257.モロッコ旅行

本稿は、2021年9月4日に掲載した記事の再録です。
前回は四回に分けましたが、今回は一挙公開です。

ノルマンディに向かう列車のコンパートメントは8人掛けで、パリを出た時には満席でしたが、ひとり降り、ふたり降りしていくうちに、遂に窓際の男性と私の二人だけになったことがありました。1992年の冬のことでした。

なんとなくお互いに視線を交わし目礼をしたところで、その男性にどこから来たのかと尋ねられたので日本からだと答えました。すると彼は自分はモロッコからだ。でももう長いことノルマンディで暮らしていると言いました。

私がモロッコには数年前に旅行で行ったことがあると言うと、身を乗り出してどこの町に行ったのかと質問してきました。

カサブランカ、マラケシュ、フェズと答え、人々が親切だったこと、食べ物がおいしかったこと、忘れられない数々の思い出があると伝えると、彼は嬉しそうに笑顔で大きくうなずきました。


1. カサブランカへ

1987年9月、34年前のちょうど今頃、私はモロッコへひとり出かけました。28歳になったばかりでした。

一年間フランスで暮らしてみたいと、1985年から86年にかけてフランスの地方都市に滞在した後、帰国して東京で再就職活動をしましたが、ほぼ丸一年間、アルバイトのような職を転々としました。自分のやりたい仕事はそう簡単には見つかりませんでした。

今となれば自分を見つめ直す良い時間だったと言えますが、あの頃は38通の不採用通知を前に、自信を失い、これからどうやって生きていこうかと途方に暮れていました。フランス系企業だけでなく、もう少し視野を広げて履歴書を送っていたそんなある日、ようやく希望していた外資系企業に採用が決まりました。昔から憧れていた会社でした。本当に嬉しいことでした。

しかしながら、フランス語を使って仕事をしたいという私の切なる願いは叶わず、その会社は英語で業務が行われていました。当時の私の英語力は箸にも棒にもかからないレベルでしたが、奇跡的に英語での面接試験にも合格しました。

フランス語を使っての仕事探しを諦めるというのは、当時の私にとっては無念の一言でしたが、38通の不採用通知という現実を前に、10月から新しい会社で働くことに決めました。でもその前に、もう一度フランスへ行って、子どもの頃から憧れ続けていたフランスの空気を胸一杯に吸い込んでみたいと思ったのです。

◇ ◇ ◇

パリに着いて早速街を歩いていると、ふと旅行会社のポスターが目に飛び込んできました。「モロッコ往復航空券大特価」と書かれていました。

モロッコ…!? 北アフリカの西にある最果ての国、モロッコ。

何もかもをリセットして、新しい人生の門出にふさわしい旅先だと感じました。そこで旅行社に飛び込んで、翌日のカサブランカ行きの航空券を購入しました。本当に国内旅行よりも安いと感じました。その足でモロッコ観光局に行って地図やパンフレットをもらってきました。自分でも思いがけない行動でした。

モロッコはフランスの植民地だったためフランス語が第二言語として使われており、フランス人にとっては夏休みの家族旅行などで気軽に出掛けられる治安の良い地中海リゾートとして知られていました。

2. 機内の留学生

翌日の昼下がり、スーツケースはパリのホテルにそのまま預けて、ボストンバッグに小さなリュックでオルリー空港へ向かいました。オルリー空港はこじんまりとした空港でしたが、どういうわけか人が溢れていました。列もなく人々が出国手続きの窓口に殺到していました。私も一緒になってパスポートを振ってシルブップレと叫び、ようやく搭乗口へたどり着きました。

そこで我にかえり、そうだ今夜のホテルを予約しておこうと思い、観光局でもらったホテルリストを頼りに、搭乗口の公衆電話から予約の電話を入れました。カサブランカがどんなところかわからないので、とりあえずリストの一番上にあった四つ星デラックスの高級ホテルを一泊予約しました。それでも日本円で一万円はしませんでした。

エールフランスの搭乗券には座席番号はなく、国内線扱いで好きな席に座るように言われました。機内はガランとしていて、空港のあの大混雑の理由はますます不明でした。座席の一割ほどしか乗客はいないようで、なるほどこれなら往復チケットも大安売りだと思いました。そこで、窓際に席を取って、観光局からもらったパンフレットを見てのんびり旅行の計画でも立てることにしました。

すると、ほとんどの座席が空席だというのに、私の隣に一人のモロッコ人の青年がやってきて、ちゃっかり座り込みました。私は内心戸惑いましたが彼は意気揚々と自己紹介を始めました。正直にいえば私にとっては迷惑でしたが、うまくかわすことが出来ずそのまま話をすることになってしまいました。

彼は自分は怪しいものではないといい、パリの誰もが知っている有名大学校の顔写真入りの学生証を見せてくれました。彼は留学中の一時帰国なのだと言いました。日本が戦後、驚異の経済成長を遂げ、今や円高を強いたプラザ合意にもかかわらず米国や欧州諸国と貿易摩擦を引き起こしていることなどを語りました。

未だにフジヤマ・ゲイシャ・ハラキリというイメージを持っている外国人も多い中、彼はさすがに有名校に通う学生だからなのか、日本に関する知識も最新版で驚きました。フランスでは、日本は公害がひどいと聞くけれど今もガスマスクをつけて通勤通学をしているの?という質問を何人かの人から受けていました。欧州の教科書には、日本の大気汚染が写真入りで紹介されていたようでした。

彼はウォークマンを片手に、日本のテクノロジーを絶賛しました。これからのモロッコの国作りに日本はとても参考になると言い、日本人とこうして知り合えてとても嬉しい、これからも末永く交際したい、友達や家族にも紹介したいので、良かったらうちに泊まりに来ないかとグイグイと踏み込んできました。

私はそのような好意はありがたいけれど、今夜のホテルは既に予約してあるのでお宅にはお伺いしませんとはっきりお断りしました。彼は尚も私を説得しにかかりましたが、私は彼のハラール料理の機内食を指差して、私があなたの国の食文化を尊重しているように、初対面の人の家には泊まりにいかないという私の国の文化も尊重して欲しいといいました。

