169.図書係バイト

本稿は、2020年10月10日に掲載した記事の再録です

昭和55年(1980年)、大学二年生のある日、同じ学科の友人に誘われて企業内の図書係のアルバイトを始めることになりました。私は、前にも書いたように書店でのアルバイトもしていたし、コンピュータのオペレーターのアルバイトもしていたし、もっと他にもたくさんのアルバイトをしながら学費などを稼いでいました。

今回のアルバイトの時給は450円で、当時ファストフード店のアルバイトの時給が380円の頃としては、まあそこそこといったところでした。けれども、このアルバイトの魅力はなんといっても、自分の行きたい時に行って、好きなだけ働いてよいという、圧倒的な自由さでした。もちろん二つ返事で引き受けました。

私の友人も前から同じ会社でアルバイトをしていて、雰囲気もいいし、楽しいところだと思っていたところ、社員の人から誰か図書係をしてくれる人いないかなと聞かれたので、私を紹介してくれることになったのでした。

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図書係の仕事内容は、企業内にある小さな図書スペースを管理することで、週刊、月刊、季刊、年間で発行される、業界紙や雑誌、それに寄贈本などにラベルを貼り、台帳に記入し、書架を整えるというのが主な職務でした。その会社は大規模なダムや橋梁を作っている建設関係の仕事をしていたので、「月刊土木」など無骨な雑誌や書籍が多い書棚でした。

また、頻繁に変わる建設省(今の国土交通省)関係の法令や業界内でのルール変更の情報、それに土木学会の関係書類が薄い冊子で送られてくるので、大元の分厚い法律等関係書類の黒い綴じ紐も解いて、そこに追加して再び綴り紐を結ぶという仕事もありました。

いずれも緊急性はなく、週に一度くらい授業の合間や放課後にふらりと寄って、やってくれればいいというものでした。

それでも、週に一度行ったところで、数冊の雑誌と薄い冊子が数枚送られてきているだけなので、どんなに丁寧に仕事をしても30分足らずで仕事は終わってしまうのでした。それでは時給の450円も貰えないということになってしまいますが、会社はもちろんそんなことは折り込み済みで、図書係の仕事が終わったら「バイト机」に行って、何か仕事をすればいいよと言ってもらえたのでした。

バイト机というのは、畳二畳分くらいの大きな机で、そこにはいつも4人から8人程度のアルバイトの学生がいて、さまざまな作業をしていました。私の友人もそのバイト机の一員でした。多くの学生アルバイトは誰か決まった社員のアシスタント業務をしていましたが、私は図書係だったので、役目が終わるとバイト机に行って「何かお手伝いすることはありませんか」と声をかけると大抵の場合、この作業を手伝って欲しいという声が上がるのでした。

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具体的にどんな作業があったかというと、たとえば東京23区の区ごとの白地図に、下水道が敷かれた部分だけを色鉛筆で色塗りをするという作業がありました。下水道にも専門的には何種類かあるようで、その種類ごとに色を変えて道路の色塗りをしていくのでした。私は杉並区の白地図に色を塗りました。

平成生まれの人たちの中には、下水道が敷設されていく時代を知らない人もいるでしょうが、私が小学生の頃などは、東京郊外の私の家の近くでは、毎日のようにバキュームカーが走っているのを見かけました。下水道が整備されていなくて、汲み取り式のトイレがまだまだたくさん残っていたからです。

高校の通学路は、市役所の前の駐車場を横切って市役所の正面玄関を通るというのが一番の近道だったのですが、その正面玄関の真ん前に、人が屈んで通れるくらいの大きな下水の土管が置いてあり、正面玄関の上には大きな文字で「のばせ下水道」という標語が掲げられていました。

ドラえもんやのび太たちが遊んでいた空き地にも土管が積んでありましたが、それは日本中どこにでも見られた光景でした。

東京都下水道局による下水道の普及率の推移を見ると、私がアルバイトをしていた昭和55年(1980年)の東京23区の普及率は74%、多摩地区の普及率は47%であったことがわかります。平成2年(1990年)でも都区内は93%、多摩地区で78%でした。

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もう一例を挙げると、タイ王国の年ごとの降水量をグラフにしたこともありました。タイにダムを建設するため、そのもととなる資料でした。あの頃は表計算ソフトどころかPCもありませんでしたから、方眼紙と定規でグラフ化していきました。先の細いシャープペンシルで正確に点を打ち、間違えたら消しゴムで消しながらの細かい作業でした。

1980年頃、日本は世界中の開発途上国にダムや橋などの大規模な建造物など様々な形で援助を行なっていました。外務省のODAサイトによれば、「開発協力とは,『開発途上地域の開発を主たる目的とする政府及び政府関係機関による国際協力活動』のことで,そのための公的資金をODA(Official Development Assistance(政府開発援助))といいます」と書かれています。

