075.フランスの下宿先

私は子どもの頃からフランスに憧れていて、昭和60年(1985年)8月に、新卒で就職した会社を退職し、1年間滞在する目的でフランスへ向かいました。

パリに着いてから、滞在先は地方都市だったので、大きなスーツケースを持って鉄道の駅へ行き、いくつもあるテーブルの周りに置いてある椅子に腰掛けて列車の到着を待っていると、同じテーブルの七十代くらいの男性が「もしかして日本から来たのかね?」と尋ねてきました。

「はい、そうです」と答えると、目を細めて「ああ、きっとそうだと思った。私は若い頃は船乗りで、横浜や神戸には幾度も行ったことがあるよ」と言いました。彼が二十代、三十代だった頃といえばまだ戦前で、目の前のこの男性は私の知らない日本を知っているのかと思うと不思議な感じがしました。

少し雑談をしたあと彼は私の顔をマジマジと見て、「あなたは芸者のように美しい」と多分褒めて(?)くれました。私はフランスに着いて最初に会話した人物がこの気のいいオジサンでなんだか1年間の滞在がうまくいくような気がしました。

のちになって、恩人のフランス語の男性の先生(061)にこの時の話をしたら、先生は急にドギマギして「いや、彼は決してあなたのことを悪く言ったのではなくて、えー、彼なりに美しさを表現したかったのであって…」と困ったように言い訳をしていたのが懐かしく思い出されます。

◇ ◇ ◇

私の下宿先は日本でフランス語を教えてもらっていたマダム(069)の伯母さんの家でした。その家は、ネオゴチックと呼ばれる様式の19世紀の建物で、彫刻を施した壁に煉瓦が所々に埋め込まれた優美な建物でした。門扉やバルコニーの鉄柵も細かい唐草模様で飾られていました。そもそもその建物のある通りは他の通りと少し違っていて全体が優雅な雰囲気でした。

マダムの伯母さん、というよりも、この家のマダムは、当時六十代の後半ではないかと思われる姿勢の良い小柄な女性で、ムッシュと二人暮らしでした。息子さんは二人とも成人していてパリと南仏に住んでいるという話でした。

数段の階段を上がり、玄関扉を開けてすぐ右手にある広々とした居間は、全体としてクリーム色で、開け放したフランス窓からはお向かいのこれまたネオゴチックの壮麗な建物が見えました。お向かいの家の屋根の上には見事な鷲の彫刻がのっていました。ゆったりとしたソファセットや、エレクトーン、奥には食卓などが置かれていて、プライベートな居間というよりは誰でも気軽に入れるサロンという雰囲気がありました。

小花をあしらった壁紙に覆われた壁には、日本の能面が飾られていました。私は能面には詳しくないのですが、女面、翁面、般若面など何種類もの面がずらりと飾られていました。

玄関を入って左手にある小部屋は、ムッシュのオフィスになっていました。あとになって聞いた話では、ムッシュはいわゆる地方の名士で、一度も勤めに出たことはなく、地域の文化活動が主な仕事だという人物でした。

ある時、今度ピアニストを呼んでコンサートをするんだけど、良かったら一緒に来ないかと誘われて、軽い気持ちで「はい、是非ご一緒させてください」と答えたら、それがリヒテルのコンサートだったということがありました。「二十世紀最大のピアニストのひとり」と異名をとる、あのスヴャトスラフ・リヒテルでした。

私は暢気に会場に行って、良い席に座らせてもらってステージを見ると、ヤマハのピアノが置いてあり、「わ、ヤマハだ」と心の中で思っていたら、登場したのがリヒテルで声を上げそうになりました。ムッシュは、コンサート会場の準備から、リヒテルがヘリコプターで移動してくるあれこれを手配していました。

まさか自分の生涯の内に、リヒテルの生演奏を聴くことができるとは想像もしていなかったので、夢見心地のうちに演奏は終わりました。力強くも清らかな演奏でした。独特の指遣いが印象的でした。

またある時は、近くの体育館に歌手を呼ぶから一緒に来ないかと言われて行ってみると、それがジュリエット・グレコのコンサートだったということもありました。体育館とジュリエット・グレコの組み合わせのチグハグ感にも驚きましたが、これぞシャンソンという迫力ある歌声を目の前で聴くことができました。

