月して、夏の甲子園が始まりました。その時私が感じたのは「どうして父はもういないのに高校野球をやるのだろうか」というものでした。他の人が聞いたら呆れるでしょうが、ふと浮かんできた疑問がそれでした。

その年の夏、高校野球なくしては父を語ることはできないけれど、父の存在とは関係なく高校野球は存続していくのだと思うと、何とも言えない気持ちになりました。それほど父と高校野球は切っても切れない関係でした。

◇ ◇ ◇

父はもとより、あの大規模なトトカルチョに参加していた大勢の社員は、まさか自分がやっていることが違法だとは微塵も思っていなかったと思います。ほんの少しでも罪悪感があれば、小学生の低学年だった私に父の同僚たちがあのように心のこもった優しい言葉をかけてくれたとは思えないからです。

それにしてもこれから教育費がかさむ子ども2人を抱えた父にとって、会社がオイルショックの煽りを受けて解体されてしまったことは衝撃だったことでしょう。しかし、かえって良かったのかもしれません。あのままではやめるにやめられず、父や同僚の方々が逮捕でもされていたら大変なことになっていました。

今年もまた、甲子園のニュースを耳にする季節になってきました。甲子園と聞くと、今も私にはあの頃の「青焼き」に向かう、父の嬉々とした眼差しが蘇ってきます。あれからもう半世紀以上が経ちました。もし、あの「青焼き」の一枚でも残っていれば、日本の高度成長期における日本の企業文化を象徴するひとつの証になったのではないかと、私は密かに考えています。


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