268.サントリーホール

子どもの頃、大きくなったらバレリーナかピアニストになるのが夢でした。しかし、見事に努力と才能が足りませんでした。それでも夢見てから60年以上経った今でも、お気に入りのバレエ団が来日したり、好きなピアニストが演奏するとなれば、いそいそと出かけて参ります。

出かける先は、バレエなら東京文化会館、オーチャードホール、新国立劇場。コンサートなら、サントリーホール、東京芸術劇場、東京オペラシティ、NHKホーム、それに、ミューザ川崎、横浜みなとみらいホール、所沢ミューズなどの近県へも足を伸ばします。先行予約の資格を得るために、有料無料問わずにあちこちのホールの会員にもなっています。

それでも、これまでに一番足を運んだホールは? と問われれば、それはなんと言ってもサントリーホールです。

サントリーホールは、1986年(昭和61年)10月12日に赤坂アークヒルズの一画にできたクラシック音楽専門の音楽ホールです。今では六本木ヒルズ、表参道ヒルズ、麻布台ヒルズなどヒルズと名のつく施設があちこちにありますが、ARK HILLS、つまり「A」赤坂と「R」六本木を「K」つなぐ(knotは結ぶという意味)ヒルズシリーズの先駆けで、オフィスタワーにホテルやテレビ局、それにコンサートホールまで併設された新しい概念が大いに話題になりました。

この頃、私は一年間フランスに住むという夢を実現させて日本に帰国したばかりでした。お金も使い果たし、仕事探しもこれからという状態で、とてもコンサートに行ったりする余裕はありませんでしたが、それでも、できたばかりのサントリーホールのことはテレビや新聞で知り、いつか行ってみたいと憧れました。

なぜなら、サントリーホールというのは、これまでの厚生年金ホールや日比谷公会堂のようなホールとは違って、舞台の後ろ側にも座席があり、舞台が座席に囲まれるようになっていると紹介されていたのです。しかも、あのカラヤンのアドバイスに基づいて作られたベルリンフィルのコンサートホールを参考にして建てられたそうで、有り難さが増すように思いました。

さらに、コンサートホールには見たこともないような巨大なパイプオルガンも設置されているということでした。お金のない私は、無料ランチタイムコンサートがあると知って、パイプオルガンの演奏だけでも聴きに行けたらどんなにいいかしらと思いを募らせていました。

しかし私はなかなか職が決まらず、アルバイトのような仕事を転々とし、38通の不採用通知を手にするという有様で(119. ‘80年代の再就職活動)、将来の展望もないままに派遣会社に登録し、コンサートどころではありませんでした。

◇ ◇ ◇

あの頃、サントリーという会社は不思議な光を放っていたように思います。1983年に塩沢茂著の『ドキュメント サントリー宣伝部』という本が日本経済新聞社より出版されていますが、この本の帯には「光る広告を生む光った集団」という文字が踊り、サブコピーとして「ここでは「自由」「挑戦」「決断」といったことばが、常に新鮮な響きをもって生きている。」とあります。

1980年代前半のサントリーの広告、宣伝、広報には目を見張るものがありました。松田聖子のSWEET MEMORIES をバッグにペンギンのキャラクターが唄うサントリービールのCMが放映されたのは1983年のことでした。中高校生がこのペンギングッズを手に入れたいとビールを購入することが問題視され、CM放映を中止にしたほど、サントリーの宣伝は社会に大きな影響を及ぼしていました。

そのサントリーが、新しくできるアークヒルズ にクラシック専門のコンサートホールを作ったというのも大きな話題でした。広報・宣伝も卓越したものでした。

そもそもアークヒルズ自体も、赤坂、六本木という都会のど真ん中に、これまでにはない都市再開発事業として人々の耳目を集めていました。日本経済のバブルが膨らんでいくこの時期、古くからの住宅地をどんどん取り壊してオフィスビルや高層マンションを建設し、そこに全日空ホテル、テレビ朝日、それにサントリーホールを併設する複合施設というのは、かつて見たこともない大事業でした。

あの頃、ホテルと言ったら、「帝国ホテル」「ホテルオークラ」「ホテルニューオータニ」が日本のホテルの御三家と考えられていましたが、そこに航空会社系列の「全日空ホテル」がアークヒルズにできたのでした。

