165.明日天気になぁれ

本稿は、2020年9月12日に掲載した記事の再録です

近頃では、数十年に一度といわれるような気象現象が年に何度も起きていますが、気象衛星の映像や降水確率がグラフが映し出されるのを見るたびに、私は自分の人生と共に、天気予報が格段の進化を遂げてきたのだと感じています。

子どもの頃、夕方になると私たちは大きく足を振り上げて、「あ〜した天気になぁれ」と掛け声をかけながら、履いている靴や下駄や草履やを前に放ったものでした。地面に落ちた時、履物が上を向いていたら晴れ、裏返しだと雨、横向きだと曇りという天気占いです。

昭和40年(1965年)前後、幼稚園や小学校の低学年の頃は、学校へは運動靴を履いていったものの、家に帰ってからは、下駄やビーチサンダルのような鼻緒のついた履物を履いて遊んでいる子どもが大勢いました。

私もその中のひとりで、よく「かっこ」で「あ〜した天気になぁぁれ」と下駄飛ばしをやっていました。「かっこ」というのは、北原白秋の童謡「雨」の中にも出てくる子ども用の下駄のことです。


北原白秋作詞
弘田龍太郎作曲

雨がふります 雨がふる
遊びにゆきたし 傘はなし
紅緒の木履(かっこ)も緒が切れた

雨がふります 雨がふる
いやでもお家(うち)で 遊びましょう
千代紙おりましょう 畳みましょう

雨がふります 雨がふる
けんけん小雉子(こきじ)が 今啼いた
小雉子も寒かろ 寂しかろ

雨がふります 雨がふる
お人形寝かせど まだ止(や)まぬ
お線香花火も みな焚(た)いた

雨がふります 雨がふる
昼もふるふる 夜もふる
雨がふります 雨がふる

「かっこ」は、七五三などで着る晴れ着に合わせる華やかな草履とは違って、浴衣を着るときに履くような底が平らな木で出来た子ども用の下駄です。私の「かっこ」にはかかとの部分がくり抜かれて鈴がうめこまれていて、歩くとチリンチリンと音が鳴るようになっていました。

少し脱線してしまいますが、「かっこ」といえば、ある日、母とふたりで小田急線の駅のホームで電車を待っていた時、天気占いをしていたわけでもないのに、何かのはずみで私の「かっこ」が脱げて、コロコロ転がって線路に落ちてしまったことがありました。子ども心にも「これは大変なことになった」と心臓がきゅっとなりました。すると当時はホームに駅員さんが何人もいて、ひとりの駅員さんがただちにマジックハンドの長いのを持ってきてくれました。

ところが、ちょうどその時電車が入ってきて、私は鈴付きの「かっこ」が電車に轢かれてしまうかもしれないとハラハラしました。けれども電車が発車したあと駅員さんに無事に拾ってもらえました。母が恐縮して何度もお詫びを言って深々とお辞儀をしていたことをよく覚えています。あの時ホームに入ってきた小田急線の電車は、チョコレート色をしていました。小田急線の車体がクリーム色で青い線が入るようになったのはそのあとのことだったのでしょうか? 

◇ ◇ ◇

さて、本題の天気予報ですが、北原白秋(1885年(明治18年)- 1942年(昭和17年))の唄に出てくる女の子のように、あの頃は、大人も子どもも一体いつになったら雨がやむのか、よくわかっていませんでした。