繰り返し誘いをかける彼に対し、今後もいい関係を続けたいと思うならもうこれ以上この会話を続けるのは逆効果ですと毅然と告げました。それでも交渉とはこうやってするのかと感心させられるほど、彼は頭の回転が早く、次々にアイデアを繰り出してくるので思わず笑ってしまいそうになりました。

途中、ラバトに到着すると、ただでさえ少ない乗客の半数以上が降りてしまいました。ひと気のなくなった薄暗い機内で、隣の席の青年から相変わらず家に来ないかと誘われ続け、私もいい加減うんざりしてきました。かなり強い口調で断ると、さすがに彼もこれ以上は私が本気で腹を立てると気づいて何も言わなくなりました。空港でホテルに予約を入れておいて良かったと心の底から思いました。

しかし私は心の中では、彼は何か下心があってというのではなく、本心から私を友人や家族に見せびらかしたいだけなのだろうと思っていました。アーモンド型の目をした、真っ直ぐな黒髪の珍しい容姿をした東洋人の女を連れて行って、友だちなんだとちょっと自慢したいのではないかと感じていました。彼からは危険な感じは受けませんでした。

それでも飛行機から降りる際、あなたの家には行きませんからここでお別れしましょうときっぱりと告げて、彼は自国民用のゲートへ、私は外国人用のゲートへと進みました。

カサブランカの空港に着いたのは、真夜中でした。今調べてみると、今日のパリ-カサブランカ間はわずか2時間程度のフライトですが、あの頃は夕方の飛行機というのは、途中ラバトを経由していくと6、7時間はかかり、真夜中に到着するのでした。私は行き当たりばったりの旅だったので、そんなことも知らずにやってきて迂闊だったと後悔しました。

というのは、真夜中の空港には東洋人はもちろん、ひとりの白人の姿もなく、現地のモロッコ人か、原色の鮮やかな布をまとった黒光りする肌の中央アフリカの人々ばかりがいるのでした。入国検査の列に並びながら、肌の色など関係ない、白人がいたからといって何がどうなるものではないのだと自分に言い聞かせながらも、心細い思いが喉の奥から突き上げてくるようでした。

たった15人くらいの外国人の列をさばくのに小半時間かかり、ようやく入国窓口を通り抜けると、そこには例の青年がにこやかに待ち構えていました。懲りずに僕の家へ一緒に行こうと言います。絶望的な気分と同時に、こんなところで知った顔に会えて嬉しい気持ちとがない混ぜになりましたが、もちろん、私は彼の申し出を丁寧に断りました。

つきまとう彼を振り切るように銀行の窓口で現地通貨に両替をしつつ聞いてみると、もう街中へ行くリムジンバスはとっくに終わっていて、タクシーしかないということでした。市内までは3、40分、3、4千円だと言うことでした。

夜更けの空港でひとりタクシーに乗るのも躊躇しました。青年はどうせ市内に行くのなら一緒に行こう、その方がお互いに安上がりだと言うのです。それもそうでしたが、真夜中にひとり空港からタクシーに乗るのも怖いし、どちらがマシなのか迷いましたが、イチかバチか彼と一緒にタクシーに乗ることにしました。

タクシー乗り場で、うしろのトランクに荷物を放り入れたあとも、彼とタクシードライバーはしばらく現地語で何やら交渉していました。おそらく深夜料金の値段の交渉だったと思います。彼の様子から、深夜料金とはいえ高過ぎると言っているように感じました。かなり時間がかかりましたが、ようやく交渉はまとまったようでした。約5千円ということでした。銀行の窓口で聞いた値段からそれほどかけ離れてはいませんでした。

乗車する際に、私はタクシードライバーに観光局でもらったパンフレットを見せて一番上のこのホテルに行って欲しい、この青年と私とは友人でもなんでもないので、とにかくこのホテルに連れて行ってくれと頼みました。すると私が話しているそばから、かぶせるように青年が現地語で何かを言うのでした。

油断も隙もないと思いつつ、ホテルの名前を再度念押しました。こうして、漆黒の闇の中、タクシーは私たち二人を乗せて走り出しました。2つのヘッドライトだけが砂漠の中の道を照らしていました。月も星もない夜でした。相対的な目印はないものの、肌感覚では時速120km位ですっ飛ばしているようでした。真っ暗で何も見えない砂漠の中、隣ではモロッコ人の青年が低い声でうちに来ないかと囁いていました。

しばらく走ったところで、ヘッドライトが左はカサブランカ、右はラバトという標識を照らし出しました。すると、なんとタクシーは右のラバト方面へ進もうとするではありませんか。

「停めて〜!」 私は大声を上げ、タクシーは急停車しました。

どういうことなの? 私はカサブランカのこのホテルに行くようにお願いしましたよねと言うと、運転手さんはこちらのムッシューがまず彼の家に先に行ってくれということなのでと言います。今度は青年に向かって、あなた一体全体どういうつもり? 私はあなたの家には決していかないと繰り返し言っているでしょう? 彼が言い訳しようとすると、今度は運転手さんが現地の言葉で彼をなじり始めました。

月も星もない真っ暗な砂漠の中で車を停めて三人で口論することになりました。彼らふたりは現地語で罵りあっているのですが、何を言っているのか見事に理解することができました。結局、冷静さをいち早く取り戻した運転手さんが、ここは彼の家に行って彼を降ろし、その後私のホテルに行くのが距離的にも時間的にも一番良いと提案しました。タクシードライバーがそう言うのならばと、私も彼も同意しました。

真っ暗闇の砂漠の中、タクシーは再びスピードを上げました。青年はより一層小声になって私を誘い続けました。

青年の家の前に着いたのは、午前1時をかなりまわっていました。タクシーから降りた青年は、再び運転手さんと口論になりました。聞けば、5千円という料金はそれぞれ一人分だと主張するタクシードライバーと、深夜料金を入れても5千円というのはただでさえ割高な上に、それを二人からそれぞれ受け取ろうとはアコギな商売にも程があると言うものでした。

まもなく草木も眠る丑三つ時だというのに、二人は通りで大声で罵りあっており、私は周りの住民が起きてしまうのではないかとヒヤヒヤしていました。すると青年はうしろのトランクから私のボストンバッグまで取り出して、こんなガメツイ運転手の車に乗っていてはダメだ、ここで降りてうちに泊まって行けと言い出しました。