さらに、テレビ局まで移ってきたのにはびっくりしました。今では六本木ヒルズになってしまった場所に、かつてはテレビ朝日の旧社屋がありました。今なお、「テレ朝通り」という名称が残っているあの辺りです。現在は「報道ステーション」という名称に変更されましたが、「ニュースステーション」が始まったのは、サントリーホールが完成するほぼ一年前の1985年10月7日のことでした。なんとそのテレビ朝日のニューススタジオがアークヒルズにやってきたのです。

余談ですが、ずっと時間が経った80年代の終わり頃、サントリーホールの開演待ちでアークヒルズの喫茶店でひとりで本を読んでいると、放送前の小宮悦子が入ってきたことがありました。テレビでニュースを読むのと同じ声で同席の人たちとおしゃべりしていました。

ついでに言えば、全日空ホテルのカスケードもサントリーホールへ行く時に友人知人と待ち合わせしたり、食事をしたりと何度も通いました。友人の中には全日空ホテルで結婚式を挙げた子もいて参列したこともありました。

そういえば、アークヒルズに「ル・マエストロ」という名の高級フランス料理店がありました。注文できるかどうか不安なほど高級そうなレストランでした。私は会社の同僚と相談して、今度夏のボーナスが出たら意を決して行ってみようと計画して実際に出かけたことがありました。

フランス帰りの私は、ビストロのようなフランス料理は大好物でしたが、ソムリエがいるような高級フランス料理店には数えるほどしか行ったことがなく、同僚と二人緊張しました。しかし接客のプロフェッショナルは居心地の良い雰囲気を作り出してくれて、すっかり寛いだ私たち二人は、デザートワゴンが運ばれてきた時に「全種類お願いします」と言ったことをよく覚えています。

今、こうやって書いていると、あの頃の光景が目の前に拡がっていくようで、懐かしさに胸が苦しくなるほどです。あの頃はまだサントリーホール前の噴水広場には「カラヤン広場」などと名はつけられていませんでした。80年代から90年代にかけてのアークヒルズには、青春の思い出がたくさん散らばっています。

◇ ◇ ◇

さて時を戻して、私もようやく再就職が決まり、好きなピアノを聴きにいよいよサントリーホールに通い始めた頃のことを思い出すと、これまた煌めく記憶が次々に溢れ出てきます。

サントリーホールは、開場する時、エントランスの扉の上のカラクリ人形がチャイムに合わせて出てきます。私はよくこのカラクリ人形を見たいと早々にホール前に立って待っていたことを思い出します。冬は寒空の下で震えながら待ちました。夏はまだ日が残っているうちにカラクリ人形が出てきました。

係員がタキシードを着ていて、床に真っ赤な絨毯が敷かれていて、サントリーホールとは、なるほど特別なコンサートだということがわかりました。今では珍しくなくなりましたが、フォワイエにはシャンパンやコーヒー飲むコーナーがあって私は驚きました、輝くシャンデリアの下で、人々が飲み物片手に談笑する姿はまるでヨーロッパの劇場のようだと感じました。

実際に大ホールに足を踏み入れると、美しい真っ赤な座席が舞台を取り囲むように配置され、パイプオルガンが輝いていました。天井から吊り下げられている反響版まで美しくうっとりするほどでした、私は、サントリーホールを自分の生活の一部にしたいと思いました。そこで、定期公演の会員になって毎月一度はサントリーホールに足を運ぶことにしたのです。

会社の同僚と話すうちに、クラシック音楽の愛好家がいることがわかったので、数人で毎月一度の、確か木曜日の読売交響楽団の定期会員になりました。N響はなんだか知らない曲ばっかりだったので読響を選んだように記憶しています。

その日は仕事を無理矢理にでも早く終わらせて、日比谷線の神谷町の駅から山越えをするような気分で、開演時間に間に合うように必死で坂道を駆け上がり、階段を駆け降りてサントリーホールに向かいました。あの頃はまだ南北線の六本木一丁目駅はもちろん、溜池山王駅もできていませんでした。アークヒルズの裏手にはまだまだ一般の住宅もたくさん残っていました。

今は麻布台ヒルズになってしまった辺りも、実に普通の民家がたくさんありました。大通りから一本路地に入れば、民家と民家の間の垣根には、愛らしい子ども用の長靴が洗われて逆さになって干されているのも見かけました。