作家の井上靖(明治40年(1907年)- 平成3年(1991年))は、著書『幼き日のこと』で台風について次のように書いています。

あらし
 台風の季節は、現在も昔も変らない。夏の終りから秋の初めにかけて、毎年のように、それが約束ででもあるかのように、几帳面にあらしはやって来た。九月にやって来ない時は、十月にやって来た。二百十日とか、二百二十日とかいう言い方で、誰もがそのあらしの訪問を肯定していた。
 今日のように、南方の珊瑚礁のある海域で台風の卵が発生し、それが孵化し、次第に大きくなりながら日本列島をめざして北上して来るといった考え方は、誰も持っていなかった。どうやら空模様も怪しくなり、風の吹き方も尋常でなくなった、この分ではひと荒れ来ずにはおくまいな、大人たちもみなそのような受け取り方をしていた。あらしが天の一画からあちこち見廻し、まだこの地方を忘れていた、よし、ではこの地方を見舞ってやろう、そんな来方で来るように解釈していた。狙われたらおしまいだ、確実にあらしは襲いかかって来る、そんな、どこか襲われることを前提とした諦めに似たものがあった。
 村人は、今日の人たちがラジオにかじりつくように、外に出ては、空を見上げた。雲の動き方、雨の落ち方、風の吹き方で、あらしが狙っているか、いないかを判断した。どうやら、あらしが来そうだとなると、村の人たちは急に忙しく立ち廻った。村全体が表情を変えた。村人たちは田圃を見廻ったり、小川に堤を築いたり、橋が流れないように補強したりしなければならなかった。そうした共同の作業が終ると、こんどはそれぞれの家に帰って、あらゆるものをあらしを迎える体制に切り替えなければならなかった。植木鉢は縁の下や納屋にしまい込まれ、立木にはつっかい棒が当てられ、梯子は片付けられ、筵は舞い上がらないように束にして軒下に縛りつけられた。そうしたことがすべて終ったあとで、男たちは雨戸を釘付けにする作業に取りかかる。どこの家からも釘を打つ音が聞えた。
  私たちは正月以上にあらしを迎える日の村の表情が好きだった。村のどこへ行っても、大人たちのきびきびした動きが感じられた。平生のらくら者で通っている者までが、何となく忙しそうにそこらを動き廻っていた。そうしているうちに薄暮が垂れ込め、村人の期待を裏切らぬために、次第に雨勢は烈しくなってくる。
  小学校へ上がらない前の幼い私にも、あらしを迎える日の異常な緊張は感じ取られた。祖母はあす一日炊事しなくてもいいように炊出しをし、蝋燭の太いのを用意し、甕に水をみたし、それから雨漏りの水滴を受ける器物を二階に運んだ。盥、バケツ、洗面器、手桶、それで足りなくて、どんぶりの器まで南側の窓の板敷きのところに運んだ。土蔵なので、他家のように雨戸が風に持って行かれる心配はなかったが、屋根の方は安心していられなかった。風の当り方によっては瓦はどこへでも飛んで行った。

井上靖『幼き日のこと』新潮文庫 「あらし」より

明治40年(1907年)生まれの井上靖が小学校へ上がる前というのですから、ちょうど元号が明治から大正に変わる、1912、3年くらいのことだと思われます。

◇ ◇ ◇

私の父が昭和の初め頃(1930年前後)に兵隊ごっこをして遊んでいた頃は、敵の弾に当たらないようにみんなで「そっこうしょ、そっこうしょ」と唱えながら逃げたものだと話してくれたことがありました。「そっこうしょ」というのは測候所のことで、正式には「そっこうじょ」と発音するのでしょうが、当時は「そっこうしょ」とも呼んでいたようです。

なぜ「そっこうしょ」なのかといえば、「天気予報は当たらない」と「弾に当たらない」をかけていたのでした。子どもの弾よけのおまじないになってしまうほど、当時の天気予報は当たらないと相場が決まっていたようです。

◇ ◇ ◇

出典をすっかり忘れてしまいましたが、以前興味深い話を何かで読んだことがあります。それは要約すれば次のような内容でした。

日本語の文法には未来形というものがない。誰か人に会うということを表現する場合、「明日、誰それに会う」と現在形を用いる。「明日、誰それに会うでしょう」とは言わない。だから明治時代になって御雇外国人と共に天気予報を始めようとした時、「明日は晴れる」あるいは「明日は雨が降る」という言い方しかなかった。そこで色々と知恵を絞った末、「明日は雨が降るでしょう」や「午後になると、晴れ間が見えるでしょう」という未来形の表現を作った。それまでは長老が空模様や風を読み「これからあらしがくる」といえば、あらしがくるのであったというものでした。

どなたか出典をご存知であれば、是非ともご教示願いたく存じます。

◇ ◇ ◇

日本における天気予報の歴史は、気象庁のサイトによれば、明治4年(1871年)に御雇外人によって気象観測の必要性が謳われ、明治8年(1875年)、現在のホテルオークラのあたりにあった内務省地理寮構内にイギリスやイタリアで購入した器械を据付けて、1日3回の定時気象観測が始めたのが始まりとされています。

日本で最初に発表された天気予報は、明治17年(1884年)の「全国一般風ノ向キハ定リナシ天気ハ変リ易シ但シ雨天勝チ」(全国的に風向きは特に決まらず、天気は変わりやすいですが雨になりがちでしょう)というものでした。日本全国の予想をたった一つの文で表現するもので、東京の派出所などに貼り出されたそうです。