この期に及んで、家に誘う彼には笑いがこみ上げてきましたが、私は日本人は初めて会った人に家には泊まらないのですと言って、表へ出てボストンバッグを奪い返し、再び車内に乗り込みタクシードライバーに早く出してくださいと頼みました。タクシーが出発したあとも、青年は道端で何やら叫んでいました。

運転手さんも彼のことを悪し様に罵っていました。自分は20年以上もタクシードライバーとして空港で働いているけれど、彼のような失礼なヤツには出遇ったことがないと嘆いていました。ただ銀行の両替窓口の情報から言って、どちらの言い分が正しいのか私には正直よくわかりませんでした。

ホテルにチェックインをして部屋に入った時、たった半日のことなのに、精も根も疲れ果てたという状態でした。冷蔵庫を開けるとミネラルウォーターが入っていたので、キャップを強く回して封を開け、ひとくち口に含んだ途端、なんだかイヤな味が口一杯に広がりました。

気を取り直してバスタブに湯をはってゆっくりお湯につかろうと思ったら、足元が滑って転びそうになり、思わずシャワーカーテンを掴んだら、天井からカーテンレールごと外れてしまって轟音が鳴り響き、私は途方に暮れました。これが私のモロッコの第一夜でした。

◇ ◇ ◇

翌朝、ホテルの人にシャワーカーテンを壊してしまったことを詫びると、こちらこそ申し訳なかった、お怪我はありませんでしたかと謝られ、高額の修理費を請求されたらとの心配は杞憂に終わりホッとしました。

不幸中の幸いというか、カーテンレールのお陰で力が分散されたのか、頭も打たず、怪我もせずに済みました。変な味のミネラルウォーターは、歯磨き用にすることにしました。

とにかく初めての国に日が暮れてから到着してはならないと肝に命じました。そして、到着日のホテルはあらかじめ予約しておくこと、この二点だけはこれから必ず守ろうと思いました。エジプト旅行の時(084.ナイルの水を飲むものは)はガイドブックを入念に読み込んでから行きましたが、今回は勢いでやってきてしまった上、頼りになる日本語のガイドブックもないので、まずは安心できるホテルを確保して、ゆっくり睡眠を取り、万全の態勢で街に出ようと思いました。

3. インドシナ戦争従軍

今度はリストの上から7、8番目に載っている最高級ではないけれど、フランス資本の中級ホテルに電話で予約を入れ、タクシーで向かうことにしました。

タクシーに乗ると、初老の運転手さんにどこから来たのか?と聞かれました。私が日本から来たと答えると、日本から直接来たのか?と重ねて聞いてくるので、いえ、パリを経由して来ましたと答えました。すると、運転手さんは、ではパリの街を歩いたのか?というので、はい、歩きましたと答えると、どうだった? パリはきれいな街だろうと自慢げに言いました。

私が、ええ、パリはきれいなところですねと答えると、ところで日本にはメトロはあるのかね?と問うのです。私が、はい、日本にもメトロはありますよと答えると、いや、ちょっと待ってくれ、パリのメトロは地下を走るメトロと地上を走るメトロと両方あるんだぞとちょっと誇らしげに言いました。私が日本のメトロにも地下を走るメトロと地上を走るメトロと両方ありますと答えると、なんだ、日本にも両方あるのかと少し残念そうでした。

すると運転手さんは、何を隠そうこの私はフランス軍兵士の一員としてインドシナ戦争に従軍したことがあるのだよと胸を張って語るのでした。私が1954年のインドシナ戦争のことですか? と問い直すと、そうさ、フランス軍兵士の一員だったのだよとハンドルから手を離すとベレー帽なのか両手で帽子をキリリとかぶる仕草をしました。

私はなんと答えてよいのか言葉に詰まりました。私がこれまで学校や日本社会から学んできた植民地政策というものの概念が、大きく揺らぐのを感じました。運転手さんは、フランス軍兵士としてインドシナ、つまりベトナムの独立反対のための戦線に赴いていたというのです。モロッコ自体がフランスからの独立したのが確か1956年だったはずでした。

私は、近藤紘一の『サイゴンから来た妻と娘』シリーズを読んで、それなりにインドシナ半島の歴史を理解したつもりになっていましたが、いざ質問しようと思うと、歴史がまったく頭に入っていないことに気づきました。その上、私のフランス語力では従軍の経緯などのこみいった質問はできそうもありませんでした。

私が心の中で動揺しているうちに、タクシーは中級ホテルに到着してしまいました。植民地の兵士が、別の植民地戦争に駆り出されていく証言を聞くことができるという、願ってもないチャンスが目の前にあったと言うのに、私は自分の知識不足と語学力不足で何も質問できず、なんとも情けない思いでした。

この時の会話は、それ以降の人生で何度も反芻してきました。モロッコ人にとっては東洋人の顔を見分けることは難しいだろうから、私のことをベトナム人だと思って、懐かしくも悲惨だったベトナムのその後を聞きたかったのだろうかなどとあれこれ考えました。

◇ ◇ ◇

午後、カサブランカの街中を歩いていると、赤い派手な衣装に身を包んだ水売りのおじさんとすれ違ったり、子どもたちとすれ違ったりしました。子どもたちは、前の年に行ったエジプトの子どもとは違ってパジャマは着ておらず、私を見てもあとをついてくることもありませんでした。

道を尋ねようと女性を選んで話しかけると、女性にはフランス語はまったく通じないようでした。女性の多くはヒジャブと呼ばれるスカーフで頭を覆っていましたが、ヒジャブをしていない人もわずかですが見かけました。カサブランカではひとりで歩いている女性も珍しくはありませんでした。エジプトでは現地の女性がひとりで歩いているのを見かけたことはなかったと思いました。

私はイスラム美術の魅力に心惹かれ続けているのですが、道の両側の家々の細かい装飾も美しかったし、ところどころにある大きなモスクは、うっとりするほど美しいものでした。

