236.「太陽にほえろ!」と滅私奉公

「太陽にほえろ!」は、1972年(昭和47年)7月21日から1986年(昭和61年)11月14日まで、金曜日午後8時から約1時間(54〜56分)、日本テレビで放送された刑事ドラマでした。番組平均世帯視聴率が40%(ビデオリサーチより)という今では死語になってしまった「国民的ドラマ」でした。

1972年7月21日といえば、私にとっては中学1年生の夏休みの初日に当たります。当時通っていた中学ではこの番組はすぐに大人気となり、「太陽にほえろ!」を見ていない子はクラスにひとりもいないような状態でした。ショーケンこと萩原健一が扮した初代新人刑事マカロニが通り魔に刺殺された時には大騒ぎになり、松田優作が扮した二代目新人刑事ジーパンの殉職シーンでの叫び声「なんじゃぁこりゃぁ」は当時の流行語になりました。

この番組は、七曲署捜査一係が様々な事件を解決していくという刑事ドラマで、主な配役は次の通りでした。

藤堂俊介(ボス) :石原裕次郎
山村精一(山さん):露口茂
野崎太郎(長さん):下村辰平
石塚誠(ゴリさん):竜雷太
島公之(殿下)  :小野寺昭
内田伸子(シンコ):関根恵子

早見純(マカロニ):萩原健一(1話〜52話)
柴田純(ジーパン):松田優作(53話〜111話)
三上順(テキサス):勝野洋(112話〜216話)
田口良(ボン)  :宮内淳(168話 - 363話)
さらに、沖雅也、木之元亮、山下真司、神田正輝、渡辺徹、三田村邦彦、世良公則、地井武男、長谷直美、又野誠治、石原良純、金田賢一、西山浩司、渡哲也
などの人気俳優が次々に出演しました。

当時「太陽にほえろ!」があまりにも人気があったので、とにかく金曜日の8時になんとかチャンネルを我が局へ合わせてもらいたいと、TBSがその名もズバリ「金八先生」の放送を開始したというエピソードは有名でした。

1970年代には土曜日も午前中は普通に授業があったので、土曜日の朝、私たちは学校へ行く道々、学校に着いてからもショーケンや松田優作の話題でもちきりでした。新人刑事だけでなく、刑事役の誰が好きかでも盛り上がり、私たちはゴリさん派や山さん派、殿下派などに分かれてどこが素敵かを語り合いました。

◇ ◇ ◇

そんな大人気の「太陽にほえろ!」でしたが、実は長年に渡って私の中で、どうにも腑に落ちない、納得のいかない回がありました。それは1976年(昭和51年)6月25日に放映された206回「刑事の妻が死んだ日」という回でした。

この回では、露口茂扮する山さんこと山村精一が、心臓病で入院している妻よりも犯人を追いかけることを優先したために、妻の臨終に立ち会うことができなかったという回でした。ドラマの中では同僚たちが、ここは我々に任せて山さんは病院に駆けつけた方が良いと何度もアドバイスしますが、山さんは「病人の面倒をみるのは医者の仕事だ。善良な市民を凶悪犯から守る、それが俺たちデカの仕事なんだ」と言って結局妻の最期に立ち会いませんでした。

そして、その妻も、亡くなる直前に「あなた、犯人は捕まったでしょうか。捕まったんですね。あなたが来てくださらなくても、刑事の妻ですもの。覚悟はしておりました。それで、一般市民の方の命が守られたんですものね。私のこの病気のために、あなたに、あなたのお仕事にどれだけ迷惑をかけたことか。すみません。刑事の妻としては、失格だったのかもしれません。でも、そんな私を誰よりも優しくいたわり、愛してくださったあなたに、感謝の気持ちでいっぱいです。本当に幸せでした。坊やをお願いします」という言葉を残すのでした。

この回は、もちろん山さんは立派な刑事魂を持った素晴らしい刑事であり、その妻も刑事の妻として最高の妻だったと讃えるような内容でした。制作側は決して山さんを妻を蔑ろにするような非人情な人物として描いたのではありません。

しかし、私はこの回に大きな違和感を覚えました。この回が放映された時、私は高校2年生でしたが、その時「この『滅私奉公』とでも呼ぶべき、山さんの行為が讃えられるような社会が、私たちにとって暮らしやすい、私たちの理想とする社会なのか」と思わずにはいられませんでした。愛する妻や夫、子ども、父母などかけがえのない人の命が消えそうな時にも、私たちの社会は「公」や「仕事」を優先すべきだと考えているのかと思いました。