ネオゴチック様式の家に住み、リヒテルやグレコを招聘するようなムッシュとマダムでしたが、普段はツギを当てたセーターとスラックスという服装で、地味に暮らしていました。マダムは前屈みにせかせかと歩き、ムッシュは大きなお腹を突き出すようにのんびり歩いていました。この家には、テレビも掃除機もありませんでした。ただおもしろいのは皿洗い機はあって、日本とは必需品が違うのだと感じました。

玄関の突き当たりの手前には、ロココ調の小机が置いてあり、そこは手紙置き場になっていました。私宛の日本からのエアメールもそこに置かれました。そしてその奥に19世紀から踏みしめられた木の階段が優雅な曲線を描いていました。

この家の、日本風に言う二階部分はムッシュとマダムのプライベート空間でした。そして三階部分には部屋が三つありました。私は最初の三ヶ月はそこの一部屋に住まわせてもらい、のちに、別棟にある九部屋ある学生用のアパートに引っ越すことになりました。

十五畳くらいの広い個室の他に、共用のダイニングキッチンと、シャワールームとトイレがありました。各個室にはベッドと机に電気スタンド、それにクローゼットがありました。部屋に入った時最初に目に飛び込んでくるのは大理石の暖炉と、その上に金色の縁取りをした大きな鏡で、まるで貴族の館に住んでいる気分でした。窓は両開きのフランス窓に羽付きの白い鎧戸が付いていました。

一緒に暮らした仲間たちのことは、いずれ稿を改めて書きたいと思います。

ムッシュもマダムも、明るく朗らかな性格で、いつも笑顔を絶やさず私たちに接してくれました。基本的に下宿人に関してはすべてマダムの管轄のようでした。私が熱を出して寝込んでいた時など、ネギとじゃがいものポタージュスープをわざわざ作って運んできてくれたり、日に何度も様子を見に来てくれたりしました。また、マダムは私が日本でフランス語を習っていた姪御さんとは逆に、会話をしていると、文法上の細かな間違いもすべて訂正してくれました。

今はどうだかわかりませんが、1985年当時、フランスの大学進学率は1割程度で、学生はエリートという扱いをされていて、学生アパートの掃除やシーツの取り替えは、毎週水曜日のポルトガル人のメイドさんの仕事でした。この制度は割と一般的らしく、他の家に下宿していた学生も「今日はメイドさんの掃除の日だから、急いで片付けなくちゃ」という笑い話のような会話をよく耳にしました。大抵どこの家のメイドさんもポルトガル人でした。

ムッシュとマダムがある時、週末の家に招待してくれたことがありました。週末の家とは、車で3、40分走ったところにある別荘のことでした。そこは元々、近くにある12世紀に建てられたお城の門番の住まいという建物でした。12世紀といえば「いい国作ろう鎌倉幕府」の頃ですから、牛若丸だの弁慶だのが生きていた時代に建てられた家屋というので、あまりにも時間の感覚が違っていて戸惑いました。

お城自体は、20世紀になって香水で有名になったデザイナーが所有権を取得したということでしたが、色々な怪奇伝説があるということでした。マダムの家はそのお城の門番が暮らしていたという小さな石造りの家でした。しかし小さいといっても日本の住宅環境から言えば広々とした庭付きの二階建ての住宅で、都内で探すのは難しそうな家でした。

ムッシュとマダムは、2CV(ドゥーシュボー)と呼ばれるシトロエンの、ただ走るだけという車で私ともうひとりの友人を乗せて週末の家に着くと、詰め物をした鶏をオーブンに入れ、鶏が焼けるまでの間に庭仕事、薪を割ったり、草取りをしたりして過ごしました。私たちにも、庭の隅に生えている植物を少し摘んで来るように言いました。

オーブンからいい香りが漂い始めたところでお昼になり、庭にテーブルと椅子を出して、そこで丸焼きになった鶏肉やサラダなどをいただき、食後には今摘んだばかりのミントで、menthe à l’eau(マンタロー)と呼ばれるミント水を作ってくれました。マンタローの発音は、日本語の「万太郎」と全く同じです。