4. アイドル歌手の自殺

ホテルのレストランで並んでいるとフランス人のご夫婦に話しかけられました。もしかしてあなたは日本人ですか? はいそうですと答えると、あの自殺した女の子のことだけれどといきなり本題に入ってきました。私がわからずにいると、ほら、あの有名なアイドル歌手の女の子、可愛らしい顔をした女の子、突然飛び降りて死んでしまった歌手のことですよと言われたのです。

あとになって思い返せば、それは前年1986年に18歳で自ら命を絶った歌手・岡田由希子のことを指していたと思われますが、ちょうど彼女が亡くなった時私はフランス滞在中だったので、そのニュースをリアルタイムで知らなかったため、とっさに誰のことを言われているのかわかりませんでした。

私が戸惑っていると、日本人はどうして自ら命を絶つのですか? 若い女の子が自ら命を絶つなんて、教育者として、ええ、私はフランスで教員をしているのですが、一度日本人にこの自殺問題について尋ねてみたいと思っていたのですと言われました。

アフリカ大陸の北西の端で、日本人の歌手の自殺にフランス人夫婦が心を痛めているという話を聞いて私は大変驚きました。その時、岡田由希子と結びつかなかったとはいえ、日本のトップアイドルの情報は今や世界中で報道されているのかと、そんなことに感心していました。

この時も私は満足な返答もできませんでした。ハラキリやカミカゼ、日本人の自害や自殺については欧米人の関心事であることは前々から知っていましたが、私はそれについてなんの見識も持たずただぼんやりと生きてきたのだと思いました。答えられないのならば、せめてご夫妻の日本人の自殺に対する考え方をきちんと伺えば良かったとあとになって思いました。

世界をひとり歩くという、数十年前ならとてもできないような体験をしていると言うのに、自分の知識や見識不足、そして語学力不足をまたしても痛感することになりました。

5. 「地球の歩き方」@マラケシュ

手元のパンフレットによれば、モロッコ観光ならば、やはりマラケシュやフェズのような古都がお薦めと書かれています。マラケシュとは、11世紀から栄えたモロッコ第四の都市のことでした。日本で言えば京都といったところでしょうか。

そこで朝早く中級ホテルをあとにして、列車でマラケシュに移動しました。まだ太陽が高い時間に到着するようにして、現地の観光案内所でホテルを決めようと思いました。そして、マラケシュに着いてウロウロしていると、大勢の自称ガイドに取り囲まれて、口々に私を雇わないかと猛烈なアタックを受けることになりました。

断っても振り切っても、束になってやってくるガイド軍団に、ちょっとこれは困ったことになったと思っていると、向こうから、ひとりの東洋人の青年がやって来るのが見えました。よく見ると手にはクリーム色の「地球の歩き方」があるではありませんか! 地獄に仏を見た表情をした(と思われる)私のことを、その青年もめざとく見つけてくれて、まるで磁石が吸い寄せられるように互いに会話をすることになりました。

とにかくお互い困っていることは一目瞭然でした。私には日本語のガイドブックとボディガードが必要だったし、彼には通訳が必要でした。どちらかが何を言うわけでもなく、私たちは共に行動することが決まりました。

彼はパリでこれから働くことになる日本人青年でした。まだ赴任してきたばかりだったので英語はともかくフランス語は覚束なくて、とりあえずやってきたモロッコ旅行でもなかなか苦戦しているようでした。

しかし同胞に会って安心したのも束の間、単に一人が二人になっただけで根本的な状況は変わっておらず、自称ガイド軍団のアピールは強烈で、数メートル前に進むのも容易ではありませんでした。そこで二人で話し合って、あまり押しの強くない、なんとなく人の良さそうなひとりのガイドさんを雇うことにしました。料金は一日500円位だということでした。

すると驚いたことに、彼と契約した途端、あれほど大勢いたガイド軍団は波が引くように一斉にいなくなりました。そしてガイドさんが案内してくれるまま小道に入ると、そこは手工業を営む家々が並んでいました。私たちが行くと手を止めていた人々もまるでガイドさんの顔を立てるように、作業に取り掛かってカメラのシャッターチャンスを作ってくれるのでした。「霊験あらたか」というのはこういうことを指すのではないかと思いました。

革製品を細工する人、真鍮製品を作っている人、鍛冶屋さん、刺繍をする女性、色んな小間物を売っている人々、彼らは、私たちが近づくとすぐに作業に取り掛かって、カメラの前でいい表情をしてくれるのでした。

ガイドさんは、簡潔にお店の仕事内容や街の情報を伝えてくれました。私がそれを青年に日本語で説明し、青年は私のボストンバッグを持ってくれました。ガイドさんは結婚式が今まさに執り行われている家にも入って行って、私たちが見学できるように取り計らってくれました。花嫁さんは白いウェディングドレスの代わりに緑と青を基調にした色とりどりの民族衣装で着飾っていました。大勢の人々が祝福のために集まっていました。

街の人々はみんな知り合いのようで、互いに助け合って生きているような印象を受けました。もうひとつ印象的だったのは、街には障害者が大勢いることでした。片手や片脚のない人々も知的障害だと思われる人々もごく普通にあちこちにいました。きっと人口比としては日本も同じくらいいるだろうと思うのに、なぜ日本ではほとんど見かけないのかと疑問がムクムクと頭をもたげました。

ガイドさんはそういう人にも、やあとか、最近どう? などと声をかけながら、急がず、しかしポイントを外さずに街のあちらこちらを案内してくれました。そろそろくたびれてお腹もすいてきたという頃、ガイドさんがよかったらうちに来ないか?と誘ってくれました。もしも私一人だったら行かなかったとは思いますが「地球の歩き方」の青年と一緒だったので、二人でガイドさんの家へ行くことにしました。

彼の家に着くと、奥さんにお客さんだよと告げて、私たちにその辺に座って楽にしてくれと言いました。ガイドさんと奥さんが何やら現地語で話すと、まもなくお昼ご飯が出てきました。今も忘れられないのは、トマトときゅうりのサラダです。なんとみずみずしいサラダだったことでしょう。ただトマトときゅうりを刻んだだけのように思えるのですが、ドレッシングが決め手なのか、素晴らしく新鮮でおいしいサラダでした。

