246.消えゆくお葬式

本稿は、2022年5月2日に掲載した記事の再録です。

小学生の頃(1966年-1971年)

私が初めて人の「死」に接したのは、小学2年生の時のことでした。近所の子どもが水に落ちて亡くなったのでした。

近くにあった用水路は普段水は通っていませんでしたが、2メートル四方ほどの一箇所だけが深くなっていて、そこにはいつも雨水が溜まっていました。子どもたちはみんなそこをタニシの池と呼んでいました。深さは子どものふくらはぎ程度の浅いものでした。当時はみんな半ズボンやをスカートをはいていたので、時々水の中に入って、タニシを取ったり虫を捕まえたりしていました。

事故が起きたのは、夏の終わりの夕方でした。幼稚園に通う3つ下の弟がいつも仲良く遊んでいるお友だちの、まだ2歳か3歳の小さな弟でした。その日、私の弟はたまたま一緒ではありませんでしたが、いつものようにタニシの池で男の子たちがタニシ取りをしていたら、お兄ちゃんと一緒に来ていた弟が、みんなが目を離したほんのわずかの隙にその池で溺れてしまったのです。

大人を呼びに来た子どもらの声で、町が騒然となったのを今でもはっきりと思い出すことができます。西の空が赤く染まった夕暮れのことでした。

翌日か翌々日、お葬式行われました。当時お葬式は自宅でやるものでしたから、近隣の住人はほとんど全員が参列しました。庭先に焼香台が置かれ、縁側から見ると家の中に祭壇が飾られ、その両脇に男の子のお母さんや親戚の人たちが座布団の上に座っていました。弟の幼稚園のお友だちも紺色のチョッキを着て、膝小僧を揃えておばさんの横で正座をしていました。

大人たちは全員黒い服を着ていて、手に手に数珠を持っていました。お坊さんがキラキラ光る衣をつけてお経をあげている間、おばさんがぼんやりした表情で、焼香客に頭を下げていました。

庭に設置された焼香台の前に、二列に並んだ大人たちがお焼香をあげた後に、私たち子どももお焼香をさせてもらいました。見よう見まねでやりました。どの子もみんなちゃんとお焼香を済ませることができました。子どもだったので喪服などあるわけもなく、みんな普段学校に行く服装でした。

私がよく覚えているのは、黒いリボンがかかった祭壇の写真と、霊柩車に乗り込む時に泣き崩れるおばさんの姿と、そのおばさんにも負けないくらい泣いている私の母の姿です。母だけでなく、どこの家のおばさんも、とめどなく涙を流していました。人が亡くなるということは大変なことなのだと思いました。

◇ ◇ ◇

小学生の頃、霊柩車が通りかかると、誰かが「親指隠せ!」と言い、みんな急いで親指を内側にして手を握りしめ、ご丁寧にそのコブシをさらにポケットの中に隠したものでした。そして霊柩車が通り過ぎるまで誰も口をききませんでした。そうしないと「親の死に目に会えなくなるから」とみんな信じていました。

当時の霊柩車は、黒い寝台車の上にはお神輿というか、神社仏閣ようなきらびやかな彫刻がほどこされた屋根が乗っていて遠目にもすぐに霊柩車だとわかりました。私はコブシを握りしめながら、親の死に目に立ち会うということは、そんなに重大なことなのかと子ども心に思いました。みんな真剣な面持ちで手を握りしめ口も真一文字に結んでいました。

同じような言い回しに「(そんなことでは)畳の上で死ねない」というのもありました。当時の私には畳の上で死ぬことが、どうしてそれほど重要なことなのかわかりませんでした。


中学生の頃(1972年-1974年)

中学生の時、プールの時間の直後に同級生の女の子が倒れて病院に運ばれ、そのまま亡くなったということがありました。プールサイドから外階段を降りようと出入口のシャワーが出てくる箇所を通り抜けようとした時、私の二人前を歩いていた同級生のひとりがシャワーの水しぶきを浴びながらまるでスローモーションのように崩れ、足元の畳半畳ほど水溜りに倒れ込みました。

悲鳴と同時に先生方が駆けつけてきて、直ちに男性教諭の車で病院に運ばれて行きました。私はシャワーと水溜りでびしょびしょになった彼女を車に乗せる時、先生の車のシートがびしょ濡れになってしまうのではないかと心配しました。

