160.オフコンバイト

本稿は、2020年8月1日に掲載した記事の再録です

大学生二年生になったばかりのGWに、大阪の祖母が転んで入院してしまいました。知らせを受けた母はすぐにでも飛んで行こうとしましたが、どうしても外せない用事があり、とりあえず私が先発隊として大阪に駆けつけることになりました。

そういういきさつで一人で新幹線に乗ったわけですが、富士山側の二人がけのシートでたまたま隣り合わせた女性と、何かのきっかけで雑談を始めたら話が弾み、その内に、彼女がアルバイトを紹介してくれることになりました。

彼女も大学生で、ひとつ上の三年生でした。なんでも仕事内容はオフコンのオペレーターだというのです。オフコンとは、オフィスコンピュータの略でした。1979年当時は、まだパーソナルコンピュータという言葉もなく、一部の専門家やマニアがマイクロコンピュータ(マイコン)を使っていたくらいで、多くの企業では大抵その企業独自のニーズに合わせて開発された大型コンピュータを使用していました。

紹介してもらったアルバイトは、出版社の在庫・出荷管理のコンピュータのオペレーターでした。そのアルバイトの圧倒的な魅力は、時給の高さでした。あの頃ファストフード店のアルバイトの時給は380円だったのですが、このアルバイトの時給は昼間は800円、夜は1,000円だというのです。

新幹線の中で偶然出逢った見知らぬ人からの高額なアルバイトというのは、ちょっと怪しい感じがしますが、その方の知的で丁寧な説明を聞いていると、私も是非やってみたいと思うようになりました。

結局、このアルバイトは卒業間近まで三年近くずっと続けました。私は大学の授業料を自分で支払っていましたが、それができたのはこのアルバイトのお陰といっても過言ではありませんでした。大学時代を通じ、私の経済的な基盤となる大切なアルバイトでした。

このアルバイトは、コンピュータのオペレーターという当時としてはものめずらしい仕事内容もさることながら、派遣労働という業務形態で、こちらもまた当時としては斬新なものでした。

月に一度、土曜日のお昼過ぎに、女性社長のオフィス兼住居の木造アパートに、私たち女子学生ばかりが集合します。全員で十五人前後いました。隣の部屋にはキーパンチャーと呼ばれる女性も数人いて、ガチャガチャと大きな音を立てながら機械に向かっていました。心ひそかに床が抜けるんじゃないかと心配するほどのボロアパートの二階でした。新幹線の中で出逢った彼女も来ていました。

そこでみんなで話し合いながら翌月のシフトを決めるのです。来月は試験があるからあまりシフトを入れたくないとか、旅行費用を貯めたいから来月は目一杯働きたいとか、みんなそれぞれの希望を出し合いながら、また譲り合いながら、昼間の二名、夜間の二名を決めました。

昼間は13:00〜17:00までの4時間、時給800円なので3,200円、夜間は18:00〜20:00までの2時間、時給1,000円で2,000円でした。もし都合が悪くなっても、メンバーの誰かに電話して代わりの人を見つけることができれば、予定変更も自由という柔軟なアルバイトでした。当時は全員がみんなの電話番号一覧表を持っていました。

今日では、派遣労働というのは当たり前の働き方ですが、当時は、友人にこのような制度を説明してもみんな初めて聞くといった風で、社員はもちろんアルバイトも企業の直接採用が当たり前という時代でした。派遣労働者数の推移を見ても、大抵は1990年頃からの統計で、1970年代のデータを見つけることはできません。

実際のアルバイトは、出版社のコンピュータルームに直接出向きます。これを書きながら今初めて気づきましたが、思えばあの頃の企業のセキュリティ対策意識はほとんどないも同然で、アルバイトの私たちは一切のチェックを受けることなく、そのまま出版社内部のコンピュータルームに入ることができました。

コンピュータルームは、夏でも冬でも冷房がガンガン効いていて、手がかじかむほどでした。テープレコーダーの親玉みたいなものが組み込まれ、小さなランプが点滅するマシンがウィーン、ウィーンと音を立てながら動いていました。コンピュータ本体がかなりの熱を放つので強力な冷房が必要だったようです。スキーウェアが欲しいくらいでした。

最初に寒いコンピュータルームで本日の入力伝票を社員の方から受け取り、データのチェックをしたり、書類を入力しやすいように取次店ごとに仕分けし、注意事項が有ればそれを聞くことから仕事は始まります。

入力は編集部の一角にあるオフコンの端末から行いました。書店から来た注文を取次店ごとに在庫から出荷するための伝票をコンピュータに打ち込んでいくのでした。私は秋になると書店でもアルバイトを始めたので、自分たちが書店から発注すると、出版社ではこういう作業が起こるのかと、社会の点と点が線になるような感じがしておもしろく思いました。

最初の頃は誰もがもたもたするのですが、数ヶ月すると慣れてきて、要領よく入力できるようになっていきます。この本は人気があるなとか、この本は久しぶりの発注だななどと思う余裕も出てきます。二年目、三年目などは熟練工という感じで物凄い勢いで入力できるようになっていきます。

夜の部では、まだ20:00にならないうちにすべての伝票の入力が終わり、社員の方に夕飯をご馳走していただいたことが何度かありました。また時々は「売るほどあるんだから」と、売り物の本をいただくこともありました。その時いただいた本のうち何冊かは今も本棚に並んでいます。

このアルバイトは社員の方の指示が素晴らしく的確で、しかもユーモアのセンスが抜群だったことと、一緒に働いていた同僚の仲間たちがみんな尊敬できる人ばかりだったことで、三年近く働いて一度もイヤな思いをしたことはありませんでした。

同僚はみんな、違う大学、違う学部だったので、まったく知らない世界のことをたくさん教えてもらいました。世界が一気に広がりました。フランスかぶれの私には、プルーストの『失われた時を求めて』を卒業論文のテーマにしている同僚と一緒に働くのは殊の外楽しみで、前の日からワクワクするほどでした。

学校帰りの二時間、あるいは午前中だけ授業のある日の午後と、都合の良いところだけを選んで働けたおかげで、他にもいくつものアルバイトをかけもちしながら長く続けることができました。みんなが互いに助け合いながらという雰囲気がありました。

学生時代にはひたすらアルバイトしていたので、四年生の頃は年収が百万円を超えていて、就職したらこの年収に届かないのではないかと密かに心配していたくらいでした。実際には就職してからの方が多少年収は上がりましたが、学生時代も実によく働いたものでした。

◇ ◇ ◇

冒頭で述べた祖母の入院ですが、私のあとに入れ違いに母が、そしてその後父もやってきて色々と話し合った結果、もうこれ以上老夫婦ふたりだけでの暮らしは難しいという結論に達し、大阪の家を処分して、祖父母は東京郊外の私たちの家にやってきて、一緒に暮らすことになりました。

大好きな祖父母と一緒に暮らせるようになって私はとても幸せでしたが、それからしばらくして祖父を、そして数年後には祖母を見送ることになりました。二人とも自宅で家族で看取りました。介護保険法が1997年に国会で成立し、2000年に施行される二十年近く前のことです。


<再録にあたって>
学生時代は、本当によく働き、よく学び、よく遊びました。私はこの高額なアルバイトのおかげで、自分の力で学費や生活費を稼ぎ出すことができました。高校の同級生の中には厳しい新聞奨学生になった者もいる中で、私にとっては本当に有難いアルバイトでした。今思い出しても感謝の念が湧いてきます。


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