突然の訪問だったので、多分あれは普段の食事だと思われました。羊の肉の煮込み料理を少しとナンのようなパンも出してくれました。どれもおいしくいただきました。奥さんに話しかけても、フランス語はまったく通じなくて、私の知っている唯一のアラビア語「シュクラン」(ありがとう)と言うと、彼女は目を伏せてはにかむのでした。

食事代を支払おうとすると、ガイド料をもらっているからと受け取ってはくれません。結局二人分のガイド料として500円を支払っただけでした。二人だから千円をと言っても受け取ってはもらえませんでした。初日の空港からのタクシーとはまったく正反対の経験でした。

きちんと整頓された室内、青と白を基調としたインテリア、居心地のよいお住まいでした。お名前と住所を伺っておけば、帰国してからお礼の品物とカードでもお送りして、奥様によろしくと一言添えることもできたのにと、のちになって随分悔やんだ親切なガイドさんでした。

ガイドさんと別れ、二人で少し街歩きをしました。小学生の男の子が、高級レストランを指差して、ここは金持ちのアメリカ人から高い料金を取る店なんだ、入らない方がいいよと教えてくれたことも忘れられない思い出です。世界中どこにでもボッタクリのお店はあるようです。でも、日本人の少年は外国人にそういうことは教えないだろうし、そもそも子どもにはボッタクリだとは知られないようにするのが日本社会だと感じました。

◇ ◇ ◇

午後、あまり遅くならいうちに二人でホテルに行って、別々にシングルルームを取りました。夕食の時、連れがあるとレストランで色々注文できて、会話をしながら楽しい食事になった思い出があります。ただ昼間のガイドさんのお宅のランチがあまりにも素晴らしく印象的だったからか、夜、何を食べたのかは残念ながら覚えていません。

食後、明日の朝、朝食レストランでお会いましょうと別れ、それぞれの部屋へ入り早々にベッドに入って眠っていると、真夜中、部屋の扉がドンドンとノックされる音がして目が覚めました。寝ぼけまなこで扉を開けたら廊下には誰もいません。それでもまだドンドンとノックする音が聞こえています。どういうことだろうと思っていたら、どうやら部屋と部屋との間に扉があって、その扉がノックされているようでした。

かなり広いシングルルームでしたが、二つの部屋は内扉で行き来できるコネクティングルームになってることに私は初めて気づきました。緊急事態なのかと思って内扉を開けてみたら、そこには青年が思い詰めたような表情で立っていました。どうかしましたか? とたずねたら、そちらの部屋へ行ってもいいかと言われました。

とっさには何をいわれているかわかりませんでした。でも即座に、私はとても眠いので、明日の朝7時に約束通りレストランでお会いしましょうと言って扉を閉めて、内鍵をかけました。

◇ ◇ ◇

男女で行動するというのは難しいことなのだと思いました。知り合ったばかりだというのに、彼がなぜそんなことを言うのか意味がわかりませんでした。今日一日の行動を振り返っても、彼が私に恋をしたとはまったく考えられませんでした。でもさっきの彼の表情から推測するに、彼は誘わないと私に失礼だと思ったのだろうかなどと考えてみました。でもとにかく眠かったので寝ました。すべては夜が明けてから考えることにしました。睡眠不足は外国旅行の大敵でした。

翌朝7時に、昨日の夜の出来事はまったく覚えていないことにして、普通に挨拶をして、普通に朝食を取りました。私たちがこの旅行でお互いがお互いを必要としていることに変わりはありませんでした。モロッコの街をひとりで歩くよりは、彼と行動を共にする方が安心できそうでした。ただ夜の対策は改めてしっかり考える必要がありました。

6. ジャマ・エル・フナ広場

NHKのアラビア語講座をたまに見ていると、懐かしいモロッコの風景が映ります。私が行った34年前と何も変わっていないような気さえしています。

しかしながら、今私の手元にある1984年発行の交通公社(現在のJTB)のポケット・ガイド「アフリカ」によれば当時のモロッコの人口は約2,024万人とありますが、現在の世銀の調査によれば世界第40位、3,691万人とおよそ1.8倍に増えています。すごい人口増加率です。

また通貨も当時は1DH(モロッコディラハム)=約30円ということでしたが、現在の換算レートでは1DH=約12円と通貨の価値も随分変わりました。

交通公社のガイドブックはかつてフランス語を習い始めた時、いつかアフリカ大陸を歩いてみたいと思って買っておいた一冊でしたが、肝心のモロッコ旅行の時には持参していませんでした。

語学講座でも取り上げられたモロッコの有名な観光地に、ジャマ・エル・フナ広場があります。マラケシュの旧市街は1985年に世界遺産に登録されていますが、その当時、私は世界遺産などという概念を知らずにいました。あの頃も今と同じように大勢の人々で賑わっていました。在モロッコ日本大使館のサイトには次のように紹介されています。

メディナの中心地にあたるジャマ・エル・フナ広場は,蛇使い,占い師,猿まわし,民族舞踊師,楽師,アクロバットを演ずる軽業師等大道芸人や屋台で賑わっています。同広場は,2001年,文化的空間としてユネスコの世界無形文化遺産に登録されました。
https://www.ma.emb-japan.go.jp/itpr_ja/00_000255.html

◇ ◇ ◇

昭和40年代(1965-1974年)に、テレビの歌謡番組から「カスバの女」という唄の「ここは地の果てアルジェリア どうせカスバの夜に咲く 酒場の女のうす情け」とか「明日はチュニスかモロッコか」などという一節が流れてきて、小学生の私は意味もわからず、いつかカスバに行ってみたいと思っていました。

大人になるにつれて、映画「望郷(原題ぺペ・ル・モコ)」「カサブランカ」を観て、ますます興味を抱くようになりました。

カスバとは迷路のような旧市街の街並みを指すアルジェリアの言葉ですが、モロッコではこれをメディナと呼びました。いつの日にか、こんな曲がりくねった道を歩いてみたいと長いこと夢見ていました。

◇ ◇ ◇

「地球の歩き方」の青年と私は、もうガイドさんを頼まなくても、なんとか自称ガイド軍団をうまく断る術も身につけて、翌日は、二人でメディナの小道を歩いたり、道端の屋台というかなんだか得体の知れないレストランで、隣の人のお皿を指差して注文した謎の食べ物を食べたりしました。

