184.YMOの整理券

今年2023年の年明けの1月5日(木)にNHKで坂本龍一の特集番組が放送されました。坂本龍一の名を聞くだけで様々な思いが駆け巡ると、感慨に耽りながら録画した番組を繰り返し見ていたら、一週間も経たない1月11日に高橋幸宏の訃報が飛び込んできました。

おそらく多くの方々も同じような思いを抱いておられることとは思いますが、YMOの音楽に彩られた青春を送っていた者たちにとっては2023年は衝撃的な幕開けになりました。

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私が高校に入学したのは、1975年(昭和50年)の月のことでした。高校生になると、これまで私を取り囲んでいた世界がグンと広がったように感じました。そのひとつは「音楽」の世界でした。中学生の頃までは、テレビで歌謡曲を聴いたり、中3トリオや新御三家のアイドル歌手の動静を雑誌で見ているくらいだったのが、LPレコードを貸し借りして、テレビでは見たこともない音楽に触れるようになったのです。

英国のハードロックバンドを始めとした外国のバンドの存在を知ると同時に、国内でも「はっぴいえんど」「ティン・パン・アレイ」「シュガー・ベイブ」「サディスティック・ミカ・バンド」「荒井由美」らの活躍を知って、私は夢中になりました。

細野晴臣、大瀧詠一、松本隆、鈴木茂、松任谷正隆、林立夫、山下達郎、大貫妙子、伊藤銀次、加藤和彦、高中正義、小原礼、後藤次利、大村憲司、矢野顕子…。今、こうして名前を書くだけで涙がこぼれそうになるほどです。あの頃の私にとって、彼らはキラキラと光り輝く憧れの存在でした。

「荒井由美」は評論家に「近頃の若者はまったくなってない。本来、飛行機雲というのは、ひこ↗︎きぐも』と発音するのに『ひこ↘︎きぐも』などと曲をつけていて、日本語の音を無視していてどうにも困ったものだ」などど批判されていました。

私は「大人なんてなにもわかってない」と腹立たしく思いながら、曲を聴くだけでワクワクする「新しい音」を求めていました。友人間でLPを交換し、皆んないっぱしの評論家ぶって蘊蓄を垂れていました。あの頃の自分たちの会話の録音があったらギャッと叫んで卒倒してしまうことでしょう。「若さという傲慢」が高校の制服を着てそこいらを歩いていたようなものでした。

先日、実家の引き出しの片付けをしていたら、高校時代の同級生と交わした多くの書簡が見つかりました。男女問わず皆んな「細野の最近の傾向は」とか「高中のギターテクニックは」とか、もう穴があったら入りたいというより、穴がなくても自分で掘って入りたくなるほどの手紙がわんさか見つかりました。

小中高校と一緒だった友人アヤとはことのほか気が合い、昼食のパン代を節約して「LPレコード」を購入して夢中で聴いていました。そしてこちらもパン代を切り詰めて買った雑誌の「ぴあ」「ビックリハウス」「ミュージック・ライフ」を小脇に挟み、文字通り「三度の飯より新しい音楽」でした。2人で新譜情報チェックしたり、LPレコードのライナーノーツを隅々まで読み込んでいました。

細かい文字を追っては「このハンドクラッパーというのは手拍子ということだから、私たちでもなんとかなりそうだね。次のアルバムにはどうにかしてハンドクラッパーとして参加させてもらいたいね」などというタワゴトを、大真面目に額を突き合わせて相談していました。

そのアヤは、美大を受験すると言うので、学校が終わり一旦帰宅してから、都心の美大受験予備校に通っていました。私たちは東京の西の郊外に住んでいましたから、夕方から都心に出て行くというのはかなり大変なことだったと思います。

それでも都心の美大予備校の生徒の情報感度は高く、アヤを通じて私もまったく知らなかった音楽情報やサブカル情報をたくさん教えてもらいました。先にあげたバンド名などは、彼女らから教えてもらったものあり、今も昔も女子高生の口コミの威力は凄いものだと改めて思います。