それは午前中のことでしたが、給食を食べ終えて、午後の授業が始まるのを待っていると、担任の先生が神妙な面持ちで教室に入ってきて「悲しいお知らせがあります」と口を開きました。彼女が亡くなったことを知らされたとき、聞こえているのに意味がわかりませんでした。後になって、あの時、彼女の容態よりも車のシートを心配した自分が情けなく許せなく、随分長いこと自分を責めました。

彼女の葬儀の時、棺の中で眠る彼女の顔の周りの同級生ひとりひとりが菊の花を飾っていきました。彼女の真っ白な美しい顔を、私は生涯忘れることはないでしょう。出棺の際の、彼女のお母さんの泣き声も忘れることはできません。翌年、彼女の命日に合わせて、同級生有志でお花を持って彼女の自宅を訪ねましたが、ご両親はもう既に転居されていました。

その翌年、今度は同級生の男の子が、無免許運転でバイク事故を起こし即死しました。中学校からも大勢告別式に参列しました。やはりご自宅でした。彼のお父さんが「どうか皆さんは、うちの息子のようなバカな真似はしないでください」と声を振り絞るように仰った声が今も耳の底に残っています。

◇ ◇ ◇

あの頃、霊柩車は日常生活の中で頻繁に見かけました。通夜や告別式も、今よりももっと日常生活の中にありました。

私は東京の西の郊外で育ちましたが、駅前の電信柱には、チラシを縦半分くらいにした用紙で黒枠に囲まれた、人の指の形と共に◯◯家はこちらと描かれた貼り紙がしてあるのをよく見かけたものでした。その貼り紙はあちこちの電信柱に貼られていて、その貼り紙の指のさす方向に歩いて行けば、通夜や告別式が行われる故人の家に到着するようになっていました。

近所でお葬式があれば、隣近所の人は手伝いに行ったり、弔問に出かけたりしていましたから、子どもも喪服姿の大人たちの姿を家の近くでよく目にしました。なにしろ、葬儀の時には高さ2m以上もあろうかという大きな花輪がずらりと並んでいて、黒白幕で塀が囲まれていましたから、どこの家で不幸があったかは誰もが一目でわかりました。

子どもの頃は、隙間がないほどのぎっしりと飾られた花輪の数を数えては、ここのお宅はきっと大きな会社の社長さんに違いないなどと仲間内で言い合ったものです。ところで、今、黒い造花でできたあの花輪を画像検索してみても、白っぽい葬儀用の花輪はヒットしても。記憶の中にある、あの典型的な葬儀用の黒い造花でできた花輪を探し出すことはできません。

あまりにも日常生活にありふれていた指差しマークの貼り紙や、黒い造花の大きな花輪は、気がつけば、もう何年も目にすることがなくなっていました。余談ですが、花輪といえば、色違いの赤い花輪というのもあって、お店が新規開店する時や、パチンコ屋さんの新装開店の時には、この赤い花輪が並びました。黒も赤も、いつの間にか造花でできた花輪は日常の空間から姿を消しました。

今のティーンエイジャーに、かつての昭和の葬儀を説明しようとしても、当時の映像や写真なしにはなかなか難しいのではないかと感じます。


昭和の終わり頃(1975-1989)

私の祖父母は、どちらも自宅で亡くなりました。祖父の死は1979年の晩秋のある夜のことでした。みんな揃って夕食をとってから「そろそろ先に休ませてもらう」と母や祖母に声をかけ、自分で部屋へ行き布団に入ると、祖父はそのまま息を引き取りました。享年88歳の大往生でした。

私が夜9時過ぎにアルバイト先から戻ると、玄関に誰かの靴があると思ったら、近所の内科の先生で、死亡の確認をするために来てくださったのでした。

それから3年後、祖父の最期を看取ってこの世での自分の役割をすべて果たしたと安堵した祖母は、寝たり起きたりの生活ののち、84歳で祖父と同じく老衰で亡くなりました。私は職場で母からの電話を受け、泣きながら帰宅すると、その時も近くの内科の先生が自宅に来てくれていました。

年齢と共に夫婦二人の生活が難しくなった祖父母は、祖父が亡くなる年の前年に大阪から一人娘である母の住むこの地へやってきたばかりでした。それでもご近所の方々は母を思って弔問に来てくださいました。

◇ ◇ ◇

就職してからは、職場の同僚や友人のご両親の葬儀にもたびたび参列しました。受付係や返礼品をお渡しする係を引き受けたり、業務として社葬などの準備を手伝うことも増えていきました。