追っても追ってもブンブン蝿がやってきて食べ物にとまるのには参りました。初めの頃は懸命に追い払っていましたが、よく考えれば台所で散々止まっているのだから今さら追い払ったところで仕方ないと開き直ったら、なんとなく気が楽になりました。

ところで、この謎の食べ物がめちゃくちゃおいしいのです。名前もわからず、材料も野菜と肉のごった煮としか言いようがないのですが、コクがあって、うわ〜と声を上げたくなるほどおいしくてびっくりしました。さらにデザートについてきたヨーグルトがまた忘れられない味でした。自家製のヨーグルトのようでした。できればバケツ一杯ほどおかわりしたい気分でした。これまでの人生であれを超えるヨーグルトを食べたことはありません。

ガイドさんがいないといい写真は撮れませんでした。どっちが本来の街の姿なのかよくわかりませんでしたが、歩いては休憩して、休憩してはまた歩きました。時々甘いミントティーや濃いコーヒーで一服しました。

夕方、ジャマ・エル・フナ広場に面したカフェで休憩していると、小学校に入るか入らないかくらいの裸足の男の子がタバコを売りにきました。悪いけどタバコはいらないというと、それならバラ売りするから一本だけでもいいから買ってくれと言います。タバコ以外のものならと、バラ売りの飴を言い値で買いました。帰国して父にこの話をしたら、終戦直後は大阪の鶴橋でもタバコはバラ売りしていたなぁと懐かしそうにしていました。

日が落ちるとどこからか人がわらわらと湧いてきて、夏休みの盆踊り大会を大規模にしたような様相になってきました。写真を撮ろうとすると、チップを要求されるようなので、この目に焼きつけることにしました。

ジャグリングや、民族ダンスや、珍しい楽器の演奏など、大道芸人が大勢出ていました。私が一番おもしろいと思ったのはヘビ使いでした。絨毯の上に胡座をかいたおじさんが笛を吹くと、壺からヘビがニョロニョロ出てくるというマンガのみたいな世界がそこにありました。こればかりは私もチップをはずみました。

モロッコはフランス人にとって海辺のリゾート地としても知られていましたが、マラケシュにはその名も「地中海クラブ」という大規模なリゾート施設があって、夜になると外国人観光客も大勢出て、ますます賑わい、活気が出てくるようでした。

私は懸案事項であった今夜の過ごし方について青年にたずねてみました。私は今夜の列車でフェズに行こうと思うけれど、あなたはどうしますか?と。彼とまたホテルの隣同士の部屋で泊まりたくはありませんでした。

すると、彼もフェズに一緒に行くと答えました。衆人環視の列車の中ならば彼と一緒でも構わないので、それではと、まだまだ宵の口というジャマ・エル・フナ広場に別れを告げ、二人して鉄道駅に向かいました。もう正確な時間は覚えていませんが、マラケシュからフェズまでは列車でまる一晩かかりました。夜行バス感覚で、時間と宿代が節約になるだけでなく、ついでに安心が手に入る一石三鳥でした。

7. フェズの街並み

フェズは、マラケシュに先立つ1981年に世界遺産に登録されました。世界遺産の登録は1978年にガラパゴス諸島など12ヶ所が最初で、日本の法隆寺などが初めて世界遺産に登録されたのは16年目の1993年ですから、フェズが4年目に早々に登録されたのは、それだけ人々から注目されていた街だったからなのでしょう。

フェズは城壁に囲まれた街です。入り口には美しいイスラム模様の城門が立ち、その中へは車やトラックなどは一切入れず、ロバが物資の輸送の主役でした。そのために城壁内の街並みは中世そのものでした。あれほど感動したマラケシュの街並みの記憶が上書きされてしまうようでした。

強い日差しの光と影。背中にたくさんの荷を結わいつけられたロバのゆっくりとした歩み。細かいタイル細工のモスク。中庭で光を浴びて輝く水噴水。皮の匂い。頭上に翻る原色の布々。コーランの音色。土産物の数々。この細い道をいつまでもどこまでも歩いていたいと思うフェズの街並みでした。

マラケシュの例にならって、ここでも私たちはガイドをお願いしました。ただこのガイドさんは、あまり熱心とはいえず説明もおざなりでした。とはいえ、彼がいないと道に迷いそうでした。大勢のガイド志願者から守ってもらうためにもフェズでのガイドも必要だと感じました。

城壁を抜け出て、今度はメディナを一望できる小高い丘の上からフェズの街並みの全体を眺めました。異国に来たのを実感しました。

近くの小学校が終わったらしく、子どもたちが学校から駆け出してきました。ゲームや塾とは縁のない子どもたちでした。男の子は男の子でかたまり、女の子は女の子でかたまっていました。女の子たちは私たちの方を見ながら、なにやら話していました。東洋人が珍しかったのかもしれません。

本来ならフェズでも宿を取って滞在したいところでしたが、なにか突発的な出来事があって帰国できなくなるといけないので、パリへのフライトの前日はカサブランカに泊まることにして、フェズを去ることにしました。

「地球の歩き方」の青年ともここでお別れすることになりました。彼は寡黙で浮ついたところのない青年でした。旅のパートナーとしてもなかなか親切でした。しかしホテルの夜の一件があったので、これ以上のおつきあいにはなりませんでした。それでも大変お世話になりました。

8. カサブランカへの一等車

トーマスクックの時刻表で調べた夜行列車のチケットを買うために、ひとりでフェズの駅へ向かいました。私が駅に到着したのは夜8時か、9時頃でした。駅の構内は、窓口の前に大勢の人々がまるで座り込みストライキをしているように地べたに座り込んでいました。

これはまたどうしたことかと思って、列らしきものを探しましたがまったく見当たりません。そこで、ちょっとすみません失礼しますと言いながら、人々の間をボストンバッグを抱えて進み、なんとか窓口にたどり着きました。そこで窓口をノックして、中にいる駅員さんにチケットの販売は何時からですかとたずねると「たった今から開始します、どこまで行きますか?」と行き先を聞かれました。

すると、地べたに座り込んでいた人々が一斉に立ち上がり、われ先にと窓口に詰めかけてきて大騒ぎになりました。もしかするとモロッコでは列を作るという習慣はないのだろうか、だから行きのオルリー空港でも大混乱だったのかと思いました。