私たちは、小田急線に乗る度に「若者の街と呼ばれる下北沢に住めたらいいね」と憧れを抱いていましたが、美大受験生情報によると、なにやら都会には居住区によるヒエラルキーがあるらしく、一番エライのはどうやら港区で、その次が千代田区、渋谷区なんてダメらしいということでした。憧れの下北沢のある世田谷区なんてド田舎だとバカにされているらしいとも聞きました。

私たちのように、こんな郊外の高校にいては論外もいいところなので、なんとかして希望校に入学して楽しい青春を送りたいと思っていました。その意気込みを後押ししてくれるのは、やっぱりカッコいい音楽だったのです。

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さて、それぞれが大学に入学してから、高校の同級生たちと、あるいはアヤとふたりで、あちこちのライブハウスに音楽を聴いて歩いてました。友人たちの中には渋谷の「じゃん・じゃん」「屋根裏」に通い詰めている子もいましたが、私はもっぱら六本木の「PIT INN」、それに日比谷公園の「野外音楽堂」でした。日比谷野音でのサディスティックスのコンサートに行って、突然の土砂降りでズブ濡れになったのも忘れられない思い出です。

ライブハウスのコンサートは同じ空間に憧れのスターがいて、本当に手を伸ばせばそこに憧れのミュージシャンがいるという夢のような世界でした。もう、どのライブで誰に会ったのか覚えていませんが、ステージ上だけでなく、客席にも出演者の友人ミュージシャンが座っていたりして、夢のような場所でした。

ジャムセッションか始まると、めざとく客席にいるミュージシャンを見つけたメンバーが声をかけてステージに来てもらって演奏するなんてことも珍しくはありませんでした。行くたびに有名人とすれ違ったり、隣の席だったり、一度などトイレで空くのを待っていたら中からアン・ルイスが出てきてビックリしたこともありました。

実家の引き出しからは、山下達郎や高中正義、大貫妙子のサイン、大瀧詠一から届いた年賀状もたくさんの手紙の束と共に出て来ました。何よりの宝物でした。

ずっとのちになってから「会いに行けるアイドルAKB48」が話題になりましたが、1970年代後半から80年代に青春時代を迎えた私たちにとっては、彼らこそ「会いに行けるミュージシャン」でした。

そんな頃、1978年10月25日に坂本龍一の『千のナイフ』が発売されました。もちろんすぐに買って聴きました。憧れていたミュージシャンが全員参加して作ったようなアルバムでした。坂本龍一という人物は芸大の作曲科を出て、その上大学院にまで行っていて、皆んなに「教授」と呼ばれているそうで、その新しい音に私は憧れました。

いつものようにライナーノーツを隅から隅まで読み込み、手元のノートにもそれを書き写し、六本木のPIT INNで開かれた「千のナイフ発売記念コンサート」に行きました。早目に行ったので、まだ何となく準備中という雰囲気で、出演前のミュージシャンもその辺をウロウロしていました。

そこで、目の前にいた坂本龍一本人に「千のナイフ」のLPとマジックを差し出してサインをお願いしました。快くサインをしてくれたので、その時、私は思い切って「私、一緒に死にます」と告げたのです。なぜなら「千のナイフ」のライナーノーツには「一緒に死んでください」と書かれてあったからでした。

あの時の坂本龍一の顔を、私は今も思い浮かべることができます。ポカンとして「君、大丈夫?」という表情でした。そして単に「はい」とサインをしてくれたLPとマジックを私に返してくれただけで、それ以上なんのやり取りもありませんでした。私としては勇気を振り絞ってやっと言葉にしたというのに、軽くあしらわれて残念でした。

あの日、私は19歳でしたが、もし坂本龍一が本気で私に一緒に死んでくれと言ったなら、私はきっと迷いなく死んでいただろうと思います。若さなんていうものは、そんなものだという気がしてなりません。こんなに才能のある人のお願いなら、叶えてあげたいと思ったのです。