昭和の終わり頃までは誰かが亡くなると瞬く間に電話で知らせが入り、友人知人はその日のうちのお通夜に出席したものでした。喪服がなくてもすぐに飛んでいけるように職場には常に黒腕章が置いてありました。

あの頃私の周辺では、通夜には平服でとりあえず駆けつけるものとされていて、通夜に喪服を着て行くなど、遺族はともかく、まるで死を待っていたかのように思われるので不謹慎だという風潮があったように思います。

それでも次第に通夜にも喪服を着ていくことも増えてきました。通夜も亡くなった当日から翌日、場合によっては翌々日に行われるようになってきました。その背景には、日中行われる告別式には仕事の都合もあってなかなか参列するのが難しいので、通夜だけに参列する傾向が強まり、それで通夜がいわば本番となり、喪服を着用することになっていったように思います。

20世紀の終わり頃までは一般の人のお葬式は自宅で行うものでした。政治家や上場企業の社長や芸能人など、よほどの有名人でなければ青山斎場のようなホールでお葬式が行われることはなく、誰もが故人の自宅へ弔問に出かけました。当時は町内会の人はもとより、職場の人や学生時代の仲間などがみんな故人の家に直接お悔やみに行きました。

自宅の門の前には受付が設けられていて、勤務先の人や友人が数人で受付担当をしていて、お香典を受け取ったり、焼香後に返礼品を渡したりしていました。大きなお宅だと、玄関を上がって広間に祭壇が設けられていることもありましたが、都内の一戸建てのお宅や、郊外の住宅地では、庭先に焼香台が設けられていたことが多かったように思います。集合住宅では集会所で行われていました。

テレビなどでも、著名人のお葬式は大々的に報じられていました。私は報じられる名優や大作家の葬儀のたびに森繁久彌が弔辞を読む姿を目にして、長生きするということは、たくさんの別れを経験しなくてはならないのだと思いました。森繁久彌の弔辞は味わい深いものが多く、生前の故人の人柄や関係性を簡潔な言葉で表現するその弔辞は実に素晴らしいと感じていました。

このような報道の影響もあってか、お葬式は益々大規模化されていき、特に仕事関係では、取引先の担当者の配偶者のご母堂など、一度も面識のない方のお葬式にまで、いわば業務の一環かのように参列する傾向がどんどん高まり、香典代も負担になるにつれて、お葬式本来の悼み弔うという意味が次第に薄れていったように思います。

私も仕事としての参列が増えてきたと感じていたある日、子どもの頃から可愛がってくれた友人のお父さんのお葬式に参列することになり、お棺の中のおじさんのお顔を見た時に様々な思い出が甦り、こうして、これまでのことすべてに心からありがとうございましたと直接感謝の気持ちを伝えることができて本当に良かったと感じたことがありました。

故人を悼み、遺族に寄り添い、自らの悲しみにひとつの区切りをつけるという古来から人々が大切にしてきたお葬式のあり方を実感したのでした。


土地柄による風習の違い

父はよく「子どもの頃に食べた葬式饅頭の味が忘れられない」と語っていましたが、十七回忌も過ぎた父の葬式の際、父の弟(私にリカちゃん人形を買ってくれた叔父)が九州からきてくれたのですが、返礼品に葬式饅頭を出さないのはおかしいと言い出しました。

私自身は葬式饅頭というものは、父の昔話の中にだけに存在するものだと思っていたので、まさか現実にあるものだとは思っておらず、急いで葬儀屋さんに聞いてみましたが、葬儀屋さんも「葬式饅頭というのは、東京近郊では見たことも聞いたこともありません。それに実際に取り扱いがないのでどうしようもないです」と言われました。

叔父は「葬式饅頭を出さないような葬式にはかつて一度も参列したことがない」と憮然としていましたから、冠婚葬祭の地域による違いは様々なのだと思いました。その叔父も鬼籍に入ってまもなく十三回忌です。私の住む東京近郊でよく見かけた返礼品は、お茶かハンカチ・ハンドタオル、それにおきよめの塩のセットでした。

冠婚葬祭、とりわけお葬式は宗教や宗派によって様々なやり方があり、それに地域の風習がプラスされ、みんなそれぞれの「常識」が異なる儀式なのでしょう。

元号が昭和から平成に変わり、二十世紀がまもなく終わろうとする頃、職場のひとまわりほど年上の先輩が、親族のお葬式のために提灯代を十万円以上も出さなくてはならず物入りだと嘆いていたことがありました。お葬式に提灯が必要なのかと思って聞いてみると、親族は未だに素足に草鞋を履いて、提灯を掲げて野辺送りをするのだということでした。島根県の山間部の風習なのだと聞きました。