当時、私はクラシックコンサートにもロックコンサートにも大体同じくらいの回数行っていたと思います。マイケル・ジャクソンを観に東京ドームへ行ったのもこの頃でした。それでも定期会員になると、毎月、入口でコンサートのちらしをもらえるので定期公演以外にも興味のあるピアニストやオーケストラにも通うようになっていきました。もちろん好きなバレエにもせっせと足を運びました。

よく犯罪者が逮捕された時に「遊ぶ金欲しさの犯行」などと言われますが、私も何のために働いているかといえば、それこそ「遊ぶ金欲しさ」でした。

定期公演で知らない曲を聴いたり、CDで大好きな曲を別の演奏家で聴いたりと、少しずつ知識が増えていくのも楽しいことでした。最初の頃はクラシック音楽などバレエ音楽しか知りませんでしたが、自分がどういう作曲家やジャンルが好きなのかが次第にわかってきました。

◇ ◇ ◇

この30年余りの歳月の中で、私はサントリーホールにおいて数多くの忘れられない経験をしてきました。音楽というのは、直接感性に触れてくるような感じがあって、「生まれてきて良かった」と感じたことが何度かありました。

その演奏家との一期一会の出逢いとも言うべき感動がありました。演奏家の音楽への献身、ひたむきさが伝わってきて、その時の私の心情と響き合うことがありました。作家も歳を取ればいい作品が書けるというわけではなく、デビュー作がどの作品よりも魅力的な作家もいます。同じように若手演奏家の演奏に心を鷲掴みにされたことも一度や二度ではありません。

もちろん、巨匠と呼ばれるような指揮者やピアニストの演奏に圧倒されたこともありました。例えば、私が初めて自らピアノを演奏しながらオーケストラの指揮をするという「弾き振り」を見た、ダニエル・バレンボイムには度肝を抜かれました。一体何度カーテンコールがあったのか数え切れないくらいでしたが、ロックコンサート以上の熱狂を感じました。

1980年のショパンコンクールで、ピアニストの一人が本選へ進めなかったことに抗議して、審査員のアルゲリッチが「彼こそ天才です」とその場を立ち去り辞任するという騒ぎがありましたが、その時の張本人イーヴォ・ポゴレリチの来日リサイタルでは、いつまで経ってもカラクリ人形は現れず、観客はずーっと外で待たされ続けたことがありました。

その翌年だか、その翌々年だかの彼のリサイタルでは、おそらく観客からの抗議があったと思われ、建物の中には入れてもらえましたが、フォワイエから大ホール内には入れてもらえず、我々観客はずっと大ホールへの扉の前で立ち尽くしていたことがありました。

ところがさらにその何年か後には、なぜかポロンポロンとピアノの音が聴こえてくる大ホールには入れてもらえたものの、なんと舞台に目をやると、普段着のポゴレリチが毛糸の帽子をかぶったままリハーサルを続けていました。ちなみに未だにこの普段着リハーサルは続いていて、来年年明けの来日公演でもその姿が見られるかもしれないと楽しみにしています。

◇ ◇ ◇

数多くのアーティスト、オーケストラ、作曲家などの音楽に触れて、素晴らしかったコンサートをひとつを選ぶことなどは到底できないのですが、それでも決して忘れられないコンサートというのはあります。私にとってそれは、1996年10月のクラウディオ・アバド指揮、ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団演奏のマーラー交響曲第2番「復活」の演奏会です。

このコンサートは、「ソニー創立50周年・サントリーホール10周年記念フェスティバル公演」と銘打ったコンサートでした。音楽マネジメント会社 KAJIMOTOのサイトによれば、1996年にサントリーホールでの「復活」の入ったプログラムBは、10月17日(木)と20日(日)の2回ありました。

もうチケットの半券は手元に残ってはいませんが、私は仕事帰りにサントリーホールへ行った記憶があるので、私が観に行ったのは、1996年10月17日(木)の1回目の公演だったと思われます。

アバドのベルリン・フィルは、来日公演に先駆けて発売されたベートーヴェンの交響曲「第九」のCDを聴いて、一度でいいから世界最高峰と言われる彼らの演奏を生で演奏を聴いてみたいと願い、一体どうやったらこの人気絶大のコンサートチケットを手に入れられるかと悩みに悩んだものでした。

