212.「遊びましょ」

本稿は、2021年5月8日に掲載した記事の再録です。

子どもの頃、友人の家の玄関先や庭先で「♪ ◯◯ちゃん、遊びましょ」と節をつけて声をかけると、「♪ はあい、ちょっと待ってて」と、これもまた節をつけて返事が返ってきたものでした。

中学や高校に行くようになると、約束なしで突然誰かの家を訪問するようなことは次第に少なくなくなり、あらかじめ何時頃遊びに行くとか、電話でこれから行くねとか約束したものでした。

大学生になり就職する頃には、学校や職場の誰かと会う時には都心の喫茶店などで待ち合わせをするようになっていきました。家を訪ね合うようなことはなくなりました。

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私は昭和60年(1985)年夏から昭和61年(1986年)夏まで、フランスの地方都市で学生生活を送りました。その頃はまだインターネットなどない時代で、携帯電話も普及しておらず、しかも外国人留学生の私たちは、というより下宿生活を送っている学生はフランス人も含めて電話を持っていないのが普通でした。

多くのコミュニケーションは直接会って話をするものでした。電話は緊急連絡として大家さんが取り次いでくれることもあるけれど、それは本当に緊急事態に限られていました。手紙もあったけれど、まず会って話すのが基本でした。

このように、フランス滞在中の私の友人とのやりとりは、突然小学生の頃に逆戻りすることになったのですが、実は、私にはこのいわゆるコミュニケーションツールをまったく持たない生活というのは、これまでの人生の中で最も心地良いものでした。

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私の下宿は、通っていた学校からほど近い2階建ての建物でした。住民は全部で9人で、1階に4人、2階に5人の学生が住んでいました。私以外に、もうひとりコンセルヴァトワールに通っている日本人女性が住んでいて、あとの7人は全員フランス人でした。5人が医学生、1人が英文学専攻、もうひとりが教育学専攻の学生でした。

最初私は大家さんのご自宅の日本風にいう3階の一部屋で暮らしていたのですが、同じ大家さんが経営する学生下宿が空いたというので、語学の勉強にもなるだろうからと途中から下宿の2階に移りました。

この下宿はそれぞれの10畳ほどの自室の他に、2人か3人ずつの共用のキッチン、シャワー、トイレが四軒分あるという間取りでした。しかし四軒とはいっても建物内の扉は開けっ放しになっていることが多く、9人の合同生活のようなところがありました。毎日何かしらのトラブルが起きてみんなで頭を悩ませたり、一緒に食事を作ったり食べたり、なかなか楽しい生活でした。

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7人のフランスの学生は、金曜日の授業が終わると自宅に戻り、日曜日の晩か月曜日の授業が終わるまで下宿を空けていましたが、平日には時々友達等が遊びに来ました。道端で少し大きな声で「フィリーップ!」とか「ドミニーック!」などと呼ぶ声がすると、誰かしらが下宿の窓から顔を出し、「中へ入れよ」とか「まだ帰ってきてないけど、中で待つ?」などと答えるのでした。

私のところにも友人がやってきました。国籍を問わず色んな人がやってきました。みんな窓の下で私の名前を呼んだり、日本語で「こんにちは〜、いる?」などと声をかけられました。そういう時には、「♪ はあい、ちょっと待ってて」と節をつけて返事をしたくなりました。

日本人の友人は男女ともよく遊びに来ました。大抵みんな近くのパン屋さんで買ったバゲット半分とチーズを少しだけ、リンゴを数個だけなどを手土産にやってきてくれました。あの頃は、誰かが実家から送ってきたとか、パリで手に入れたなどという週刊誌はお宝状態で、日本語の週刊誌片手に誰かの家を訪ねるというのはとても喜ばれました。

1985年に日本を出るまで、私は外国人というとアメリカ人かフランス人と接触があったくらいで、日本人以外のアジア人とは話をしたことはありませんでした。それでも一旦外国に出ると、同じような容貌のアジア人とはお互いに親近感が湧き、随分仲良くなりました。

特に仲良くなったのは、韓国人の同い年の女の子と、台湾人のひとつ年下の女の子でした。韓国人の子に、なぜフランス語を勉強しようと思ったのかと尋ねたら、彼女は「これからは日本語だと思って日本語を学びたいと父親に話したら、日本人は嫌いだから日本語を学ぶなら学費は出さないと言われてしまったのでフランス語にした。でも、おかげでこうして日本人と仲良くなれたから、まあ良かった」と言っていました。

台湾人の女の子は、物凄く達筆で、漢字というのはこうやって書くものなのかと感心させられました。フランス語には「まるで中国語のように意味がわからない」という言い回しがあるそうですが、彼女はよくこの言い回しを使って周りを笑わせる陽気な子でした。

余談ですが、あの頃中国大陸から来た中国人といえば、人民服を着た政府高官のグループを時折パリの名所で見かける程度でした。日本では中国人を見たことがありませんでした。私が初めて中国人を見たのは、ベルサイユ宮殿に観光に行った時のことでした。彼らを見て「文化革命を生き抜いて来た人たちなんだ」と心の中で思った記憶があります。