圧倒的な視聴率を誇る「国民的ドラマ」で、山さんの犯人逮捕優先する生き方というのは、おそらく多くの人々の感動を呼び、称賛を浴び、共感を抱かせ、一種の生き方のお手本としてこれからも日本社会の中にあり続けるのかと思った時、私は言いようのない不快感を覚えました。誰もがかけがえのない人の死に立ち会える社会の方がずっと良い社会なのではないかと感じたのです。

◇ ◇ ◇

昔から「役者は親の死に目に会えない」などとも言いますが、私はそれもおかしなことだと感じていました。私は昔からバレエが大好きで、何ヶ月も前から私にとっては高額なチケットを買って楽しみにしていますが、それでもいくらお目当てのダンサーでも、もしもそのダンサーにとってかけがえのない家族が危篤状態にあるならば、どうか側にいてあげてくださいと願います。

気が気ではない状態で、あるいは哀しみをこらえて舞台に出るよりも、大切な人との最期の時間を共に過ごしてもらいたいと、私なら思います。そのような理由で代役になったとして何の問題もないと昔から思っていました。

◇ ◇ ◇

「刑事の妻が死んだ日」が放送されてから12年後の1988年、プロ野球の阪神で活躍していたランディ・バースという米国人野球選手が、長男の病気の治療のためシーズン途中で帰国すると報じられました。私は野球のことはさっぱりわからない門外漢ですが、それでも子どもの治療を理由にシーズン途中に帰国したことに賛否両論が起こったことを覚えています。

この問題は治療費の支払いをめぐって、さらに大きな問題に発展していったようですが、私にとっては、バースが外国人だから戦線離脱は許されたのであって、彼が日本人だったら許されなかったという論調があったことが印象に残りました。子どもの病気と仕事を天秤にかけて、仕事を選ばなければならない日本社会とは人々にとって本当に幸福な社会なのかと思いました。

◇ ◇ ◇

さらにまた月日が流れ、1996年、私が勤務していた外資系企業で、私たちは日本企業向けの新製品を発表するために、大勢の顧客をホテルの宴会場へお招きして大々的に発表会を行おうと準備を進めていました。少しおおげさに言うならば、社運を賭けた大プロジェクトといってよい発表会でした。営業部長が指揮を取り、欧州本社からも社長がやってくることになっていました。

そしていよいよ発表会の当日、突然、当の営業部長の奥様が予定日より早い陣痛に見舞われることになったのです。その時、営業部長の上司に当たる英国人の日本支社長の判断で、営業部長は発表会を急遽欠席して、奥様の出産に立ち会うこととなりました。

夕方、ホテルの宴会場に参集してくださった大勢の招待客を前に、支社長が「新製品の発表と共に嬉しいお知らせがあります」と、営業部長に無事お子さんが誕生したことを発表すると、その場にいた招待客から祝福の拍手が起こりました。

その場におられた顧客の大半は日本企業の方々で、もちろん日本人がほとんどでした。それは良かった、本当に良かったと皆さま喜んでくださいました。

この時、私は高校生の時に見た「太陽にほえろ!」の山さんの奥さんの臨終シーンを思い出していました。なんだかあの時から喉に刺さり続けていた骨がポロリと抜けたような思いでした。こうして大勢の方々が子どもの誕生を祝ってくださっている光景を見ながら、社会が変わったような嬉しい気持ちに包まれました。

しかし、それと同時にもしあの時、日本支社長が英国人でなく日本人でも同じ判断をしただろうか。そしてまた、あの場に居合わせた顧客の方々も、自分が営業部長の立場だったとしたら、新製品発表会を欠席して妻の出産に立ち会う選択をしただろうかと気になりました。野球のバース選手の時のように「外国人だから」「外資系企業だから」という気持ちがどこかにあったのではないかとも感じたのでした。

時は令和の時代となり、あの日生まれた営業部長のお子さんもとっくに成人を迎え、まもなく三十歳に手が届こうという年齢になりました。数々のハラスメント行為が法律で禁止され、働き方改革で労働環境も変化しています。男性の育休取得が奨励され、介護休業も法律で定められるようになってきました。それでも、今も尚、滅私奉公的な働き方を良しとしているのを見かけることがあります。

今から半世紀近く前、私が高校生だった時には、もしかすると山さんの生き方に疑問を持ったのは私だけなのかと思ったこともありましたが、私はひとりひとりが大切な家族の死や誕生に寄り添い、また看病や育児、介護に積極的に関わることができる社会であって欲しいと願っています。



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