なにしろ12世紀の門番の家ですから質素な作りなのですが、すぐ近くを流れる小川のせせらぎと鳥のさえずりを耳にしながら、こんなエレガントな時間の流れに身をおいたのは生まれて初めてというような気分になりました。普段、ムッシュとマダムは土曜の朝から日曜の夕方までこの家で過ごしていました。

お二人の人柄は穏やかで、笑みを絶やさず、常に他者への心配りを優先するようなところがありました。本当によくしてくださいました。

◇ ◇ ◇

2013年の3月、たまたま仕事でフランスに行くことがありました。その時、うまい具合に週末があったので、それを利用して昔住んでいた下宿を訪ねてみようと思い立ちました。毎年交換していたクリスマスカードも、21世紀になってからはすっかり途絶えていましたが、こんな機会でもなければもうあの街を訪ねることもないだろうと感じたのです。

その日はあいにくの雨で、駅を降りてから傘を買い求め、いつのまにできたのか路面電車の線路を横切り、懐かしい街並みを歩きました。その日は3月だというのに真冬のように寒い一日でした。1986年にこの地を去ってから四半世紀以上の年月が経っていました。

角を曲がって、かつての下宿のあった優雅な通りに入ると、天気のせいなのか、心なしか暗い雰囲気がありました。ネオゴチック様式の華麗な建物が近づいてきましたが、どういう訳か建物が息をしていないように感じました。そしてもっと近づいてみると、玄関前には「売り家」という不動産会社の電話番号のはいった看板がかかっていました。

言葉を失い、しばらく茫然と雨の中、ただただ息づかいの途絶えた建物の前に佇んでいましたが、ふと思い直して、学生アパートの建物に目をやると、そこにも同じく「売り家」の看板がかかっていました。

気持ちを整えようと、昔よくいった市場や、オルガンを聴きにいった教会や、食事をしにいった広場や、よく歩いた川沿いの散歩道を歩いてみることにしました。懐かしくも、哀しい風景の中を、冷たい雨に打たれながら小一時間歩き回りました。お菓子屋さんの店頭にはPâques(パック)と呼ばれる復活祭に食べる、卵の形をしたチョコレートが綺麗に飾られていました。 

再び、家の前に戻り、まだ郵便受けにムッシュとマダムの名前があるのを写真に撮りました。そして振り向いた時に、屋根の上に鷲の彫刻があるお向かいの家の中に人影が動くのが見えました。不躾とは思いつつも思い切って呼び鈴を押すと、中からその家のご主人が出てきてくれました。

錆びついたフランス語をどうにか並べて、もう30年近く前にお向かいの家に下宿していた者なのですがと切り出すと、ああ、それはそれはという様子で、家の中に招き入れてくれました。そして奥にいた奥様にも声をかけてくれて、お向かいのご夫妻は、マダムとムッシュの最期の日々について色々と教えてくださいました。

マダムはあの小さな体でいつもエネルギッシュに活動していたと、少し前屈みになって歩くマダムの真似をしながら笑顔になり、数年前のある日、脳溢血のような病で倒れ、直ちに救急車で運ばれたけれども帰らぬ人となったこと、そしてムッシュはそれからしばらくひとりで暮らしていたけれど、昨年亡くなったこと、パリと南仏にいるふたりの息子さんは、もうこの地には戻らないということで、家は売却することになったということなどを教えてくださいました。

最後に名刺をいただくと、肩書きは医師となっていました。帰国してから拙(つたな)い令状をお出ししましたが、それに対しても心のこもった長文の返信をくださいました。ムッシュやマダムと同じ香りのするご夫妻でした。

あまりにも寒い日だったので、途中お店に入って、手袋と揃いのマフラーを買いました。今もクローゼットの中に大切にしまってありますが、それらを見るたびにあのそぼ降る雨の一日が思い出されます。そして、しばらく眺めているうちに、記憶はどんどん遡って、マダムもムッシュも生き生きと活動的に動き回っていたあの時代が蘇ってくるのです。


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