同じ下宿のフランス人に「アジア人はみんな同じ顔に見えていたけど、だんだんと区別がつくようになってきた」と言われるくらい色んな子が遊びに来ました。

一旦、誰かが来ると、特別な相談事でもない限り自室に招き入れることはあまりなく、共用のキッチンでお茶を沸かしながらおしゃべりをすることが多かったので、そこで一緒に暮らしているフランス人やその友人たちも、みんな一緒に飲んだり食べたりおしゃべりしたりということになりました。

ある時、キッチンで隣の部屋のアンヌがケーキを作っているのを私が眺めていたら、そこにアンヌの女友達がやってきて途中から3人でおしゃべりしていると、今度は韓国人の女の子が私を訪ねてやってきて、アンヌの作ったケーキを4人で食べたこともありました。

その時、カスタードクリームの舐めたアンヌの友人が「このソースおいしいわね」と言ったので、私は心の中で「フランス語ではカスタードクリームもソースっていうのか」と思っていたら、アンヌが「やだ、ソースじゃなくてクリームって言ってよ」とすぐに声を上げました。

こんな感じで、友だちの輪が自然と広がっていくようなところがありました。

子どもの頃、誰かの家に遊びに行って庭先から部屋を覗き込むと、近所のおばさんだけがコタツに入ってみかんを食べていて、「今、誰もいないから、上がって待ってなさい」と言われ、「はい、おみかん」とみかんまで渡されて「◯◯さんちの犬に赤ちゃん産まれたの、もう見た?」などと話が展開していったことを思い出します。

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メディアの発展によって私たちの生活はどんどん変化していきました。朝、出勤の時は電車の中で新聞にさっと目を通し、とりあえず必要な情報は頭に入れておくというのは、新聞の宅配制度が行き渡った昭和から平成の中頃にかけて誰もが当たり前に感じていたサラリーマンの日常の習慣でした。

スマートフォンの普及で、近頃では電車内で新聞紙を手にしている人を見かけることはすっかり珍しくなりましたが、メディアの変遷はそのまま私たちの生活の変遷でもあります。

各家庭に電話が普及すると、それまで「つい近所まできたものだから」というような突然の訪問は相手に失礼だと思われるようになりました。その後、メールやLINEが広がり始めると、電話をかけるのは突然その人の生活に割り込むようだからと電話連絡は私たちの社会から急激に減っていきました。長電話などというものもめっきり減りました。

思い起こせば、もうかれこれ三、四十年ほどは、玄関のチャイムが鳴って出てみたら思いがけなく友人が立っていた、などということはなくなりました。玄関に直接訪ねてくるのは、いつの間にか宅配便や郵便物などのお届け物ばかりで、友人・知人が約束なしに訪ねて来ることはほぼ皆無となりました。

昨今では連絡手段どころか、直接会う機会すらもZOOMに取って代わられてきました。いつでもどんなに距離が離れていても、誰とでもやり取りできるインターネットのコミュニケーションツールは本当に便利で、私も毎日手放せずにいます。

けれども、この数十年を振り返ってみると、コミュニケーションツールが便利になればなるほど、人との距離がどんどん遠のいたように感じます。電話やメールは、コミュニケーションをより円滑にするように生まれたはずなのに、気がつけば、窓の下から名前を呼んだり、人の家にのこのこ上がり込んでみかんを食べていた時代に比べて、ツール自体が人と人との間に高い壁を作り上げてしまったように感じます。

コミュニケーションツールの発達が、ディスコミュニケーションの時代を招聘したかのようにさえ感じています。

多くの若者が居場所がないと感じ、ひきこもりが社会問題化し、相談事はお金を支払って受けるカウンセリングが珍しくなくなった時代です。

フランス滞在中は、地方都市だったので徒歩圏内で大方の用事が済ませられた、身分は学生だった、学生で電話を持っていた人はほぼいなかった、まだ世界にはインターネットがなかったなどなど様々な要因がありましたが、今よりもずっと人と人の繋がりが濃密だったように思います。そして、私にはそれがとても心地良いものに感じられました。

もしもあの頃、電話やLINEやZOOMがあったとしたら、きっと私の家に訪ねて来る友人の数はもっとずっと少なかっただろうと思います。また私もみんなの家をあれほど訪ね歩いたりはしなかっただろうと思うのです。

今では小学校低学年のうちから友だちの家に遊びに行くのに訪問の約束が必要だなどという話を耳にすると、あの心地の良い人間関係をまったく知らずに大人になってしまうなんてもったいないと思ってしまいます。人生の中途で、突然、手紙以外のコミュニケーションツールを持たなくなったなどという経験をしたためか、あの頃の直接ふらりと友人宅を訪問していた日々が、時折懐かしくて堪らなくなります。


<再録にあたって>
2019年8月からnoteを始め、毎週土曜日毎に投稿してきました。前回はこの4年間で一番アクセス数の多かった「新潮文庫の百冊」を再掲しましたが、今回の「遊びましょ」は、この4年間で一番多くの「スキ」をいただいたnoteです。興味深いのは、「スキ」を押してくださった138名の方々の内、およそ半数近くの方はいつも読んでくださっている相互フォローの方々ではありませんでした。

多くの人がスマホやPCを拡張された身体の一部のように使いこなしていますが、実は人と人とが直接触れ合った時代を心地よく感じているのかなと思いました。


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