229.ドーバー海峡

本稿は、2021年12月4日に掲載した記事の再録です

先日、ドーバー海峡で難民を乗せたボートが転覆して子どもを含む27名が亡くなったというニュースが報じられました。英仏両首脳は再発防止のために欧州全体で対策を講じる必要があるとの声明を出しました。

このニュースに接し、私は36年前の12月に、自分自身がドーバー海峡を船で渡ったときのことを思い出しました。今回の転覆事故に遭った難民が命がけで海を渡った事情とは違い、私の場合は友人と楽しいクリスマス前の休暇をロンドンで過ごそうと大きなフェリーで渡ったのです。あの旅のことは今も忘れることはできません。

◇ ◇ ◇

1985年12月、私はドーバー海峡をフェリーで渡りました。当時滞在していたフランスから、高校時代の友人のいるイギリスでクリスマス前の休暇を過ごそうとバスごとフェリーに乗ったのです。

あの頃、多くの外国人旅行者にとってフランスからイギリスに行くのは、飛行機を利用するのが一般的でした。ユーロトンネルが開通したのは9年後の1994年のことでした。

しかし、当時地方都市に滞在していた私にとっては、一旦パリまで行って飛行機に乗ることに比べて、地方都市の市役所前からバスに乗り込み、そのままバスごとフェリーでドーバー海峡を渡り、一気にロンドンのビクトリア・コーチ・ステーションまで連れて行ってもらえるバス旅の方が、便利で、安全で、しかも安いので、こちらを選ぶことにしました。

高校生の時、毎日連れ立って通学していた友人は、私がフランスかぶれだったのと同じように、彼女はイギリスかぶれでした。友人はブリティッシュロックが大好きだったので、武道館のQUEENのコンサートにも一緒に行ったし、T−REXのマーク・ボランが自動車事故で急死した時には、互いに肩を抱き合って泣きました。

二人ではっぴいえんどや荒井由美のレコードを耳コピして歌ったり演奏したり、大瀧詠一にファンレターを書いて年賀状をもらったり、六本木のPIT-INNで行われたYMO(イエロー・マジック・オーケストラ)の結成コンサートにも一緒に行きました。

それぞれが別々の大学に入学して、就職もすると次第に連絡を取る間隔はあいていきましたが、ある時久しぶりに会って、私がこの夏仕事を辞めてフランスに行くことに決めたと話すと、驚いたことに彼女も実は私もこの夏仕事を辞めてイギリスに行くことに決めたのだと言いました。それではお互い冬と夏に英仏を行き来しようねと約束したのでした。

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確か12月20日だったと思うのですが、私は市役所の近くの広場から、あらかじめ予約しておいたバスに乗り込みました。隣の席にはフランス人の女の子が座っていました。彼女は私が日本人と知ると、日本料理はまだ一度も食べたことはないけれど、中華料理なら食べたことあるわ、でも中華料理は「軽い」からすぐにお腹がすいちゃうのよねと言っていたことが今も忘れられません。

バスは定刻通り出発し、ドーバー海峡のフェリー発着所のカレーまで順調に走行しました。カレーといえば、英仏の百年戦争を題材にしたロダンの彫刻「カレーの市民」が有名ですが、私自身はカレー市庁舎前のその彫刻は見ていません。なぜならバスは夜中のうちにフェリーにそのまま乗り込んで、私たち乗客は、既に船の中にバスが入ったので自由に下車してもいいですよというアナウンスで初めて目を醒ますという状況だったからです。

気がついたらもうフェリーの上というのには驚きました。私だけでなく周りの乗客も何も知らないうちにフェリーの上とはと口々に言っていました。周りにも同じようなバスがずらりと並んでいました。バスから降りて、自由に船の中の好きな席に座って良いとのことでした。座席があるところもあれば、雑魚寝ができるような場所もありました。

甲板は凍えるような寒さなので、誰も甲板に出ようという人はいませんでした。

暗くて外はよく見えないけれど、何となく窓際がいいような気がして、私は窓際の座席に腰かけましたが、前の座席の背もたれについている網には、エチケット袋が何十枚も押し込まれていました。すごい数だと印象的でした。

船は暗闇の中を順調に進んでいるように思いましたが、しばらく乗っていると波が荒いのか、船の座席が随分上下すると感じるようになりました。ふと辺りを見渡すと、周りの乗客たちはそれぞれが手にエチケット袋を抱えて船酔いで苦しんでいる様子が目に入りました。

そのうちにトイレに行こうとしてもトイレは一杯で、そのまま床に転がって苦しみ始めた人々が次々と現れ始めました。そういえば、床のあちこちにもエチケット袋が山ほど積んであることに気づきました。その頃には、船は揺れはますます激しくなり、雑魚寝エリアの人々がゴロゴロ転がっていきそうになっていました。