音楽業界の知人にコネでなんとかならないかと聞いてみても、「色々と当たってみたけれど、アバド+ベルリンだけはどうにもならなかったよ」と言われてしまいました。

チケット発売日当日、私は職場のホワイトボードの行き先に「一階の公衆電話」と書き込んで、小銭を山ほど握りしめて、一般電話より繋がりやすいという噂の公衆電話でチケットぴあに電話をかけ続けました。しかしほぼ午前中、職場放棄して2台の公衆電話を独り占めしてかけ続けた電話がようやくつながった時には、チケットはすべて完売していました。予想していたとはいえ残念無念でした。

ところが、ふと、クレジットカードのチケット枠が頭に浮かびました。フランスに行く前に当時のフランス人の先生にフランスに行くならクレジットカードは必須だと言われ(161. 銀行とカード)、同じカードを作るなら海外旅行保険も付いているゴールドカードを作ることにしました。ゴールドカードを契約すると、毎月情報誌が送られてくるのですが、そこに確かチケットコーナーがありました。

発売日に電話をかけてみると、驚いたことにあっさりとチケットが買えました。まさか本当にプラチナチケットが手に入るとは信じられませんでした。座席は、忘れもしないRCブロックの一角でした。舞台を向かって右上から見下ろす席でした。夢のようでした。さすがにクレジットカード会社は良い席を持っているのだと思いました。

マーラーの交響曲といえば第5番の第4楽章「アダージェット」がよく知られています。ルキノ・ヴィスコンティの映画「ベニスに死す」では、この曲が主役だったかと思うほど有名な一曲です。あの時代、一種のマーラーブームがあったと思いますが、当時私はマーラーといえばこの曲くらいしか知りませんでした。

マーラーの交響曲2番は「復活」という名がついています。私は聴いたことがなかったので図書館に行ってCDを借りてきて予習をしました。あまり同じCDを何度も聴くと、その演奏が自分のスタンダードになってしまいそうなので、ほどほどに聴くよう心がけ、ライナーノーツを読んで基礎知識を仕入れ、万全の準備をしてコンサート当日を迎えました。

当日、仕事の段取りも万全に整え、定刻通りに職場を出て通い慣れたサントリーホールに向かいました。コンサートはいつもワクワクしますが、その日はいつもより特別感が漂っていました。コンサートホール全体が高揚感に包まれていたようでした。私も周囲の人を眺めながら、この人たちは一体どうやってチケットを手に入れたのだろうかと思いました。私を含め特別にラッキーな人々でした。

「復活」は、ベートーヴェンの第九と同じように合唱付きの交響曲です。舞台の後ろ側の座席、Pブロックには、スウェーデン放送合唱団とエリック・エリクソン合唱団が並びました。合唱団まで来日するのかとますます期待が高まりました。

舞台には、世界にその名を轟かせるベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の面々が揃い、いよいよ指揮者のクラウディオ・アバドが登場です。万雷の拍手に迎えられたアバドは落ち着いた様子でした。

低音からマーラーらしい曲が始まりました。誰もが一音も聴き漏らすまいと耳を澄ませているのがよくわかりました。

ところが、しばらくすると、私の左手から「寝息」が聞こえてきたのです。それは決して「いびき」ではなく「寝息」なのですが、スースーというか、クークーという「寝息」が次第に大きくなっているのです。覗き込むようにして左手を見ると、私の隣の隣の席の男性が首を傾けて眠っているのが見えました。

グレーのスーツをきた会社員という風情でした。私は迷いました。このままクレッシェンドのついた「寝息」をBGMに「復活」を聴き続けるのか、それともなんらかのアクションを起こすべきなのか。周りの大人たちはこのままで良いのか。私は高速で考えを巡らせたあと、意を決して左手を伸ばし、その男性の右の膝小僧にそっと手を置いてほんの少しだけ揺り動かし、その手を引っ込めました。

するとその男性は「寝息」を止めて目を覚まし、少し辺りを見渡すと、姿勢を正して演奏に耳を傾けました。せっかくプラチナチケットを手に入れて来たのだから、その男性のためにも私の行動は間違っていなかったのだ、と心の中で自分を正当化し、私も演奏に集中しようとしました。

しかし、その男性は誰に膝小僧を触られたのか気になっているのではないか、私の左隣の方に無実の罪(?)を押し付けてしまったのではないかという思いがあとからあとから湧いてきてしまいました。いやいや、今はとにかく演奏に集中するのだと自分に言い聞かせて舞台のアバドに視線を向けました。

