121.お菓子の小包

本稿は、2019年11月16日に掲載した記事の再録です。

母方の祖父母は大阪に住んでいました。子どもの頃、2、3ヶ月に1度くらい、お菓子の入った小包が大阪から届きました。小包はおおよそ3、40cmくらいの立方体の箱でした。記憶の底をぼんやりと探ると、小さな子どもの頃はりんご箱のような木箱だったかもしれません。そのうちに木箱からダンボール箱になっていったように思います。

小包を開けると、中にはチョコレートやビスケット、キャラメルにおこし、飴やドロップなど、大好きなお菓子がぎっしり詰まっていました。祖父母は、買い物に行く度に色々な種類のお菓子を買い集めてくれて、ある程度集まるとそれを箱に詰めて小包で送ってくれるのでした。

数あるお菓子の中でも最も嬉しかったのがマーブルチョコレートでした。鉄腕アトムの放映が白黒テレビで始まった頃、提供は明治製菓で、番組と共にマーブルチョコレートは、あっという間にお菓子の主役級に躍り出ました。丸い筒をポンッと音を立ててあけると、中から色とりどりのチョコレートが出てきます。

木琴の軽快な音に合わせて、早口言葉のような「♬マーブル、マーブル、マーブル、マーブル、マーブルチョコレートッ」というコマーシャルソングを口ずさみながら、何色から食べようか、最後は何色を残そうか、子ども心に悩ましく、それがまた楽しみでもありました。マーブルチョコレートをいくつか手に握りしめて遊びに夢中になっていると、掌の中でチョコレートの色が溶け落ちてしまったり、コロコロと転がっていって家具の隙間に入ってしまったり、おまけのシールをタンスや柱に貼って叱られたりと、ハプニングにも事欠きませんでした。子どものいる家はどこの家もあちこちにシールが貼られていました。

森永のミルクキャラメルも、当時のお菓子の横綱級でした。噛んじゃダメだと言われても、私はすぐに噛んでしまってあっという間になくなってしまいました。不二家のミルキーも口に入れるとすぐに噛んでしまって、「もうひとつ」とよくおねだりしたものでした。なかなか噛めない飴は、赤い缶に入った榮太郎の梅ぼ志飴でした。金色の三角錐の飴と赤い飴が入っていて、赤い飴の方が数が少ないので「当たり」みたいな感じがありました。三角の飴を太陽に透かしてみると、キラキラと輝いて本物の宝石のようでした。金色の飴といえばカンロ飴も忘れられません。こちらはひとつひとつ包装されていました。

チョコレート、キャラメル、ときたら次はビスケットです。森永のマリービスケット、チョイスなどをよく送ってもらいました。他にも、1本1本が銀紙で包まれたフィンガーチョコレート、たまごボーロ、都昆布、ロッテのペパーミントガム、コーヒーガム、かりんとう、甘納豆、金平糖、雷おこし、千歳飴、ハッカ飴、ニッキ飴、缶に入った佐久間ドロップ、それに食べたあとも遊べるサイコロキャラメルなど、いろんな種類がありました。

ハイクラウンチョコレートは、銀紙で包まれたちょっと高級感のあるチョコレートで、白い箱にエンブレムのような赤い模様のある箱に入っていました。キョロちゃんのついているチョコボールは、金や銀のクチバシが当たりで、おもちゃの缶詰が当たることになっていましたが、私はハズレの黄色いクチバシしか見たことがありませんでした。それでも毎回「今度こそ当たりかも」と楽しみにしては、また黄色でした。

祖父母が送ってくれるお菓子は「昔ながら」のものが多く、いわゆる「新発売」のお菓子は入っていませんでした。けれども一緒にお買い物につれていってもらい「好きなものを」と言われて、LOOKチョコレート、グリコアーモンドチョコレート、チョコベビー、アポロチョコ、ポッキーなどを買ってもらうと、次の小包には新しいお菓子が加わるのです。

宅急便が登場するまで、小包でものを送るのはかなり面倒な工程が必要でした。ヤマト運輸の小倉昌男氏は、宅急便の誕生秘話として、著書で次のように述べておられます。

… ある時、息子の洋服のお古を、千葉に住んでいた弟の息子に送ってあげようかと思った。ところが、運輸業の社長である自分に、送る手段がない。当時の運送会社はもっぱら企業を顧客としており、家庭から出る細々とした荷物など相手にしていなかったからだ。
家庭の主婦は日ごろ不便な思いをしているに違いない。国鉄小荷物と郵便小包はあったが、どちらも “親方日の丸“ である。「荷札をつけろ」とか「ひもでしっかり荷造りしろ」といった面倒な指示が多いうえ、日数もかかるので、主婦は敬遠していた。
『経営はロマンだ! 私の履歴書』小倉昌男著 日経ビジネス人文庫 p.110-111より