私は船酔いには強い方だと思っていましたが、これは困ったことになったと思っているうちに我慢ができなくなって、私自身もエチケット袋のお世話になりました。マンガのように大揺れでした。

おそらくあの船に乗っている人でエチケット袋を使わなかった人はいなかったと思われます。もう全員がなりふり構わずあちこちでエチケット袋を束のように掴んで、床を転げまわりながら船酔いと闘うことになっていたのです。大変な目に遭いました。本当に参りました。

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一体、どれくらいの時間が経ったのかわかりませんでしたが、そろそろ対岸に到着するのでバスの座席に戻るようアナウンスがあり、みんな青白い疲れ果てた表情でバスに乗り込みました。

対岸に目をやると、まだ夜が明けきらない薄明の中に、真っ白な壁が目に飛び込んできました。あれが有名な「ドーバーの白い壁」なのかと思いました。

バスがそのままフェリーを降りると、私たち乗客は全員降車して大きな体育館のような入国検査所に入るよう促されました。向かって左から英国人専用の窓口、真ん中がECパスポート保持者の窓口(当時はまだEUはなく、欧州共同体ECの時代でした)、そして一番右側がその他のパスポート保持者の窓口でした。

左側はものすごい人数で、おそらくフェリーの乗客の半数以上が並んだと思われます。クリスマス休暇で欧州大陸から里帰りする英国人なのでしょう。うしろの方は体育館に入りきらないので外でぐるぐると渦を巻いていました。真ん中のECの列はかろうじて最後尾がギリギリ体育館の中に収まりました。そして私が並んだ一番右側のその他のパスポートの列は、全部で15人しかいませんでした。

しかし、一番左のぐるぐると渦を巻いていた列はあっという間に消えてなくなりました。本当に一瞬のうちになくなってしまったかのようでした。次に真ん中のECの列も見る見るうちに列は短くなっていき、こちらも気がついたら消えてなくなっていました。

ところが、私のいるたった15人しか並んでいないその他のパスポート保持者の窓口は、まだ最初の人の審査が済んでいないような有り様で、列は少しも進みません。左側と真ん中の窓口の人も応援に来てくれればいいのにと心の中で思いましたが、応援はないようでした。

私の並んでいる列の面々は頭にターバンを巻いている人が多く、国籍はわかりませんでしたがどうやらインド辺りからやってきた人々のように見えました。家族連れで数人の子どもを連れている人も何組かいました。

見るともなしに眺めていると、散々窓口の係員とやりあった挙句、もうこれ以上は相手にできないからと列から強制的に追いやられる家族が目に止まりました。その一家は男性と、サリーをまとった女性と、4人の子ども連れでした。ガムテープで頑丈に荷造りした段ボール箱を十箱ほど持っていましたが、その段ボールも係員によって列から排除されていました。

ターバンを巻いた父親は段ボール箱の上に腰掛けて頭を抱えました。母親は幼いふたりの子ども達を両腕で包み込みました。男性の顔には「絶望」という表情が浮かんでいました。

たった15人でしたが、私たちを置いてバスはとっくに出発してしまったのではないかと心配するほど長い長い時間が過ぎました。私の番が来た時には一瞬のうちに審査は終わりました。

帰りのフェリーの切符もなく、たくさんの段ボール箱と小さな子どもを抱えて彼らはこれからどうするのか、私には何かできることはないのか、このまま見て見ぬ振りをして自分だけ英国に入国するのかと心の中で葛藤しましたが、一体私に何ができるのかと思った時、ただただ無力を感じました。

彼らを残して私はバスに乗り込みました。同じ列に並んでいた目の前の人を見捨てるという経験は初めてのことでした。ただでさえ船酔いで意識が朦朧としていましたが、しばらくは自分の冷たさというか、非人情さというか、そういう態度を取る自分自身が許せない思いでした。

しかし結局は、私は見て見ぬ振りをしたのでした。

◇ ◇ ◇

ビクトリア・コーチ・ステーションまで友人は迎えに来てくれていました。あの頃、私たちの連絡手段は絵ハガキでした。脱線になりますが、Twitter の140文字というのは、絵葉書の余白に書ける文字数が由来だと聞いたことがあります。

友人の案内でビッグベンやウエストミンスター寺院を始め、大英博物館など名所をあちこち観光して、夜はパンクロックコンサートにも行きました。ロンドンのロックコンサートには座席などというものはないのだと初めて知りました。