21世紀の葬儀

平成も半ばに差し掛かり21世紀になると、急速に日常空間から「お葬式そのもの」が姿を消していきました。いつの間にか通夜や告別式も、自宅ではなく、セレモニーホールなどという名称のついた葬儀専門会場で執り行われることが主流となっていました。

街角から屋根をのせた霊柩車が消え、黒白のクジラ幕、指差しマークの貼り紙、それに大きな造花の花輪が姿を消していきました。気がつくと、永代供養、マンション型納骨堂、散骨、樹木葬、家族葬、直送などという言葉もしばしば耳にするようになりました。現役を退いてから既に三十年などというお年寄りの場合に近親者だけで葬儀を執り行うというのが小さな葬儀の始まりだったと思いますが、もはやそちらが主流となった感があります。

高齢化社会だからという理由だけでなく、近年の葬儀の形態は大きく変化してきました。あれほど盛大だった葬儀があっという間に収縮してしまったのは、共同体での葬儀形態が、高度成長期、バブル景気でどんどん膨らみ続け、もうこれ以上は無理となって、突如にパンッと音を立ててはじけて粉々になり、近親者のみの個々の単位で行うことになってしまったように私の目には映りました。

そしてそこに今般の伝染病が追い討ちをかけました。ふと気がつくと、日常生活から「死」が消え、社会的に「弔う」という行為がなくなっていました。

若い頃にはそれほど親しくない友人でも、訃報はかつてのクラスメイトや職場の連絡網などによって届きましたが、近頃ではFacebookや Twitterで知人の訃報を知るようになりました。「葬儀は近親者のみで済ませました、香典・供花・供物などすべて辞退します」という添え書きも珍しくなく、このような場合、敢えて弔問に訪れるのはご迷惑なのかと思い、心の中で冥福を祈るしかありません。

私自身は野辺送りの儀式などの古くからの風習は知りませんが、それでも子どもの頃や若い頃に、日常生活の中当たり前に「死」や「弔い」があった時代を知っている者としては、社会から「死」のにおいが消し去られていくことに一抹の不安を覚えます。江戸時代の村八分でさえ、火事と葬儀は別扱いだったことを思うと、このままの社会ではどこかで大きな歪みが起こるように思えてなりません。

私は子どもの頃から参列したお葬式や、近所で見かけたお葬式、仕事で手伝ったお葬式、テレビの画面を通して見たお葬式など、亡くなった方が近しい人でなくとも、「社会的な弔い」という儀式に触れるたびに「死」に対し様々な想いを巡らせてきました。現代の子どもや若者は、そのような機会から隔絶されていることにすら気づかずに暮らしています。

最近では、何より生前お世話になった方々に最後のお別れをしたいという願いも叶えられず、「死」が限られた遺族だけのものになりつつあります。「社会的に弔う」というおそらく人類の根源的な社会活動が失われていくことに、私は言葉に尽せない思いを抱いています。通夜や告別式のあと、友人・知人・同僚・教え子などが一同に会し、皆んなで故人を偲んで思い出話をしたり、共に涙を流すということは、古来から人の営みとして重要な儀式とされていたと思うのです。

どんどん変化を続ける時代の中で、このような思いはどこへぶつけていいのかわかりません。気がつけば、子どもの頃大人たちは口々に畳の上で死にたいと言っていましたが、今となってはほとんど人が病院のベッドの上で亡くなるようになりました。

近所の子どもが落ちた用水路も、もうとうの昔に蓋がされ暗渠あんきょとなり、その上はレンガを敷き詰めた季節の草花が美しい散歩道となっています。


<再録にあたって>
コロナが5類感染症に移行した後も、私の周りでは葬儀そのものが消えました。誰かが亡くなっても連絡が来ることもなく「葬儀は近親者のみで済ませました」というお知らせをしばらく経ってから目にするだけとなりました。有名人の葬儀も見聞きしなくなりました。中には数ヶ月して別途お別れ会が催されることはあっても、葬儀に参列するということはもはやなくなりました。

気がついたら、同僚が亡くなっても、友人が亡くなっても、心の中で手を合わせるだけの社会になってしまいました。


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