私はカサブランカまで一枚と答えると、一等車にするか二等車にするかと聞かれました。それまで一等車に乗るという発想はなかったのですが、とりあえず一等車と二等車の両方の値段を聞いてみました。どちらも日本円に換算するとそれほど高額ではなかったので、夜中の旅だし少しでも安全にと思い、それでは一等車のチケットをくださいと答えました。背後では人々がおしくらまんじゅう状態になっていました。

結果的に私は壮大な横入りをしてしまったことになり、周囲の方々に申し訳なかったのですが、けれどももし私があの時点で窓口でたずねなければ、まだまだ窓口は開かなかっただろうと自分を励ましてホームで列車を待つことにしました。

ホームに立っている駅員さんにチケットを見せると、一等車はこのあたりに停まりますよと、わざわざその場所まで連れて行ってくださいました。お礼を言ってしばらく待っていると、列車がやってきました。

ところが、十両ほどある車両に一等車は見当たりません。さっきの駅員さんもどこかへ行ってしまって、いません。私はホームを右往左往しましたが、こんなことをしているうちに列車が出発してしまっては一大事だと思い、とりあえず近くの二等車の乗り口から列車に乗り込みました。

◇ ◇ ◇

まもなく列車は動き始めました。私が乗り込んだデッキにはすでに人が一杯で、車内が混んでいるのかいないのかを確認することすらできませんでした。それでもデッキにこれだけ人が立っているということは、当然座席がないということを意味していました。まったくどうなっているのでしょうか。

こんなに混雑していては車掌さんも来るとは思えないし、せっかく(多少)奮発して一等車のチケットを買ったというのに、一晩中デッキで立ったままカサブランカに行くことになるのかと、ただぼんやりとショックを受けていました。

◇ ◇ ◇

すると、目の前にいた軍服身を包んだひとりの青年が、座席はどこですかと声をかけてきてくれました。私が手に持ったチケットを見せると、この列車には一等車はありませんよと言うのでした。さっき駅員さんが一等車の乗車位置まで連れて行ってくれたのはなんだったのでしょうか。

彼は、周りにいた部下だと思われる数人の若い軍人に何やら現地語で声をかけました。すると彼らはすぐに二手に分かれ、前後の車両に人をかきわけて入っていきました。そして彼は私の方を向いて、今、彼らに座席を探すように命じましたから少しお待ちください、一等車のチケットを売っておきながら外国人のマダムをカサブランカまで立たせておくわけにはいきませんからねとにっこり笑うのでした。

展開についていけない思いでしたが、その親切な対応はありがたく、心からお礼を言いました。彼は私にどこから来たのかとたずね、日本からだと答えると、日本には行ってみたいけれど、とても遠すぎて一生行くことはないと思うと言いました。もしも日本にいらしたら私がご案内しましょうというと、また白い歯を見せました。

聞くと、彼はモロッコの軍隊の中でもパラシュート部隊の一員だと胸のバッジを誇らしげに見せてくれました。そしてパラシュート部隊というのは精鋭集団なので、あなたの席もすぐに見つけてきますよと言うのでした。そのまましばらく部下の方々が私のために座席を探してくれている間、隊長さんと二人で話をして待つことになりました。

彼は、あなたの宗教は何ですかと聞くので、仏教ですと答えました。仏教の神はどんな神なのですかと説明を求められたのですが、私はうまく答えられなくて、葬儀などの儀式は仏教の儀式だけれども、実のところ私は無神論者なのです、je suis athée. と答えました。というか、そのように答えてしまったのです。

その頃、私は無神論者という単語は athée(アテと発音)というのだと、知っていた単語をそのまま使っただけだったのですが、彼の反応の大きさからあとになってよく調べてみると、athée という言葉のニュアンスは、例えていうと宗教界のアナーキストといったようなものらしく、日本人が一般的に使う「これといって特別な宗派には属してはいません」などというものではないようでした。

私はアテですと言ったのを聞いた彼は、なんという怖しいことを!をいう表情をしました。まるで「私は神をも畏れぬ不届き者です」と自分で名乗ったと彼は受け取ったのかも知れません。神よ、そんなことがあって良いのでしょうかというように顔を覆い、私のために悲しんでくれました。

そしてポケットからライターを出すと、このライターは人間が作ったのだからここにあります、我々人間も誰かが作らなければここに存在することはないのです、そしてそれは創造神なのですと、突然、神の説明を始めました。私は呆気に取られていましたが、そこへ部下の数人が戻ってきて、今、席を見つけました、さあ、どうぞこちらへと言うのでした。

私は彼らにお礼をいって移動しようとした時、話が途中になってしまった隊長さんは自分の自宅の住所をノートの切れ端に書いて渡してくれました。私も同じように東京の住所を書いて彼に渡しました。そこで隊長さんとは別れ、部下の方にボストンバッグを持ってもらって人をかき分けながら車内へと向かいました。

座席にはパラシュート部隊の別の隊員が腰かけて、私のために座席を確保してくれていました。一体どうやってこの混雑した車内で座席を見つけてくれたのでしょうか。お礼をいうと、どういたしまして良い旅をと、爽やかに全員元いたデッキへと戻っていきました。

昨晩もマラケシュから夜行列車で来て、今晩もまたカサブランカへと夜行列車はさすがにくたびれます。それでも、どんなに遠くてもフェズに来て良かったと心から思いました。フェズの街並みは素晴らしいものでした。

疲れてはいるけれど決して眠らないようにしなければと、通路まで人々が一杯の車内で、パスポートやパリと日本への航空券の入った、いつも小脇に抱えているセカンドバッグの取っ手に手首を通しました。

しかし、いつしか列車の心地よい揺れに身をまかせているうちに、どうやら私は眠ってしまったようです。どのくらい時間が経ったのか、私が目を覚ました時には既に夜が明けていて、窓から明るい日差しが差し込んでいました。

ハッとして我にかえると、あの貴重品の入ったバッグが手元にありません。頭から冷水を浴びせられたように全身の血の気が引きました。すると、私の隣のおじいさんが「これかね?」というように彼の懐にあった私のバッグを差し出したのです。私はお礼も言わず、引ったくるようにしてバッグを受け取ると、すぐに中のパスポートと航空券、それに現金を確かめました。