友人の家に泊めてもらって、ピカデリー・サーカスなどクリスマス・イルミネーションに輝くロンドンの街を歩きました。2階建てバスにも乗りました。ドーバー海峡を挟んだだけで、本当に全然文化が違うのだと感じました。

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帰りのフェリーに乗り込んで最初にしたことは、まずエチケット袋を5枚ほど確保することでした。ところが、エチケット袋は背もたれのポケットにそれぞれ1枚程度しか入っていなくて、これでは足りないと心配したものでしたが、帰りのフェリーは少しも揺れることなく快適な旅でした。行きの海峡はたまたま大シケの日に当たってしまったようでした。

他の乗客も私自身も、帰りは悠々と飲み物を片手におつまみを摘んだりして暢気に船旅を楽しむことができました。

帰りはパリで下車して別の友人と待ち合わせして、シャンゼリゼ通りのイルミネーションに心躍らせ、クリスマス・イブにはオペラ座にヌレエフのバレエを観に行きました。そのあとノートルダム寺院のミサにも行きました。忘れられないクリスマス休暇となりました。

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石川さゆりが歌って大ヒット曲となった「津軽海峡・冬景色」には、青函連絡船に乗り北海道へ渡る人々が描かれています。この曲は1977年(昭和52年)に発売されて以来、今も歌い継がれていますが、1987年に青函トンネル(全長は約53.9 km)が開通したため、青函連絡船は翌年の1988年に廃止となりました。

仲の良い友人が最後の青函連絡船に乗るのだと出かけて行ったので、ニュース映像に友人も映るかもしれないとテレビ画面を見つめていたので、その日のことはよく覚えています。そのためか、私はドーバー海峡を行き来するフェリーも廃止されたものと勝手に思い込んでいました。

ドーバー海峡も、1994年4月に英仏海峡トンネル(全長は50.49km)が完成し、同じ年の11月にはユーロスターが開通していました。

私自身は欧州系の会社に再就職したため、90年代後半は頻繁に欧州出張に出かけましたが、その頃は社内規定で英仏間の移動は飛行機に限定されていたので、私は未だにユーロスターに乗ったことはありません。しれがいつのまにか英仏間の移動はユーロスターが当たり前になり、日々の買い出しにもユーロトンネルを利用して英仏間を移動しているなどとニュースで知り、すっかり時代は変わったのだと思っていました。

ところが今回調べてみたら、ドーバー海峡のフェリーは未だ健在のようで、多くの旅行者がブログでその様子をアップしています。フェリーの時刻表を見ると海峡横断は1時間半だということです。私たちが船酔いで苦しんでいた時間はもっとずっと長かったように思いますが、今となってはどれくらいの時間だったのかはもうわかりません。

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「ドーバー海峡」という言葉を見聞きするたびに、私はあの年の一連のクリスマス旅行を思い出します。とんでもない船酔いと同時に、高校時代の友人と連れ立ってロンドンの街を歩いた楽しい時間でした。

けれども、ドーバー海峡という言葉から最初に思い浮かぶのは、あの入国検査場での男性の顔面に貼りついていた「絶望」です。そしてそれを見て見ぬ振りをした自分自身です。

あの絶望の家族は、それでも冷たいドーバー海峡で命を落としたわけではありません。けれども今回のニュースでは、小さな子どもを含む27名もの人々があの冷たい海に沈んでしまったかと思うと心が痛んでなりません。祖国をあとにして命懸けで海峡を渡らなくてはならない人々が一人でも減るような世の中にしていきたいと願っています。


<再録にあたって>
クリスマス休暇を前に街は華やぐ一方、ガザやウクライナでの戦闘は終わりが見えません。生活の地を追われて人々は一体どうやって暮らしていくのかと、心が痛んでなりません。「あなたの家は爆破される予定ですから、逃げてください」と言われたら、私ならどうするだろうかと考えてしまいます。

交通手段もなく、徒歩で逃げるならどんなに頑張っても横浜辺りまでしか行けそうにありません。でも、泊まるところもなく食料もあるのかどうかもわからないまま、私は横浜まで歩く気力があるかどうか自信がありません。年老いた母はどうしたら良いでしょう。爆撃覚悟で私もこの地に留まった方が良いでしょうか。

38年前の今頃、難民の家族を前に何もしなかった私ですが、今も無力感を感じるだけで、少額の寄付以外には何も行動していません。かろうじてウクライナ国立バレエの公演に足を運んでいるくらいです。今冬は「雪の女王」をチケットを買いました。

UNHCR(国連難民高等弁務官事務所)によれば、現在、難民となっている人々の数は1億人を超えているそうです。そんな中、日本も防衛費は増額されつつあります。外交費ではなく、防衛費だというのが心配です。



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