なんだか少しも予報になっていませんが、私自身が子どもの頃の記憶でも「明日は雨が降るでしょう」という予報の翌日に晴れたり、反対に「晴れでしょう」と言っていて雨になったということはいくらでもありました。「天気予報またハズレたね」というのも普通の会話によく出てきました。天気予報とは「当たるも八卦、当たらぬも八卦」の占いと同じように、信用もほどほどにというものでした。

先に引用したように、井上靖はラジオやテレビの天気予報のない時代には、「人々は自ら外に出て、空を見上げながら雲の動き方、雨の落ち方、風の吹き方で、あらしが狙っているか、いないかを判断した」と書いていますが、私が子どもの頃も、よく空を見上げて「夕焼けだから明日は天気になる」とか、「今夜のお月様には傘がかぶっているから明日は雨になる」などと大人たちは皆言っていました。

漁業や農業を生業としてきた人々は特に、暦(こよみ)を基に、風向きや雲の動きを観察する長年の知見と勘を大切にしながら、大自然相手に仕事をしてきました。ですから、長老の経験や知恵は重んじられ、尊敬されていました。

◇ ◇ ◇

アメダスが始まったのは、私が中学三年生の昭和49年(1974年)のことです。アメダス(AMeDAS:Automated Meteorological Data Acquisition System:自動気象データ収集システム)は、国内1,300ヵ所の気象観測所において、降水量、気温、日照時間、風向・風速、それに豪雪地帯においては積雪の深さも観測して、天気予報の精度をアップさせました。

さらにその四年後、昭和53年(1978年)私が大学に入学した年に、気象衛星ひまわりによる観測が始まりました。人工衛星を飛ばして宇宙から地球の雲の映像を送ってくるとは、私は本当にびっくりしました。技術もさることながら、その発想に驚いたのです。

最初の頃は、3時間ごとのフルディスク観測(衛星から見える地球全体の観測)だったそうですが、その後、6時間ごとの観測を余儀なくされるなどの問題を乗り越えながら進化を続け、今日ではほぼリアルタイムの2.5分ごとの映像が手元のスマートフォンでも見ることができるようになっています。

昭和55年(1980年)、私が大学3年生になると、東京では降水確率予報が始まりました。さらに昭和61年(1986年)からは全国の降水確率予報が発表されるようになりました。

気象庁はちょうど100年前の1920年、コンピュータの実用化以前から、6時間予報を1か月以上かけて手計算で行うなど野心的な取組みを行い、私が生まれた年1959年には、米国に次いでコンピュータを導入しました。

その後も5~8年毎に最新のコンピュータに更新し、数値予報モデルの改良を続け予報の精度を上げていきました。初の導入コンピュータから60年の歳月を経て、第一世代の計算機を1としたおよその演算速度は、今や1兆倍を超えたのだそうです。

◇ ◇ ◇

「智恵子は東京に空が無いといふ」、この一節が有名な『智恵子抄』が刊行されたのは昭和16年(1941年)のことでしたが、高層ビルが立ち並ぶ今日、東京で空を見上げて自ら明日の天気を予想することなど、すっかりなくなってしまいました。もちろん子どもが下駄飛ばしすることもありません。

科学技術の発展により、天気予報は当たるかハズレるかというものではなくなりました。一方この一世紀、科学技術は社会における「長老の知恵」の価値を暴落させました。生活の知恵を数多く持つ長老といえど、もはや誰にも風の読み方、雲の見方を尋ねられることもなく、反対にコンピュータやスマホの操作は孫や子どもに教えてもらわなければならなくなってしまいました。私には寂しく感じられる変化です。

大雨警報、台風の進路図を始め、科学技術に支えられた天気予報には日々お世話になっていますが、それでも尚、背負った太鼓を打ち鳴らす怖い雷様におへそをとられないようにと屈み込んでいた稲妻の夕方や、「天気雨は狐の嫁入り」というのだと祖母におしえてもらった不思議な雨降りや、お父さん、お母さん、お兄ちゃん、お姉ちゃんが揃って雲に乗っている「台風一家」はどこへいってしまったのだろうと、空を見上げていたあの頃の日々が懐かしく感じられます。


<再録にあたって>
今年は秋の三連休が2度とも台風の影響を受けて、せっかくの行楽計画が変更になった方も多いようです。ようやく行動制限が解除されて稼ぎ時だと張り切っていた観光業界にとっても大きな痛手でした。近年台風の規模が大きくなりつつあると言われていますが、今後十年、二十年、半世紀後のことを考えて暮らしを見直さなくてはと改めて思います。


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