また同じく外務省の「世界の平和と繁栄とための日本の政府開発援助」というパンフレットには、ODAの歴史について次のように記されています。

1954年に開始されたODAは当初、アジア諸国との友好関係を再構築し、冷戦構造下の自由主義陣営を強化するとともに、日本の輸出を振興する役割を担いました。その後、高度経済成長期を迎えて、ODAは量的に拡大し、 広汎な分野・地域をカバーするようになりました。1970年代の石油危機に際しては、構造調整融資が世界の潮流となる中、敢えてプロジェクト支援を並行して継続し、「東アジアの奇跡」と呼ばれるめざましい経済発展に貢献しました。1990年代に入ると、冷戦構造が崩壊するとともに、環境等の地球規模の課題に焦点が当たるようになり、このような状況を背景として、1992年6月にODA大綱が策定されました。
(第1部 SUMMARYより抜粋)

ちょうど私がアルバイトをしていた1980年頃は、1978年に日本がODAを3年間で倍増を目指すとの第1次中期目標を策定し、当時の福田総理大臣によってボン・サミットで表明されたばかりでした。日本のODAは1970年代末から1980年代を通じて大幅に拡大し、1983年には西ドイツを抜いて3位になり、1986年にはフランスを抜いて2位になりました(1位は米国)。当時は、日本のODAは東南アジアの人々のためというより、腐敗政権下の幹部の私服を肥やす助けをしているなどと批判されることもありました。

ある日、シャープペンシルの芯がなくなってしまったので、替え芯をもらいに社員の人のデスクへ行った時、社員の人がデスクの引き出しを開けると、9HからHBを中央に9Bまで、ずらりと先の尖った鉛筆が並んでいて、流石に設計図を描く人の引き出しは違うと心の中で感嘆の声をあげたことをよく覚えています。社員の多くは一級建築士などの国家資格を持った専門職ばかりのようでした。

私たちのバイト机はオフィスの隅っこの方にあって、少々の声では社員の邪魔にならないことをいいことに、他の大学との情報交換や、昨日見たテレビ番組の話や、もちろんみんなの恋バナの行方について語り合いながら、色塗りしたり、グラフ作りをしたり様々な作業をしていました。

大学二年生の時から始めたオフィスコンピュータのオペレーターの職場はすぐ隣の駅だったので、平日は学校周辺で、授業と、オフコンバイトと、図書係バイトをうまいこと組み合わせてせっせと働いていました。当時は教授の都合で休講になっても振替授業などはなかったので、学校にきて休講の貼り紙がしてあると、わーいと喜んで、たちまち図書係バイトに出かけていったものでした。

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そんなある日、図書係の仕事が終わると、社員の人から「今日もし時間があるなら、この設計図を栃木県佐野市の会社まで届けてくれないか」と言われたことがありました。その日は午後には授業もオフコンバイトも地元の駅前本屋さんのアルバイトもなかったので引き受けました。設計図は、直径7、8センチで長さが1メートル以上もある細長い筒に入れられていました。

現在なら翌朝には届く宅配便で送るか、そもそもメールで送受信するだろうと思われますが、当時は急ぎの書類などは物理的に運ぶしかなかったのだと思います。私は上野から宇都宮線の四人がけのボックス席にひとり座って、行きも帰りも持っていた文庫本を読み耽っていて、これでアルバイト代をもらえるなんて、なんてラッキーなんだろうとホクホクしていました。

夕方戻ってきて、担当の社員に無事にお渡したことを報告すると、「そう言えば社内規定で何キロ以上の出張には、確か出張手当が出たような…」とつぶやいて、わざわざ一緒に経理部に連れていってくれて、当時の金額で四千円程いただいたことがありました。

これに味をしめて、それからも出張に行きたいと願い続けていましたが、残念ながら大学を卒業するまでもう二度と出張はありませんでした。毎回、今日も出張はなかったとがっかりし続けていました。あんまりいい思いをするのも考えものです。

◇ ◇ ◇

このアルバイトも他のアルバイトと同じように、大学を卒業するまで続けました。夏休みも冬休みも週に一度程度は通わなくてはなりませんでしたが、普段、休講などの時に喫茶店で時間をつぶすより、ずっと楽しくて実入りになるアルバイトでした。

卒業後、バブル経済が膨らみ、そしてはじけ、社会情勢はどんどんと変化していきました。学生アルバイトができるような宛名書きや袋詰めなどの単純作業はいつのまにか社会から消えていきました。ODAのあり方も大きく様変わりしました。お届け物出張などもあり得ない時代になりました。

文科系学生だった私には、まったく知らない世界を垣間見ることもでき、楽しいアルバイトでした。もしも今もあるならば、バイト机に行って、工作をしたり、一覧表を作りながら、あの時のメンバーでおしゃべりができたならどんなに楽しいことだろうと思ってしまいます。


<再録にあたって>
私の学生時代のアルバイトの定番と言えば、デパートのお中元・お歳暮の配達センターでの仕事がありました。私自身はやったことはありませんでしたが、周囲には配送センターで出逢い、交際、結婚までいったカップルが何組もいました。また、家庭教師のアルバイトをやっていた友人も多く、近所のスーパーの地元交流コーナーで募集の貼り紙をよく見かけました。今では宅配便、大手学習塾に市場は席巻され、学生アルバイトもすっかり変わりました。


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