231.祖父母宅でのお正月

本稿は、2020年1月4日に掲載した記事の再録です。

お正月が過ぎるとUターンラッシュが始まり、駅や空港で孫と別れるおじいちゃんやおばあちゃんの姿がニュース映像に映し出されます。それを見るたびに毎年、私は自分の祖父母のことを思い出さずにはいられません。

母方の祖父母は大阪に住んでいました。私の育った家では、東京の郊外の自宅でお正月を迎える年と、大阪の祖父母の家でお正月を迎える年が一年おきくらいにありました。

家でお正月を迎える年は、家中を掃き清め、年末に家で黒豆を煮たり玉子焼きを焼いたり、かまぼこや栗きんとんを買ってきて、三色の重箱に詰めたりする母の手伝いをし、紅白歌合戦が始まる頃には枕元に新品のお洋服をきちんと畳んで眠りについたものでした。

そしてお正月には、羽子板で羽根つきをしたり、かるた取りや福笑いをしたり、トランプや双六で遊びました。コマ回しや凧揚げもしました。私の父は凧揚げの名人で、弟の凧に、凧本体の十倍くらいの長い長い尾を新聞紙で貼りつけて、「ちょっと貸してみろ」とかいいながら、風の具合を見ながらグングンと高く揚げていきました。弟の凧だか父の凧だか毎年わかりませんでした。

商店街はしんと静まりかえり、三が日はお正月という空気が張り詰めていて新しい年を迎える緊張感が街全体を覆っていました。お店の多くは4日が初売りでしたが、5日から、6日から、7日からというお店も珍しくはありませんでした。家々の門には門松と日の丸がずらりと並んでいたものでした。

***

一方、大阪に行く年は、元旦早くに家を出て、新幹線で大阪に向かいました。新幹線の中から見事な富士山が見えるのがとても楽しみでした。

大阪に着くと、東京よりも着物を着ている人の割合が多いように感じられました。昭和40年代(1965年〜1974年)のお正月を思い出すと、「もう最近では日本髪を結う人も少なくなった」などと耳にしましたから、粋筋のお姐さん方の中には日本髪を結っている人もいたのかもしれません。

街行く人を見ると、東京だと二、三十人にひとりくらいしか着物を着ている人はいませんでしたが、大阪だと十四、五人にひとりくらいいたというのが私の印象です。大阪の方が着物率が高い感じがしました。

祖父母の家に着くのは大抵お昼過ぎでした。木の香りのする玄関をガラリと開けると、下駄箱の上には千両と松で花が生けられていて、子どもにとっては高い玄関の上がり框を上がると、屏風の向こうには懐かしい祖父母の家の香りが充満していました。

祖父母の前に両手をついて、丁寧に新年のご挨拶をし、お屠蘇で真似ごとの祝い酒を舐め、祖母の手作りのお重箱をあけ、お雑煮で新年をお祝いするのが常でした。お重は、自宅の三色のポップなお重箱とは違って、塗りの御重でした。お正月だけに使う箸置きもうっとりするくらい綺麗なものでした。

自宅のお正月とは違って、羽根つきや凧揚げではなくて、祖父母の家では百人一首か将棋・囲碁で遊びました。百人一首は、まだ歌を全然覚えていない頃は、上の句が読まれている間はぼんやりと聞いていて、下の句が始まった途端に前のめりになって札を探すというのが私たちでした。坊主めくりは大いに盛り上がりました。

将棋はルールをちゃんと覚えるまでは、もっぱら将棋崩しをして遊びました。囲碁に至っては、未だにルールをよく理解していませんが、五目並べをして遊びました。他にもおはじきやお手玉やあやとりをしたり、祖父母の家でも福笑いや双六をしてたくさん笑いました。

祖母は暗いうちから起き出して、まず火鉢のための火熾しをし、湯を沸かし、家族の者が顔を洗う時にぬるま湯で洗えるようにしてくれていました。小学校に上がる前の記憶では、まだお台所には竃(かまど)があって火を吹きながら御釜でご飯を炊いてくれていたのを覚えています。

祖父は、朝起きると裏庭に出て、太陽に柏手を打って拝み、簡単な体操をするのが習わしでした。まだチューブの歯磨き粉が売り出される前には、粉の歯磨き粉を歯ブラシにつけて歯を磨いていたことをよく覚えています。祖父の髭剃りの仕方は、父のそれとは違って、しゃぼんを泡立てて、顔の下半分にシェービングブラシできれいに塗りつけていくのが興味深く、危ないから近寄ってはダメと言われても、ついつい近くでじっと見つめていたものでした。

祖父母の家では、元日の夜は必ず「すき焼き」と決まっていました。普段の料理はすべて祖母が作っていましたが、こと「すき焼き」に関してのみホスト役は祖父でした。醤油と砂糖と酒の分量をうまく配合しながら味付けをして、肉や野菜を入れていくのは祖父の役目と決まっていました。

***

楽しいお正月はあっという間に過ぎ去って、新学期に間に合うように東京の郊外に戻るのですが、いよいよ帰るという日の朝、注文しておいた牛肉を祖母がお肉屋さんに取りに行って、それをお土産に持たせてくれたので、お正月には元日と、七日に二回すき焼きが食べられました。

小さな子どもの頃は、祖父母は新幹線のホームにまで送りにきてくれていました。ニュース映像と同じ光景でした。しかし次第に祖父母が年を取るにつれて、新大阪駅までは大変だからと環状線の大阪駅までとなり、さらに最寄りの駅の改札口までとなり、私が高校生になった頃には家の玄関でお別れすることになりました。

祖父は毎回毎回、これが「今生の別れ」というように涙を流し名残りを惜しみ、反対に祖母は「早く出なさい、もういいから早く行きなさい」と私たちを促してくれるのでした。見事に反対の行動でしたが、どちらも私たちのことを思ってのことだとわかっていました。

祖父が亡くなって40年、祖母が亡くなって38年の月日が流れました。それでも、毎年お正月のUターンのニュース映像を見るたびに、祖父母の涙と笑顔が思い出されてなりません。


<再録にあたって>
今年は、コロナが5類に移行してから最初の年末年始ということで、人の流れが以前のように戻ってきたようです。駅で、空港で、祖父母と孫らが久しぶりに対面した笑顔が報道されています。私にとっては、もう半世紀以上も昔のことなのに、いつまでも祖父母の笑顔と涙が忘れられません。

000.還暦子の目次へ

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?