ただ、坂本龍一自身は、もしかしたら発売以来多くの女性たちに「一緒に死んでもいいわよ」と言われ続けていて、うんざりしていたのかもしれません。

◇ ◇ ◇

あの頃は、何度も何度もPIT INNに出かけていったので、記憶が混乱していて、私の記憶では「YMO結成コンサート」という名のPIT INN ライブは、1979年の春休みだったように思うのですが、もしかしたら私の記憶が数ヶ月ほど違っていて、1978年の秋だったかもしれません。

ただ「本日がYMOの結成日です」と宣言されたライブに行ったことは間違いなく、確か細野晴臣が「Y、M、O、イモとも言うんだよね」と笑いを取っていたことを覚えています。結成日という記念の日に立ち会えたことは長い間の私の大自慢でした。

大学1年生が終わって2年生になる1979年の春休みの昼下がり、私はいつものようにアヤと2人で六本木のPIT INNに向かいました。六本木の交差点から飯倉の交差点に向かって歩き、高速道路の少し手前にPIT INNはありました。その日は、私の記憶が正しければYMOの結成コンサート、記憶違いだとしても、結成後の2度目か3度目くらいのライブでした。

夕方の6時か、7時くらいに開演の予定でした。けれどもその頃PIT INNでは、人気ライブの際には入場整理券を午後3時くらいに配り始めていました。私たちは前の方の席に座りたい一心で、お昼過ぎにはPIT INNの前に着くように行きました。それでも私たちが着いた時には、既に十人位の人がもう並んでいました。

あの日は、2月末か3月だったので、厳寒期の凍れるような寒さではありませんでしたが、それでも何時間も外でただ突っ立って待っている身としては寒くて、なかなかつらいものがありました。することもないのでアヤと雑談して過ごしていたのですが、そのうちに何かがきっかけで、私たちのすぐ後ろにひとりで来ていた関西弁の同い年くらいの男の子も会話に加わることになりました。

私たちの会話といったら、もちろん思い出すだけで直ちに穴を掘って入りたくなるようなもので、最近の音楽動静について粋がって話すというものでした。その男の子も関西のアクセントで私たちに負けずに「ポンタはさぁ」とか「最近の加津美はね」などといっぱしの物言いで会話に加わってきたのでした。

「ポンタ」というのは、もちろん憧れのドラマー村上秀一のことですし、「加津美」というには、もちろんあのギタリスト渡辺加津美のことでした。こうしてまるで自分も彼らの仲間でもあるかのように話をするというのが、あの頃のある種のお約束でした。あのレコードよりこのレコードを聴くべきだとか、ベーシストなら誰々を聞かなくちゃねなどと、3人で大いに(穴を掘って入りたくなるような)話で盛り上がった頃、整理券が配られました。

これから3時間ほど、腹ごしらえでもして自由に過ごしてきていいですよという合図でした。私たち3人は既に意気投合していたので、それじゃ、一緒にどこか喫茶店にでも行こうかということになりました。そして、ほど近い喫茶店に入って、そこで初めてお互いの自己紹介をすることになりました。

彼は関西弁だったのでどこから来たのか聞いてみたら、彼は今朝神戸から来たばかりだというのでした。しかも大学受験が終わったばかりだというのです。私たちより一学下の男子でした。第一志望の大学に合格したので、ご褒美に東京旅行をプレゼントしてもらえることになった、しかも行きたくてたまらなかったYMOのライブのチケット代もお父さんに出してもらえたということでした。

大学合格祝いに関西から東京旅行とはなんて豪勢な!と私たちは感心しきりでした。私たちは、毎日せっせと授業の合間を縫って勤勉にアルバイトをしてPIT INNのチケット代をなんとか捻り出すといった生活でしたから、合格祝いにしては凄いなぁと思いました。

彼は、東京の大学に行かないことになったから、それで出してくれたんだよと言っていました。それで今日はどこに泊まるの?と聞いてみたら、彼はなんでもないようにホテルニューオータニだと答えたのでした。

私とアヤは顔を見合わせて「ホテルニューオータニィ?!」と繰り返しました。昨日まで高校生だった男の子がひとりで泊まるホテルがニューオータニだとは驚きました。そこで一体どんな大学に合格したのか聞いてみたら、関西の有名国立大学の医学部に合格したということでした。東京旅行をプレゼントしてくれたお父さんは開業医だとも言っていました。この世には、別世界というのが確かにあるのだと思いました。