ありました。すべてありました。そしてその時、自分がどれほど無礼な態度だったかにようやく気づき、大変申し訳なかった、突然のことに動揺したとはいえ、大変失礼しましたとお詫びしました。

するとおじいさんは、いやいや、世の中には悪い人がいっぱいいるから気をつけなくてはならんぞと言って笑ってくれました。周りの人々が口々に、おじいさんはあなたが眠ってしまったので、あなたのバッグを手首から抜いて、ずっと懐に抱いて悪い人から守っていてくれていたんだよと説明してくれました。

おじいさんと周囲の方々にも何度もお礼をいうと、とにかく安全で楽しい旅をと口々に声をかけてくれました。モロッコの人々がこれほど親切だとは驚きました。カサブランカ駅に着いた時もボストンバッグまで運んでくれました。

9. 絨毯屋のご主人

モロッコを歩いているうちに私は絨毯の魅力に取り憑かれ、小さくてもいいから一枚自分の絨毯が欲しいと思うようになりました。まだ六本木に防衛庁があった頃から、近くにあったペルシャ絨毯屋さんの前で、私は時折うっとりとペルシャ絨毯を眺めていました。イスラム様式の模様にたまらなく魅力を感じるのです。

しかし、ペルシャ絨毯は目玉が飛び出るほど高額で、とても私ごときが買えるような代物ではありません。そこでカサブランカの観光客相手のお店で大して上等でない品物なら、そこそこの値段で買えるのではないかと思いました。

どんなお店がいいのかもわかりませんでしたが、なんとなく流行ってそうなお店を選んで中に入りました。中からご主人が出てきて、さあさあどうぞ、いいものが揃ってますよとにこやかに案内を始めました。色々な品物を見せてもらい、あまり大きくなくて、色柄が美しい絨毯を手に取りました。

さあ、ここからが交渉です。あまり欲しそうな顔をすると吹っかけられると見せてもらった「地球の歩き方」にも書いてあったので、演技を交えつつ、まずは低い金額を提示してみました。するとご主人は天を仰ぎ、何を馬鹿なという表情をします。もうここは半日でもお店にいるつもりで粘り強く交渉するしかないと思い、私も床に座り込んで、二人で代わる代わる天を仰ぎ肩をすくめて交渉を続けました。

すると思ったより早く、私の思っていた値段の三分の一くらいの金額で決着がつきました。ご主人はもう私に首をくくれと言うのかね、もう破産だと散々言っていました。我ながら交渉はうまくいったものの毎回これでは疲れてしまうと思い、日本には定価があって便利だとつくづく思いました。

その日、私は日本への帰国便の再確認の電話を、パリの航空会社にしなければならなかったのですが、公衆電話を探すのも、現地通貨の持ち合わせも不安だったので、ご主人に、申し訳ないけれど料金は支払うからパリに電話をしたいのでお店の電話を貸してくれませんか?と聞いてみました。

するとご主人は梱包の手を止めて、どうぞどうぞお代なんて結構ですので、ご自由に電話をお使いください、なんなら私がダイヤル致しましょうかとイソイソとやってきて、パリへの国際電話の発信の仕方を教えてくれました。その姿を見て、ああ、ご主人の方が私よりも一枚も二枚も上手だったのだと悟りました。

10. 帰国後

日本に帰ってしばらくすると、列車で出逢ったパラシュート部隊の隊長さんから手紙が届きました。私も返事を書きました。するとまた手紙が来て私たちは数年間文通しました。丁寧な手書きの文字が今も忘れられません。

あの時は、たまたま出逢ったパラシュート部隊の方々が親切なおじいさんの隣に席を見つけてくださったので事なきを得ましたが、私は眠り込んでしまうという大失態を犯し、実際にはとても危ない列車の旅でした。

それだけでなく、初日空港からカサブランカへ向かう途中の真っ暗闇の中でのタクシー内での口論や、夜中のホテルの内扉ノック事件など色々ありましたが、身の危険を感じたことは実は一度もなく、多くの親切なモロッコ人に助けられた思い出深い旅でした。たくさんのことを考えさせられ、34年経っても忘れることのできない会話を色々な人と交わした旅でした。

近年ではテレビ番組でもモロッコの風景は時々目にするだけでなく、タジン鍋や食器、バブーシュと呼ばれるスリッパや、雑貨などを女性誌などでよく見かけます。旅行先も、砂漠ツアー青い街で知られるシャウエンなど、魅力的な観光地がたくさん紹介されています。

再就職で10月から働き始めた会社は、入社していきなりブラックマンデーになってびっくりしましたが、その後15年ほど勤めました。休暇をたくさん取得できる会社だったので、休みを取っては大好きなフランスにせっせと通い、国内外もたくさん歩きました。そのような多くの旅の中でも、このモロッコの旅は格別なものでした。

◇ ◇ ◇

冒頭で触れた、1992年の冬にノルマンディに行った時にコンパートメントで一緒になったモロッコ人の男性も、列車を降りる時「良かったらうちに泊まりにこないか」と親切そうに誘ってくれたのでした。


<再録にあたって>
先日、区の介護保険課より封書が届き、開封してみたら「介護保険被保険者証」が入っていました。数週間前に母の要介護認定の訪問調査があったばかりだったので、てっきりその結果が届いたのだとばかり思ったのですが、調査結果はどこにも記載がなく、おかしいなと思いながらよくよく保険者証の宛名を見てみたら、それは母宛ではなく、ナント、まもなく前期高齢者になる私自身宛でした。

37年前のモロッコ旅行をまるで昨日のことのように思い出せるというのに、いつのまにかまもなく高齢者と呼ばれる年齢になってしまったようです。自分ではまだまだ若いと思い込んでいましたが、それでももし今、パリの街を歩いていて格安モロッコ往復航空券のポスターを見たとしても、今の私なら翌日のチケットは買わないだろうと思いました。溢れんばかりの好奇心、瞬発力、無意識ながらも体力への自信、そしてある種の無謀さ、このような「若さ」を失いつつあることを本稿を読み直して改めて感じてしまいました。


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