一旦途切れた集中を元に戻すには時間がかかりましたが、凄みのある演奏は再び私の心をとらえました。しかし、あれは何楽章の時だったでしょうか。

マーラーらしくオーケストラの大音響が鳴り響いたかと思えば、ほとんどの音が聴こえなくなるほどの静寂になりました。その時です。大ホールに携帯電話の呼び出し音が響き渡りました。大音響の演奏時ならあそこまで響かなかったのかもしれませんが、ちょうど曲がもっとも静かになったタイミングでした。

携帯電話の音はしばらくの間、鳴り響いていました。一階席だったろうと思います。サントリーホールはわずかな咳払いでも最高の音響効果でよく響くように設計されていますが、携帯電話の呼び出し音はあらゆる楽器の音色を凌駕する音で鳴り続けました。あの日会場にいた人は、全員が血の気が引くような思いをしたことでしょう。早く電源を切って欲しいと誰もが思ったことでしょう。

ようやく呼び出し音が止まりました。アバドはその間も淡々と演奏続けました。

1996年の携帯電話の普及率は、様々な統計を見ても20%未満でした(140. ケータイの前と後)。今日多くのコンサートホールに設置されている通信機能抑制装置などない時代でした。

私は日本人として、アバドやベルリンフィルのメンバーに申し訳ない思いで一杯になりました。そしてこの記念コンサートを準備してこられたソニーやサントリーの関係者の皆さま方が気の毒で仕方がないと思いました。

携帯電話の持ち主に対しては、コンサートホールにおける最大級の過失とは言え、それは私だったかもしれないと思うと責める気持ちにはなれませんでした。私自身が職場から黒い棒状の携帯電話を貸与されたのは、この日からひと月余り経った12月のことでした。あの頃はまだ誰もが携帯電話に慣れていませんでした。

演奏は素晴らしいものでした。中でも、私は第五楽章の合唱に心打たれました。これまでに、あれほど透明感のある合唱を聴いたことはありません。忘れられない歌声でした。今もあの合唱を思い出すと、幸福感に包まれます。

忘れられないコンサートを一つだけと問われれば、このアバド+ベルリンフィルの「復活」を挙げずにはいられません。あのチケットを手に入れるまでのドキドキ感、コンサートの予習をしている時の高揚感、「寝息」事件。それを吹き飛ばすほどの「携帯電話」事件。そして「携帯電話」事件などなかったかのような美しい演奏と合唱。本当に盛りだくさんで忘れることのできないコンサートでした。

◇ ◇ ◇

今ではおそらく平均すれば、年に数回ほどサントリーホールへ出かけています。

時々、何を基準にコンサートを選ぶのかと訊かれることがありますが、私はピアノ協奏曲が好きなので、好きなピアニストや著名なピアニストの来日公演、またデビューしたての若手のピアニストの演奏を中心にチケットを購入しています。

私のお気に入りの席は、ピアノ単独のリサイタルならば舞台裏のP席。ピアノの鍵盤がよく見える席を狙います。あるいは、ピアノの鍵盤を真後ろから見ることのできる舞台左手の席もよく購入します。オーケストラが入る協奏曲の時は、座席後方のこれまた鍵盤の見える席を狙います。理由はいずれも値段が安いからです。値段の高い良い席で1回見るより、値段の安い席で数多く行きたいからです。

歌舞伎でも「成駒屋」とか「澤瀉屋(おもだかや)」などと掛け声をかけるのは、舞台から最も遠い「大向こう」のご贔屓さんと相場が決まっているので、私もサントリーホールの大向こうでピアノ協奏曲を聴くようにしています。

最近ではサントリーホールへのアクセスも格段に良くなりました。地下鉄の駅が遠すぎて、渋谷ー新橋間の都バスに並んでいた時代は遠い昔になりました。

クラウディオ・アバドも、サントリーの佐治敬三氏も、ソニーの大賀典雄氏も、皆、亡くなりました。時代はどんどん移り変わっていきます。

先日、6年ぶりに浜松国際ピアノコンクールの本選を聴きに行ってきました。次々に若いピアニストが登場し、彼らが世界に羽ばたいていく姿を見てきました。彼らの演奏を今度はサントリーホールで聴きたいと思います。


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