◇ ◇ ◇

この時のライブだったのか、それとも他のライブだったか、記憶が混ざってしまっているのかもしれませんが、YMOは自分たちの曲以外にも色んな曲を演奏してくれて、あの頃流行っていたピンクレディのUFOの演奏をしてくれたのは印象的でした。憧れのミュージシャンたちがみんなで「UFO」の音に合わせて、指を揃えて頭の後ろから手のひらを出す仕草が忘れられません。なんだか歌謡曲を小バカにしてした自分自身に冷や水をぶっかけられたように感じました。良いものを見抜く感性が私にはないのかと思った忘れられない瞬間でした。

PIT INNのライブは、大体いつも客席からミュージシャンの飛び入りがあったりして、それがまた盛り上がりのきっかけになったりするので、予定通りの時間に終わった試しはないのですが、その日も夜が更けるにつれてどんどん盛り上がり、遂に私たちの終電の時間になりました。確か乃木坂駅を0:13とか0:20とかに乗らなくてはならなかったので、まるでシンデレラのような私たちでした。

それでも、YMOのライブという滅多にないこの機会を終電ごときでみすみす失うのはあまりにもったいないと、アヤと2人でさっき3人で過ごした喫茶店は終夜営業だったからこのまま見続けようと決めました。他の人たちも誰も席を立とうとはしませんでした。

あの頃の私たちにとっては何ものにも変え難いYMOのライブが終わり、アヤと2人でさっきの喫茶店に向かおうとしたら、私たちの様子を見ていた神戸の男の子が「あのう、こんなことを言っては失礼かもしれないけれど、今夜泊まるところがないのならば、良かったら僕のホテルに来ませんか? 今日のライブの話をもっとできたら嬉しいし(原文は関西弁)」とおずおずと提案してくれたのです。

私たちはもちろん躊躇しました。しかしそれは彼のことを信用していないからではなく、私たちがそんな高級ホテルに泊まるような身分ではないからでした。私たちはまだ何者でもない、ただのアルバイトで稼いでいる大学生でした。

すると彼は「ホテルの部屋はツインルームで、ソファもあるから、2人にはそれぞれベッドで寝ていただいて、僕はソファで寝るのでどうか安心してもらいたい。なんなら一晩中ホテルの部屋で語り明かしたっていい、今日のライブの話を一緒にして欲しい。YMOの話でこんなに盛り上がれる友だちは神戸にはいないんだ(原文関西弁)」と熱心に誘ってくれるのでした。

ひとりなら行くこともなかったでしょうが、私たちは2人だったし、神戸の彼とは昼間から意気投合していて、まるで高校の同級生のような感覚だったので、それではと彼の誘いにのることにしました。深夜の六本木から赤坂見附のホテルニューオータニへタクシーで向かう時、もう明日から地に足の付いた生活が送れなくなるのではないかと怖くなったことを覚えています。

結局、その晩は夜が白むまで、ホテルの高層階のツインルームでYMOについて語り合い、いい加減に眠たくなった頃、「僕はソファで」と固辞する彼に「そんなわけにはいかない。それではいくらなんでも私たちが人でなし過ぎるから」と負けずに固辞して、結局、アヤと私でひとつのベッド、彼は彼でひとつのベッドで眠ることになりました。洋服は着たままでした。

翌朝、10時過ぎに目が覚めて、カーテンを開けて下を見下ろしたら弁慶橋が見えて、本当に夢じゃなかったんだと思いました。彼は女の子2人とホテルの同じ部屋で朝を迎えたという事実を誰かに自慢したいと言って、ホテルの電話から神戸の友だちに電話をかけて関西弁で事情を説明し、私たちもそれぞれ電話口に出て、「うん、本当よ。一緒に一晩を過ごしたのよ、私たち」と告げました。彼も「な、嘘やないやろ、ホンマやホンマ」と言っていました。