実際、祖父母からの小包は、お菓子を詰めた木箱あるいはダンボール箱は茶色い包み紙(クラフト紙)で丁寧に包装され、その包み紙の表側には宛先が、裏側には差出人が毛筆で大書されていました。そしてその上から麻のひもを縦横2箇所ずつ十字になるように結束して、荷札が数ヶ所針金でとめられていました。荷札にももちろん宛先が細筆で書かれていました(当時の郵便小包の写真)。

当時、大阪の祖父母の家から東京の郊外の私の家まで、郵便小包は5日から1週間ほどかかりました。郵便小包と共に「今送りました」というお知らせのハガキも同日投函されるのですが、ハガキが届いてからいつまでたっても小包が届かなかったり、反対に小包が届いてしばらくしてからハガキが届くことも珍しくはありませんでした。

宅急便は1976年1月20日に初日11個の受注で始まり、またたく間に人々の暮らしに浸透していきました。クロネコヤマトのサイトによれば、1979年に約1千万個、1984年に約1億個を突破し、1993年に約5億個、2004年に約10億個、2014年に約15億個と成長していったそうです。

また入れ物であるダンボールそのものも、この時代急速に進化していきました。全国ダンボール工業組合連合会のサイトによれば、ダンボールは日本では1909年に製造が始まり、戦後1951年から、木材資源保護のため歴代内閣によって「木箱から段ボールへの切替え運動」が進められたのだそうです。1960年の段ボール生産量は約9.8億m²、国民一人当たり10.4m²だったものが、1990年には123.4億m²、国民一人当たり99.8m²となりました。30年で約10倍です。

祖父母がお菓子の小包を送ってくれていたのは、1960年代初頭から1970年代半ば頃でしたから、祖父母は一度も宅急便の恩恵を受けることはなく、最初の頃は重い木箱で送ってくれていました。毎回毎回、面倒な梱包をして、墨をすって毛筆で宛名を書き、麻紐をかけ、荷札の針金をキリキリと巻き付け、出来上がった小包の麻紐に指をかけて郵便局まで運んでくれていたのです。

祖父母の書く文字は、毛筆でも、万年筆でも、行書という書体でした。簡単にいうと一文全部が一筆書きでできているような流れるような書体です。子どもの私にはなかなか解読できず、母に読んでもらって初めて理解するということが度々ありました。

お菓子のお礼状を書くたびに、まだ今はつたない字しか書けないけれど、大人になったらさらさらと流れるような文字が書けるようになるのだと信じて疑いもしませんでした。将来、まさか還暦になっても楷書しか書けず、そもそも縦書きで文字を書く機会は激減し、日本社会全体から行書自体が消えてなくなるとは想像だにしていませんでした。

今、還暦になって思うのは、店頭でお菓子をひとつひとつ手に取って、私たち子どもの喜ぶ顔を目に浮かべながら吟味していた祖父母は、お菓子を受け取る私たち子どもよりもずっと幸せを感じていただろうということです。

こうして歳を重ねて、幼い頃のことを思い出すと、私たちは孫としてこの世に生まれ、祖父母の愛情に包まれて笑っているというだけで、祖父母をなにより幸せにしていたのだと思えるようになりました。


<再録にあたって>
明治30年生まれの祖母が、私が生まれた昭和34年には満年齢62歳で、ちょうど今の私と同じ年でした。私は現在、自分のことを電車やバスの優先席に座るのは遠慮すべき「若いおばさん」だと思っていますが、あの頃の祖母は本当におばあさんでした。

こうして自分の身近な思い出を思い起こすだけでも、社会の変遷を感じます。

1976年に始まった宅配便について、「2014年には約15億個と成長していったそうです」と書きましたが、2021年8月6日に発表された国土交通省の資料によれば「令和2年度の宅配便取扱個数は、48億3647万個で、前年度と比較して5億1298万個・約11.9%の増加となった」そうです。時間指定までできる便利な宅配便のことを知ったら祖父母は驚くことでしょう。


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