その後、彼とは住所も電話番号も、多分フルネームも、一切の連絡先を交換することなく別れました。今後、私たちの人生が交差することはないとお互いに思っていたからかもしれません。「僕はソファで」のエピソードのように、彼はきっと紳士的で思いやりのあるいいお医者さんになっていることと思います。

◇ ◇ ◇

YMOの大ファンだった私は、渋谷のPARCOにあった、当時高橋幸宏のお店と噂された店舗で、〈yellow magic orchestra〉というコンピュータロゴが胸に描かれたトレーナーを買いました。6千円か、7千円の赤いトレーナーでした。当時の私にとっては清水の舞台から飛び降りるほどの値段でした。私の数少ないワードローブの一張羅となりました。

このトレーナーがものすごく嬉しかったというのは、初めてのパスポートの写真を撮りに行く時にこれを着て行ったことからもよくわかります。ですから私の最初のパスポート写真には胸のところに〈yellow magic orchestra〉の文字が写り込んでいて、外国にいる時はいつもYMOと一緒でした。

YMOは、私たちがPIT INNのライブに行った年の夏には「東風(Tong Poo)」がヒットし、秋には「ライディーン」や「テクノポリス」が大ヒットとなり、瞬く間にスターダムを駆け上がっていきました。100人も入れば身動きも取れないようなPIT INNとは大違いの大きなコンサートホールで連日満員のコンサートが行われている様子が報道されていました。

日本国内のみならず、ワールドツアーも大盛況で、もはや社会現象といってよい状態になっていきました。日本武道館の映像もニュース番組で目にしました。あっという間に私たちの完全に手の届かない存在になっていきました。

その後アヤは美大を、私も大学を卒業した頃、坂本龍一は映画「戦場のメリークリスマス」で新境地を切り拓きました。私たちは、それぞれ別々の会社に勤め、時々は高校の同級生も一緒に、なんと言われようとやっぱり憧れの下北沢で時々会っておしゃべりしていました。

それでも次第に疎遠になっていた頃、家の近くでばったり会い、その時に私がもうそろそろ会社を辞めてフランスに行くつもりだと話したら、アヤは、実は私も会社を辞めてイギリスに行くつもりだといったので驚きました。それではと、ロンドンやパリで待ち合わせしてお互いの家に泊まったり、ヨーロッパをあちこち2人で歩き回りました。

◇ ◇ ◇

2014年7月、私に乳がんが見つかって検査結果を待っていた時、坂本龍一も中咽頭がんが見つかったと公表し、治療に専念するため活動を一時中止するとの発表がありました。私は勝手に「がん患者の同期生」だと感じ、あの頃の懐かしい日々を思い起こしていました。翌年9月には復帰も伝えられ「復帰までも同期生」だと心の中で喜んでいました。

その後も彼が大活躍を続ける姿を遠目に眺めながら、あの若き日に「一緒に死んで」る場合じゃなかったと思いました。

そして2021年1月、今度は直腸がんの公表があり、6月にはステージ4であるという事実も明かされました。勝手に「がん患者の同期生」だと思っていただけに、肺への転移とその困難な治療の発表は私にとってもつらいものでした。

それでも、本年1月5日に放送された「NHK  MUSIC SPECIAL 『坂本龍一 Playing the Piano in NHK & Behind the Scenes』は見応えがあり、素晴らしく、懐かしく、しかし同時につらく、悲しく、私には言葉にするのが難しい番組となりました。それでも、だからこそいつまでも心に残る番組となることでしょう。制作してくださった関係者の皆様に心からのお礼を申し上げます。

そして、まだこの番組を消化できずにいた1月11日に伝えられた、高橋幸宏の訃報には言い知れぬショックを受けました。私は何も知らずにいました。来たる2月16日の22:00から同じ「NHK  MUSIC SPECIAL」で「高橋幸宏 創造の軌跡」が放送されるそうです。

日々、新しい音楽に心ときめかせ、ライブ後の思いがけないアバンチュール(?)も体験し、トレーナー一枚で幸せな時間を過ごし、本当にワクワクした若き日々を送ることができたのも、YMOのお陰でした。感謝の気持ちを持って番組を観たいと思っています。



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